決着
森に、静寂が戻っていた。
ただ、湿った血の匂いと、少女の嗚咽だけが残る。
ジーナは地に崩れ、絶叫の果てに声を失っていた。
目の前には、首を落とされたアイオンの亡骸。
震える手でその体に触れようとして――触れられなかった。
一人が、血に染まったナイフを振って返り血を払う。
「――終わったか」
長剣の男が、ため息まじりに言う。
「ああ。回復魔法も使えねぇだろ。首を落としちまえばな」
杖の男が淡々と呟いた。
「…こいつ、名前、なんて言ってたっけ?」
「アイオン、とか言ってたな。覚えとく価値はあるぜ。後で飲むときの肴にでもな」
長剣の男が口笛を吹きながら、ジーナへと近づいた。
「さて、と。そろそろ行こうか、王女様?」
ジーナは顔を上げない。
「…」
「…おい、聞いてんのか?」
無視された長剣の男が苛立ち、腕を掴む。
だがジーナは、かすれた声で呟いた。
「…アイオンの、剣…どこ?」
「は? 何言ってんだ?」
「彼が…片方、持ってなかった。あれは、ヒュドラに――」
ジーナは突き飛ばすように男を振り払い、ふらつく足で走り出した。
向かう先は――ヒュドラの残骸の傍。
そこに、それはあった。
巨大な魔物の傍に突き立ったままの、一本の剣。
アイオンのもの。
かつて、サミィという賊の一味が使っていた双剣の一本。
「…あった…」
ジーナは膝をつき、その柄を両手で握る。
「…私も、すぐ…行くから」
ジーナの目には、涙すらもう残っていなかった。
その手で剣を持ち、胸元へとゆっくりと構える。
「――これで、いい」
震える声で、誰にともなく呟いた。
「だって…もう…」
長剣の男が慌てて駆け寄る。
「おい待て、バカッ…やめろ!!」
杖の男も動く。
「やらせるな! お前が死んじゃ――!」
ジーナは剣を突き出す――その時だった。
「やめろ、ジーナ!!」
その声に、世界が止まった。
聞き間違いではなかった。
あの声は――
「――え?」
風鳴りが止み、空気が揺れた。
その場の全員が、反射的に見た。
そこに、立っていた。
血の海に沈んだはずの少年。
首を落とされ、完全に死んでいたはずの存在。
――アイオンが。
彼は、確かにそこにいた。
だが、その姿は異様だった。
その身には、傷は見当たらない。
ヒュドラによって失ったはずの右腕すら、戻っていた。
けれど、服だけは破れ、焦げ、切り裂かれていた。
火で焼かれ、剣で裂かれ、ナイフに貫かれた。
ついさっきまでの激闘の痕跡だけが、そこにあった。
それが、逆に恐ろしかった。
「おい、なんだこれ?」
杖の男が、言葉を失う。
「首、落としたよな? 見間違いなんかじゃ、ねぇよな…?」
長剣の男が、震える指で剣を構えながら後ずさる。
ジーナは、アイオンを見つめ、呼吸を忘れていた。
「――っ、アイオン…!?」
その名を呼ぶと、アイオンは微笑んだ。
それは、確かに彼の笑顔だった。
ジーナの目に、再び涙が滲む。
次の瞬間、アイオンの姿が、一瞬で消える。
「――っ!」
杖の男が悲鳴を上げる間もなく――
ザンッ!!
赤い閃光が、彼の胴を裂いた。
「が、があああっ…!!」
血が吹き出し、杖の男が崩れ落ちる。
その顔は驚愕の色に染まっていた。
アイオンは振り返らない。
そのままジーナの元へと一瞬で移動し、彼女の手を握り、剣を取る。
「最後まで、生きることを諦めちゃ駄目です。でなきゃ、死に損になるかもしれませんよ?」
「…なによそれ…本当に、変な人」
「どこが?…いや、そうですね。今の俺はどう見ても変だ」
笑顔に、ジーナは思わず安心してしまう。
「生き返った…? いや…死んでない? でも、首は…!」
「何なんだ、お前は…!?」
リーダー格のナイフ使いが低く唸りながら、構えを取り直す。
だが、アイオンは笑って返した。
「ははっ!化けて出てきただけですよ」
そして、双剣を構える。
「――始めますよ? 最後の勝負」
風鳴りが、殺意を孕んで渦巻いた。
「アイオン…貴様、何者だ!?」
ナイフ使いの男が低く唸る。
ただの少年に見えていたはずのその存在は、今や目の前に立つだけで空気が張りつめる異質な“気配”をまとっていた。
一方、長剣の軽薄な男は、乾いた笑いを浮かべる。
「まあいい。死なねぇなら、死ぬまで殺し続けるだけだ」
カチリ、と長剣を構える音が響いた。
「やるぞ。頭を切り替えろ。…次は切り離すだけじゃ終わらせねぇ。切り刻んでやる」
「……ああ」
ナイフが風を切る音と共に、リーダー格が先に動いた。
低く地を這うように、鋭いナイフが襲いかかる。
同時に、長剣使いが高く跳躍し、アイオンの背後から一閃。
――しかし。
「遅いですね」
ヒュッ、と風鳴りがした瞬間、アイオンは姿を消していた。
「なっ――!」
ナイフ使いの反応も遅れなかった。
飛び退いて距離を取る――が、その一瞬、地面を蹴って跳びかかる影。
「そこだッ!!」
長剣使いの刃が、まっすぐアイオンの背に迫る。
が――
ギィン!!
