その顔が
朝靄がまだ地を這う頃、オルババ村の木製の柵門が静かにきしんだ。
赤毛の冒険者ライア、そしてイザークたち。
5人とも怪我こそないが、服の端には血の跡が残り、背負った荷は重く沈んでいる。
門の見張りをしていたロッチとボブが、目を見開いた。
「…ライアさんに、イザークたちか? ずいぶんお疲れみたいだけど」
ライアは軽く片手を挙げて応じた。
「ただいま。戻ったわよ。…教会にいるのかしら?」
「おかえりなさい。フィギル子爵も教会にいますよ」
「わかったわ。ありがとう。あなたたちは? ついてくる?」
ライアがイザークたちに声をかける。
ここまでほとんど休みなく歩き続けてきた4人は、さすがに顔に疲労がにじんでいた。
「あー…俺だけ行くわ。3人は休んでてくれ。ライアさんだけじゃ信じられねーだろうし、1人はいかねーとな」
その声に、エリーが答える。
「わかったわ。じゃあ、私たちは休む。ウルとオニクはイザークが借りてる家でいいわよね?」
「…どこでもいい」
「俺は湯浴みしてから休みてーわ」
笑いながら3人は離れていった。
「…じゃあ、行きましょうか」
「おう」
ライアとイザークも教会に向かって歩き出す。
途中、カーラに出くわした。
「あ、イザーク! ライアさん!」
「ずいぶん朝早くから動いてるのね」
「それなんだ? 飯か?」
イザークが、カーラの抱えている荷物に反応する。
「ああ! 森の前にいる自警団たちに渡す用の朝食だよ。交代要員が出発する前に作らなきゃなんねーんだ。…あのさ、アイオンに会った?」
「…会ってないけど、たぶん無事よ。今日中に戻ってくると思う」
「! 本当ですか!? …何で会ってないのに?」
カーラの疑問はもっともだが、ライアは答えに詰まる。勘としか言いようがなかった。が――
「俺たちが捜索してて、そういう痕跡があったんだよ。…でも、まだ広めんなよ? まずはフィギル子爵に報告してからだ」
イザークが代わりに答える。
「…わかったよ。じゃあ、私は行くから!」
言い残して、カーラは駆けていった。
「助かったわ。勘なんて言ったら、殴られそうな目だった」
「あいつ、アイオンのことになると怖いからな。…じゃ、行こうぜ。さっさと終わらせて休みたい」
イザークが歩き出す。
ライアも続いた。
疲れてはいるが、その足取りはしっかりしていた。
#
教会の扉を開けると、レアとベティがすでに起きていて、奥の祭壇を清掃していた。
レアが振り返り、目を見張る。
「あら、おかえりなさい」
「ただいま」
ライアはそれだけ返し、肩の荷をそっと床に下ろす。中身は、ヒュドラから採取した貴重品。
ベティがそっと近づく。
「お疲れ様でした〜。ライアさん、イザークさん。…それはなんです〜?」
「それを含めて、フィギルに報告したいの。まだ寝てるなら、起こしてもらえる?」
まるでその言葉が聞こえたかのように、外から足音が響いた。
入ってきたのはフィギル子爵。
寝間着の上に外套を羽織っただけの姿だが、状況をすぐに悟った様子で近づいてくる。
その顔は、疲れ果てていた。
「戻ったか。……王女はいないということは、見つけられなかったか」
ライアは頷く。
「私たちはね。でも、じきに戻るわ」
フィギルの眉がしかめられる。
「どういう意味だ?」
ライアは軽く笑って答えた。
「こっちが聞きたいくらいだけど、森の中で痕跡を見つけたの。…川と滝の分岐点、かしらね?」
イザークにも声をかけ、話に加わらせる。
「え? …ああ、そうそう。大きい川から村に分かれる支流、あるだろ? そこに、こいつがいた」
そう言ってイザークが背負い荷を開く。中には禍々しい色をした内臓の瓶詰め。
「これ、なに?」
レアが思わず声をあげた。
ベティもフィギルも、怪訝そうな顔をしている。
「驚くなよ?――ヒュドラの内臓だ! めちゃくちゃ高く売れるぞ!」
「「「え?」」」
3人が同時に声を上げる。
ライアが補足する。
「未成熟な個体だったけどね。討伐は済んでたわ。賊も倒されてた。残った死骸は焼いて埋めたけど、しばらく近づかないように村人には伝えておいて」
「…そんな化け物まで放っていたのか? 賊は」
フィギルの声は怒りに震えていた。
「ヒュドラが成長して、南の森では物足りず外に出てたら…この村は、簡単に滅ぼされていたわね」
「こ、怖いですよ〜。…まだどこかにいるんじゃ?」
怯えるレアとベティに、フィギルは即座に動く。
「ミリオン! 村長宅に走れ! バルナバに伝令を! 冒険者ギルドに領土全域の探索を緊急依頼とし、発見優先・戦闘は禁止!」
「は!」
私兵長のミリオンが駆けていった。
「――それで? 誰が倒した? 君か?」
フィギルはライアを見たが、彼女は笑って首を振る。
「違うわ。言ったでしょ? 既に討伐されてたの。でも、王女の痕跡はなかった。助け出されて、今はその人と一緒にいると判断したの」
「…君以外に、そんなことができる者が? 未成熟とはいえ、B級以上の脅威だぞ? ありえない」
「ね? ありえないわよね。冒険譚でしか聞いたことのない奇跡……ね?」
そう言って、ライアはレアとベティに視線を投げる。
「なるほどね。修行の成果が出たってことかしら?」
「傷だらけになって〜何にもなってなかったら、ライアさんの指導力に疑問しか残りませんしね〜?」
2人は何かを悟ったように微笑んだ。
ただ、フィギルだけは理解できずにいた。
「何を言っている? 誰か、心当たりでもあるのか?」
レアが答える。
「この村の住人よ。…アイオン。子爵も会ってるでしょ?」
「…あの少年が? …バカな!」
信じられない話だった。
確かに護衛団を負かしたのはアイオンだが、賊やヒュドラまで…?
