諦めない
「ついた。分岐点だ」
川が二手に分かれ、森がわずかに開けた場所。
記憶と完全に一致するその地形に、アイオンは目的地へ到達した確信を得る。
安堵の息が漏れかけた――その瞬間だった。
――重く、圧し掛かるような気配。
「……下がってください」
即座に双剣に手をかけるアイオン。
――空気が変わった。
風は淀み、木々はざわめきを止める。
鳥も獣も声を潜め、小さな命の気配すら消えていた。
(なにか…いる。この空気、この圧…)
突如、樹々が裂けるように爆ぜた。
その隙間から、巨躯が這い出る。
黒ずんだ鱗、濁った双眼。
地を這う胴体からは、ねじれるように伸びた2本の蛇の首。
その魔物が姿を現しただけで、森は沈黙に包まれた。
「ヒュドラ!?」
アイオンの額に、冷たい汗が流れる。
――ヒュドラ。
成体ともなれば全長10メートルを超え、頭部は5つ以上。
それぞれが独立して獲物を狩り、致命傷を負っても再生する。
森をなぎ倒し、咆哮一つで小魔獣の群れを散らす、災厄の象徴。
A級、時にS級ともなる死の化身。
だが、目の前に現れた個体は――
(首は2つ、背の棘も未発達。鱗もまだ薄い……骨格も完成してない。未成熟体だ)
それでも体長は5メートルほどある。
アイオンの数倍はあるその巨体が、こちらを睨み据えている。
「なんでこんな場所に…あの賊たちか!」
歯噛みしつつ、双剣を握り直すアイオン。
全身に魔力を巡らせる――体内魔法、身体強化を限界まで引き上げる。
筋肉が軋み、視界が研ぎ澄まされる。
「逃げてください!」
「なっ…でも――!」
「いいから!!」
その叫びと同時に、一本の首が地を薙ぎ払うように襲いかかる。
避けきれない。
アイオンは咄嗟に刃を交差し、防御に転じる。
――轟音。
「ぐッ!」
衝撃が腕から背骨を貫き、膝をつきながらもなんとか踏みとどまる。
「くそっ!」
左右の首が連続して襲いかかる。
アイオンはその隙間を、身体強化による超反応で滑り抜け、双剣を一閃。
腹部の鱗をかすめ、浅く裂く。
「硬――けど、通る!」
未成熟な鱗の継ぎ目――狙えば斬れる。
だが――
正面の首が大きく口を開いた。
噴き出す、濁った毒の霧。
「くっ――!」
避けきれず、皮膚が焼けるような痛み。
肺が軋む。視界がぐにゃりと揺れる。
「アイオン!!」
ジーナの悲鳴が、森に響く。
倒れてなどいられない。
「まだ、終わってない!」
足元に風を巻く。
体外魔法――風の魔力を、わずかに足へ。
未熟な制御。出力を誤ればすぐに魔力は尽きる。
それでも――跳躍の補助に。
――空を裂いた。
首が二本とも上を向いた刹那、アイオンは背後へ。
渾身の力で双剣を叩き込む。
ヒュドラが唸る。だが止まらない。
返すように、傷を負いながらも突進してきた。
「ッ――!」
回避が、間に合わない。
一瞬、ジーナを見てしまった。
不安げな顔に、思わずアイオンは微笑んでしまった。
次の瞬間――首の一撃が、彼を穿った。
「きゃあーッ! アイオン! アイオン!!」
ジーナの絶叫が、森を裂く。
アイオンの体が吹き飛び、地を転がる。
右腕――肘から先が、なかった。
血が地面を濡らし、川を赤く染める。
それでも、彼は顔を上げた。
「まだだ!」
左手だけで剣を握り、よろめく体を立て直す。
気力と魔力、残されたすべてを――身体強化へ。
そして足元に風を、最大限展開。
再び跳ぶ。
片方の首を斬り落とし、心臓の位置を正確に見極め――
「うおおおおおおおッ!!」
――貫いた。
ヒュドラの身体が痙攣し、残った首が崩れ落ちる。
巨体が地に倒れ伏した。
勝った――だが、それだけ。
アイオンは崩れ落ちるように膝をついた。
血が止まらない。
熱と痛みが全身を焼く。
それでも、ジーナが駆け寄ってくる姿が見えた。
「アイオン!! 腕が…ッ!」
ジーナが彼を抱き締める。震えながら、涙をこらえきれずに。