甲高い金属音。
その刃は、背後も見ずに差し出されたアイオンの双剣に受け止められていた。
「っなッ…」
「甘いですね」
クルリと体を半回転。
アイオンはそのまま、片方の剣を振るい、長剣使いの腹をかすめる。
「ッ!クソッ!!」
後退し、体勢を立て直そうとする軽薄な男。
そこに、再びナイフ使いの刃が迫る。
「――甘いのは貴様の方だ!!」
高速の連撃。
2本のナイフが同時に違う角度から迫る。
だが。
アイオンは、そのすべてを読み切っていた。
最小の動きで剣を振るい、刃と刃とが交錯する音が響く。火花と突風が飛び散り、地面にナイフが跳ねた。
「くっ、なんなんだ、こいつ!」
「ははっ、まさかお前が防戦一方とはな!」
長剣の男が再び距離を詰める。
だがその笑顔には、もはや余裕はなかった。
「今度こそ――ッ!!」
頭上からの鋭い斬撃。
だが――それは、虚空を斬った。
「なっ――!?」
横合いから回り込んでいたアイオンが、低い姿勢から片刃を突き出す。
「――残念でした」
ズブッ――
剣が、腹部を貫いた。
「ぐっ、あっ!?」
それは、軽薄な笑みを浮かべていた男の腹だった。
剣が深く、致命的に刺さっていた。
「が…ハ、は…? 俺が…? こ、んな――バカな…」
男が、よろめく。
アイオンは静かに語る。
「どんなに強気に振る舞おうと、俺に呑まれてましたね。戦いでは、その時点で大きく後れを取ってしまう」
「く、そ…お前…なんなん…だ…」
膝をつき、血を吐きながら、男が崩れ落ちる。
その目が開いたまま、光を失ったとき――
長剣使いの命は、確かに終わった。
「2人、終わりです」
アイオンは双剣を構え直し、残る男――リーダー格のナイフ使いを見据える。
「一対一ですね。さて、覚えてます?」
「…なにをだ?」
「――俺の糧になってもらいますよ」
森の空気を切る風勢が高まり、静まり返った空間に、剣戟の余韻だけが染み込んでいく。
#
リーダー格のナイフ使いは、一歩後ろへと退き、改めてアイオンを見据えた。
「……なるほどな」
重い沈黙のあと、男が静かに口を開く。
「手を出してはいけない、“本物”があんな村にいたって事か」
アイオンは黙って構えを崩さない。
「最初に見たときは、多少できる程度にしか見えなかったんだがな」
男の声には、僅かな震えが混じっていた。
だがそれでもなお、意地のように冷静を装っている。
「首を落としても死なない。ヒュドラの毒も効かない。傷もない。あげくに…確かになかった右腕まで戻ってやがる」
「……」
「なあ、ガキ。ひとつだけ教えてくれ」
男が、ナイフを構えたまま一歩、踏み出す。
「――お前、本当に人間か?」
沈黙。足元で風が擦れ、乾いた葉を鳴らす。
「…いや、答えなくていい。どんな答えでも…恐ろしい」
男は乾いた笑いを浮かべた。
「だが一つ、ハッキリしている。俺の方がまだ上だ」
ナイフが、夕焼けを反射してきらめく。
「だからやるさ。最後までな…たとえ、相手が――“化け物”でも」
その言葉に、アイオンが口を開く。
「…違いますよ」
「は?」
「俺は――ただの村のガキです」
静かな声。だが、その奥には深く、冷たい意思があった。
「ただ村を守るためにここに来た、それだけの普通の人間です。だから、これはあなた達の行動の結果に過ぎない」
「…!」
「だから―ただのお返しなんですよ」
双剣が、構え直される。
「あなた達の行動の結果に対する、お返し。わかります?……今日までのフィギル地方に出たであろう魔物被害。これからも出るであろう魔物被害。ジーナに対する暴言の数々。…その全てをまとめて―」
風鳴りが一段高くなった。
「返します!!」
――次の瞬間、地面を抉る衝撃とともに、アイオンが疾走する。
リーダー格のナイフ使いも、すでに構えていた。
「来い!化け物ッ!!」
そして、最後の戦いが始まる――
突風が彼の足元を巻き上げ、荒れ狂う渦となって地面をえぐった。
「っ…!」
ナイフ使いの男は反射的に後退する。
巻き上がった土と葉が視界を曇らせた。
「――まだ扱い慣れていないな!」
冷静な声が、混乱を裂くように響く。
「ええ、正直、全然コントロールできてません」
アイオンは苦笑交じりに答える。
だが、その目は真っ直ぐに冷たく光っていた。
「それでも、やらなきゃいけないので!」
次の瞬間、風鳴りが弾けた。
ドンッ!