「…確たる証拠はあるのか?」
「ないわ。ただの勘よ」
「勘で? それで君たちは戻ってきたと? もう捜索の必要はないと?」
苛立ちの色を隠さずに、フィギルは睨む。
だが、ライアは静かに答える。
「何が起きたかは当人にしかわからないけど、無事だっていう確信はある。…女神様に誓ってね」
その言葉に、レアが小さく微笑む。
「あら? いいのかしら? もし間違っていたら…あなたの食事、抜きにしないといけないわね」
「間違ってると思う? ねぇ、ベティ?」
「いえ〜。私も同じ意見です〜」
「…バカバカしい! 納得できる根拠が何もない!」
フィギルが声を荒げるが、レアが静かに制する。
「フィギル子爵。私たちにできるのは、信じることだけでしょ?なら、願いましょう。無事に2人が戻ってきてくれることを」
「そうだぜ、子爵。あんたにできるのは、結果を待つことだけだ。――てなわけで、俺はもう休む!今日中に帰ってくると思うから、あんたも休んで待ってなよ。そんな顔じゃ、王女様ビビっちまうよ。じゃあ、ベティさん! また!」
イザークはそう言って教会を出ていった。
「…私もいいかしら? 夜通し歩いてきたからクタクタなの。湯浴みしたくて」
「はい〜。どうぞ〜。いつ戻られてもいいように、温めてありますから〜」
「ありがと。…じゃあね、フィギル」
ライアも手を振り、教会の奥へと姿を消した。
「…馬鹿げてる。多少腕が立つ程度の少年が、そんなことを成し遂げた? なぜ信じられる?」
フィギルの呟きに、レアとベティはただ微笑む。
そして、再び祭壇の掃除を始めた。
(…きっと平気…ですよね?)
レアの視線の先には、微笑む女神像があった。
#
――同時刻。
空がわずかに白みはじめた頃、野営地の木々が風に揺れ、小鳥の囀りが聞こえはじめていた。
アイオンは自然と浅い眠りから目を覚ました。
焚き火はほとんど燃え尽きていたが、まだかすかに煙を上げている。
隣で眠るジーナは、穏やかな寝息を立てていた。
口元には、どこか安らぎの気配がある。
(…よく眠れてるみたいだな)
アイオンはそっと上体を起こし、周囲に目を配る。
魔物の気配はない。
深夜にもう一度見回ったおかげか、森は今のところ静かだった。
焚き火のそばに置いていた水袋を取り、喉を潤す。
涼しい空気のなか、夜露の匂いが草葉から立ちのぼっていた。
(…そろそろ起こすか)
アイオンは静かに立ち上がり、ジーナのそばに膝をつく。
声をかける前、一瞬だけためらった。
彼女は王族だ。けれど、こうして焚き火を囲んで眠る姿を見ると、そのことを忘れてしまいそうになる。
「…ジーナ、起きてください。朝です」
肩にそっと触れて揺すると、ジーナがゆっくりまぶたを開けた。
「―ん…もう朝…?」
「はい。…そろそろ出発の準備をしたい。今日中に村まで戻りましょう」
数度まばたきし、ようやく意識をはっきりさせたジーナは、少し照れたように笑った。
「…そうね。慎重に、だったわね」
「そうです。とりあえず、食事して…いろいろ済ませてから行きましょう」
気をつかって言葉を濁す。
この2日で、トイレの話題が非常にデリケートだと学んだからだ。
「…そうね。いろいろと」
ジーナも察してうなずいた。
一瞬、気まずい空気が流れる。
――けれど、この空気も、あと数時間で終わる。
そのことを感じていたジーナは、少しだけ名残惜しかった。
(…攫われてよかった、とは思わない。でも――)
肉とキノコを焼く準備をするアイオンの横顔を見つめる。
少女のような顔立ちの少年。
(…一番、生きてた。この人といた、このたった2日間が…私の人生で、一番)
――輝いて見えた。




