番外編 姉と妹
王宮・謁見の間。
高くそびえる天蓋から差し込む陽光が、玉座の男の金冠と宝飾を照らす。
深紅の衣をまとい、威厳という名の虚飾を身に纏う――ローズレッド王国第12代国王、ローズレッド王。
王は堂々とした仕草で、しかし興味なさげに言葉を放つ。
「よくぞ無事に戻ったな、ジーナ」
「…ご心配をおかけしました、父上。私は無事です」
ジーナは冷ややかな笑みを浮かべ、玉座に近づいて一礼した。
王は一瞬だけ表情を曇らせたが、すぐに芝居がかった笑みを張り直す。
「さて――。この度の騒動、報告してもらおうか。誰が敵で、誰が役に立ち、そして誰が我に叱責されるべきかをな?」
控えていた文官たちが報告書を手に進み出る。
ジーナの隣で跪いているフィギルは、ひとつ深く息を吐いた。
ジーナは王をまっすぐ見据え、毅然と告げる。
「私の護衛団は敵の策略により一時混乱しましたが、最終的には再集結し、私を救出しました。その指揮を執ったのが、このゲルド・フィギル子爵です」
フィギルはより深く頭を垂れる。
「この度の不始末、すべて私の責任にございます。王女殿下の命を危険に晒したこと、万死に値する失態。しかし、僅かながらでも殿下の救出に尽力できたこと、せめてもの――」
「“僅かながら”とな?」
王が鼻を鳴らす。
嘲笑が混じった声が、謁見の間に冷たく響いた。
「王女が攫われたのは、お前の怠慢ゆえ。我としては、爵位を剥奪すべしとの進言を受けておったのだがな?…ジーナが戻らなければ、首も落とすべき、とも」
「それでも――」
ジーナが言葉を継ぐ。
「私の帰還は、フィギル子爵の指揮と、冒険者や村人たちの協力によるものです。この連携がなければ、私はここに立っていません。ゆえに、私はこの一連の行動を“成果”と見なします。よって、子爵の責任を問うことは致しません」
謁見の間にざわめきが走る。
王は唇をゆがめ、肩をすくめた。
「…庇うと?」
「そうではありません」
ジーナは冷たく切り返す。
「フィギル子爵が失脚すれば、その地の領民に混乱が及びます。それを避けたいだけです。フィギル家は先々代よりあの地を管理してきましたから」
「ふむ。まあよい。報告は“事実”として記録させよう。それで王家の威光が守られるのならな」
ジーナは一礼したが、その背筋は冷たく伸びたままだ。
「ただし――」
彼女は声の調子を変える。
「護衛団の一部が、王家の名を盾に村々で強引に振る舞ったこと。その事実について、陛下の裁きを仰ぎます。王家の威光を汚した者たちには然るべき罰を。そして、そんな者を仮にも王族である私の“遊行”の護衛とさせた者たちにも」
王は目を細め、しばし沈黙した。
「…ふむ。処罰を求められては、王として応じねばなるまい。よかろう、粛清を――」
「お待ちを」
その声は、玉座の脇から響いた。
進み出たのは、女神教の枢機卿ルドバ・ザルセイン。
紅と金の法衣をまとい、慈愛に満ちた笑みを浮かべながら、王に進言する。
「陛下。護衛団の中には、我が女神教の信徒の家族も多く、各地にて布教と奉仕を果たしてまいりました。今回の件、確かに過ちはありましたが…どうか命まではお奪いにならぬようお願い申し上げます。女神教としては、彼らの私財を没収のうえ、贖罪の意としたく存じます」
王は一瞬、迷ったように眉を動かしたが――簡単に受け入れた。
「…うむ。枢機卿の進言、しかと受け止めた。ではそのように。“粛清”は控え、財産の没収とする」
ジーナの拳がわずかに震えた。
その様子に気づいたフィギルは、静かに顔を伏せ続ける。
(傀儡もここまできたらただただ無様だ。そしてそれをひた隠そうと偉ぶる…情けない話だ)
王は椅子にもたれ、指をひらりと振った。
「これにて、この件は終わりとする。王家も女神教も威光を保ち、面目も立った。よい結末だろう?」
ジーナは答えなかった。
「最後に、もうひとつ」
彼女は静かに言葉を続ける。
「オルババ村をはじめ、現地の冒険者や自警団の迅速な行動は、私の生還に不可欠でした。それを報告書に明記します」
「…田舎村の手柄など、我の耳に届く話ではないが…まあ、記録するがよい。民の忠義を称える王、というのも悪くはない」
ジーナは答えず、深く一礼した。
「――報告は以上です」
王は何か言いかけたが、ジーナはすでに踵を返していた。
その背中は、誰の威光にも屈せぬまま、まっすぐに伸びていた。
王の玉座と、女神教の影を背に受けながら。
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「お待ちを」
玉座の間を後にし、長い回廊を歩いていたジーナとフィギルの背後に、柔らかな足音が忍び寄った。
「王女殿下、…ご無事の帰還、心より安堵いたしました」
声の主は、新女神教の枢機卿ルドバ。
陽光を受けてほのかに輝く高級な僧衣に身を包み、その顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。
だが、目には冷ややかで計算高い光が潜んでいる。
「教皇様も、殿下の安寧を日々祈られておりましたよ」
「ふふ…それは光栄ね。でも、私を導いてくれたのは“女神様”だったわ」
ジーナは柔らかく返したが、声には揺るぎない芯があった。 その一言に、ルドバの笑みがわずかに引きつる。
「殿下。“今”、女神の御心をこの地に伝えられるのは、教皇様ただお一人。…そのことをお忘れなきよう」
「ええ、覚えておくわ。…でも信仰の対象は女神様でしょ? 違うのかしら?」
真っ直ぐに見返すジーナの瞳に、ルドバは言葉を飲み込み、視線をずらす。
そして話題を切り替えた。
「――それにしてもフィギル子爵殿」
今度はフィギルに向き直り、穏やかな口調のまま言う。
「今回の一件、無事に収束できたのは幸いでした。――とはいえ、これほどの騒動。もっと信仰と献金に熱心であられたなら、防げたかもしれませんね」
「献金、ですか」
(金を払えば庇ったとでも? ガーリン達のように!)