地面から噴き上がる爆風が、アイオンの体を強引に跳ね上げる。
それは“飛ぶ”というより、“弾き飛ばされた”ような軌道だった。
「――っ!」
ナイフ使いは即座に身を翻し、数歩後退する。
しかし、そのわずかな“遅れ”こそが命取りだった。
「――いきますよ!」
空中で身体をひねりながら、双剣が斜めに振り下ろされる。
「雑だが…速い!」
ナイフ使いは刃を交差させて防ぐ。
ギィン!!
火花が激しく散る。
力任せに叩きつけられた双剣の一撃に、男の足元がズリッと滑った。
「っ…だが、粗が多い!」
体勢を立て直し、脇腹を狙ってナイフを突き出す。
――だが、アイオンの姿はすでに消えていた。
「…な――」
再び、背後で風が擦れる。
乱れた風圧に押されるように、アイオンが飛び込んでくる。
「まだ…!」
ナイフ使いは咄嗟に防御姿勢を取る。
アイオンの剣が激しく叩きつけられ、男の両腕が痺れるように重くなる。
その瞬間――
アイオンが右足を後ろに引き、地面に風を集中させる。
「まだ…うまくいかない、けど――!」
叫びとともに、力を解き放った。
バンッ!!
爆発するような風圧。
土煙が吹き上がり、目くらましのように辺りを覆う。
「くっ――!」
視界が一瞬、完全に奪われる。
「ここだ!!」
その土煙を割って、アイオンの声が響いた。
次の瞬間――
「この距離は――俺の間合いだ!!」
風を裂く一閃が走った。
「――ぐぁっ!」
ナイフ使いの体が、血飛沫を撒き散らしながら吹き飛んだ。
よろめきながらも、彼は最後まで武器を手放さなかった。
だが、深く刻まれた一閃により――その足は、もう動かない。
「…見事、だな」
膝をつきながら、男が静かに呟く。
「風も、剣も…荒削りだが、確かな力がある…」
「恐縮です。でも――」
荒い息をつきながら、アイオンは剣を構えたまま答える。
「勝ったのはこの一度だけです。…あなた方には二度殺されてます。今回でさえ、動揺したあなた達の隙をついただけ。…普通は一度で終わりですし、運が良かっただけですよ」
「…運か…見放されたのは…俺か…」
それきり、ナイフ使いは何も言わなかった。
そして、静かに地面へと崩れ落ちる。
――静寂。
吹き荒れていた風も、ようやく静まった。
双剣を手にした少年が、ただ一人その場に立つ。
足元には、誰もいない。
勝負は、終わった。
森には再び静けさが戻っていた。
夕暮れの空が茜に染まり、葉の隙間からこぼれる光が、乾いた地面を照らしている。
その中心に、2人。
アイオンはゆっくりと双剣を鞘に収めた。
ジーナは何も言わず、彼を見つめていた。
涙の跡が、その目元にまだ残っている。
沈黙のまま、時間が流れる。
やがて、ジーナが口を開いた。
「…あなた、本当に…アイオンなのよね?」
アイオンは少し視線を落とし、やがて微笑む。
「はい。俺は俺です。そこに変わりはありません」
「でも…あんな傷を負って、生きてるなんて…。だって、首が…」
「う〜ん…まあ、そうなんですけど」
「…なに?」
アイオンは少し考えてから、口を開いた。
「忘れてくれませんか?」
「…は?」
思わぬ言葉に、ジーナの目が丸くなる。
「どう答えても、きっと伝わりません。なので、誰にも言わず、忘れていただければ…」
俯きながら、アイオンはまるで叱られている子どものように答える。
その姿を見て、ジーナが返す言葉は一つだった。
「…わかったわ。じゃあ、助けてもらった借りは、それで帳消しってことでいい?」
アイオンは微笑み、頷く。
「ええ、それで!」
ジーナも軽く頷いた。
「では、完全に夜になる前に、安全な場所へ行きましょう。もう賊はいないでしょうけど、ヒュドラみたいな化け物が出ないとは限りません」
「…いないわよね?」
「わかりませんよ? さ、行きましょう」
剣を収めたアイオンは、そっとジーナに手を差し出す。
「…子どもじゃないんだけど」
「…すみません。癖でつい」
慌てて手を引っ込めるアイオン。
そんな姿を見て、ジーナがふっと微笑む。
「まあいいわ。エスコートしてくれる?」
そっと、手を差し出す。
「…喜んで」
その手を握るアイオン。
2人は戦いの場を背に、森の奥へと歩き出す。
沈黙は続くが、それはどこか心地よい静けさだった。
ジーナは、握る手の感触と、アイオンの背中を交互に見ながら歩いていた。
(…冷たい手。でも、なんでだろう。すごく――)
風が静かに吹き抜ける。
夕暮れの光が、2人の影を長く地面に伸ばしていた。