「ええ。我々は日々、祈りと備えを欠かしません。十分なお布施は、その“備え”を強固にし、女神の加護を引き寄せるのです。…王家の威光が届かぬ子爵領においては、殊に」
その言葉には、「あなたのような家柄なら、信仰で補うしかないでしょう?」とでも言いたげな棘が潜んでいた。
フィギルは唇を引き結び、短く頷く。
「肝に銘じておきましょう。我が領地に来る神父様方は、過度に求めたりはしなかったので、甘えておりました」
――出世の見込みがなくなった者たちが行き着く。
そんな者に無駄金をくれてやる気は毛頭ない。
そう返事をしたつもりだった。
「どうぞ。それではお先に。教皇様の光と導きがあらんことを」
皮肉を意にも介さず、ルドバはやわらかく一礼し、音もなく踵を返して廊下の奥へと消えていった。
残されたジーナとフィギルは数歩進んでから、顔を見合わせる。
「…あなた、女神教に喧嘩を売るなんて…正気?」
「気にもされてませんでしたので、喧嘩相手にもならないのでしょう」
フィギルは小さく苦笑した。
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ジーナは静かに回廊を歩いていた。
この宮廷に戻るたび、空気は冷たさを増す。
馴染んだはずの石壁が、今日ほど鈍く感じたことはない。
ふと、足音とは別に、衣擦れの音が聞こえた。
「…無事に戻られて、なによりでした」
立ち止まるまでもなく、その声の主を察する。
リアラ――第4王女。
王が唯一、心から愛した妾の娘。
だがそのことが、彼女を王家の中で孤立させた。
愛された姫。
どの姉とも、どの兄とも違う、異なる色を宿した少女。
その存在を、ジーナは見ないふりをしてきた。
誰かの愛情に触れたことのない自分には、羨ましく、見たくもなかった。
――だが、今日は足が止まった。
振り返ると、細身の少女が静かに立っていた。
白に近い淡い水色のドレス。
飾り気のない金の髪が肩に流れ、小さな両手は丁寧に前で組まれている。
リアラは、微笑んでいた。
「…ありがとう。戻ってこられて、良かったわ」
ジーナがそう言うと、リアラの目がわずかに見開かれ、次の瞬間、柔らかな笑みが深くなる。
「…お姉様が帰ってくると信じていました。女神様に毎日お願いしていたんです」
「…私のために?」
「はい。…私には、それくらいしかできませんから」
その言葉に、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
リアラは儚い。
見ないふりをしてきた子が――。
ジーナは小さく息を吐き、目を伏せる。
「遅れたけど、奇病が治ってよかったわね。女神様のおかげかしら?」
「どうでしょう…? そうなら嬉しいのですが」
少女の声には喜びがあった。
回復したことが嬉しいのか、それとも――話せたことが嬉しいのか。
(…私は今まで、何をしていたのかしら。勝手に嫉妬して、いないものとして扱って…この子には何の罪もないのに)
ジーナは一瞬俯き、顔を上げ、リアラに歩み寄る。
「――ねえ、リアラ。あなた、旧女神教の教えを知ってるわよね?」
リアラは小さく笑顔を見せた。
「はい。でも全部は知りません…。お母様が亡くなってから、教えてくれる方がいなくなってしまって」
その言葉に、俯くリアラ。
ジーナはそっと続ける。
「そう…。じゃあ、知っている部分を教えてくれる?」
「…え?」
リアラは意外そうに顔を上げ、戸惑う。
この国がどういう場所か、幼いながらも痛いほど理解しているからだ。
教皇や枢機卿は、常に彼女の心の隙間に入り込もうとした。
『新女神教を知れば、兄たちも受け入れてくれるはずだぞ?』――そんな甘言とともに。
それでも、リアラは母の言葉を守り続けた。
母が語った“女神の教え”を。
「私、旧女神教の人たちと知り合ったの。…それに、女神様の導きで、大事な人と出会えた」
リアラの目が輝く。
「ほ、本当ですか? そんな人たちが…?」
「ええ。…寄り添ってくれた。救ってくれたの」
ジーナの顔は、大事なことを思い出し、惚気るような顔だった。
「だから、知りたいの。どんな女神様なのか。そして…あなたのことも」
ジーナは手を差し伸べ、微笑む。
「…今までのことは消せない。でも、これからは違う。…あなたが良かったら、教えてくれる?」
リアラはその手を見て、涙ながらに笑った。
「…女神様のおかげですね」
「?」
「私、ずっと願ってたんです。誰かが私を見てくれることを――」
「…私も。私を見てほしかった。願ってはなかったけどね」
――その手は優しく、心地よかった。