袖を裂き、止血処置を施す。
「…生きてます。二人とも…それなら…」
「もう、もう喋らないで!」
「驚いたよ……まさか、あれを一人で仕留めるなんてな」
「全くだ。とんでもねぇ英雄様だ」
「今死なれるのが惜しいくらいだが……仕方ねぇな」
静かに、しかし明確な悪意を孕んだ声。
ジーナが身を固くする。
そこにいたのは――あの三人の賊だった。
#
「…撹乱は失敗だったって、ことですかね?」
アイオンは震える体でジーナをかばうように後ろへ下げ、3人に問いかける。
同時に回復薬を飲むが、即効性はない。
しかも、欠損した右腕も当然戻らない。
リーダー格の男が、冷静に答えた。
「いや、引っかかったよ。だが、その上で賭けたのさ。お前が知っている森の範囲がすべてじゃないってことに。……オルババへの川路を目処に、計画を立てるんじゃないか?とね。
もし我々が負けていたら、ヒュドラに襲われていたのはこちらだった。あれほど育っているとは計算外だったが……賭けに勝った。そして満身創痍のお前が、今こうして目の前にいる」
杖を持つ男が、冷たい声で続けた。
「――ここまでだ。どれだけ粘っても、もう限界だろ? お揃いになったし、俺の溜飲は多少下がった。もう諦めな」
血に濡れた地面の上。
片腕の少年が、なおも立ち続けていた。
それだけで、もう奇跡だった。
軽薄な長剣の男が、肩をすくめて笑う。
「ほんと、何者だよお前? ただの村のガキが、そこまでの根性見せるなんて信じられねぇよ」
「よくやったよ、坊っちゃん。でもな――英雄は、死んで終わりだ」
ジーナが震える手で、アイオンの肩を掴む。
「お願い……やめて。もういいの!」
その声に、二人の賊が小さく笑った。
「ようやく、王女様らしい声を出したな」
「私を連れて行って……! だから、彼は……!」
ジーナの声は震えていた。
けれどその瞳は、真っ直ぐに賊を見据えていた。
「彼は関係ないでしょ? あなたたちの望みは、私とフィギル子爵。彼は、ただの――」
リーダー格の男が、表情ひとつ変えずに口を開く。
「無理だな。こちらの目的を知ってしまった以上、生かして返すわけにはいかない」
「ジーナ、やめろ」
アイオンが低く唸るように言う。
「言ったでしょ? 俺はあなたのためにやってるんじゃない。村に火の粉がかかるのを防ぐためにやってるんです」
「でも、あなたがこれ以上、血を流す理由なんて、ない」
「――それでも」
その瞬間、アイオンは片腕で剣を前に突き出した。
剣先は、賊を真っ直ぐに捉えている。
「後味の悪い結末なんて、見せたくない。あがいて、あがいて……生き抜く。それが今世の意味だから」
ジーナの目が大きく見開かれる。
「諦めて生きるのは、もう見せたくない。たとえここで死ぬとしても、俺は最後まで抗う」
今にも崩れそうな体。
それでも、足は一歩も引いていなかった。
「俺は、俺を二度と裏切らない」
片腕で支える剣はぐらついている。
顔には汗と血が流れていた。
それでも、目だけはまっすぐ敵を睨み据えていた。
リーダー格の男が、ほんのわずかに口角を上げる。
「……本当に勿体ないな。その気概と技術に、経験が合わされば、本物の英雄になれたかもしれないのに」
「……安心してください」
「……? 何がだ?」
アイオンは、ニヤリと笑った。
この絶望的状況をものともせずに。
「俺は、あなたたちの命も糧に……進んでいくだけだ。これから先も」
長剣の男が、面白がるように笑う。
「ははっ! ここまできたら、本物のバカだぜ!」
「なら遠慮なく、腕の借りは返させてもらう!」
杖の男が魔力を集める。
再び、戦いの気配が森に満ちていく――。
アイオンの肩が上下し、呼吸は荒れ、血で濡れた顔が歪む。
リーダー格の男が、ナイフを回しながら手の甲でピシャリと打ち鳴らした。
「多少は回復したか? 始めるぞ?」
「いつでも――!」
アイオンが、ぐらつく体をなんとか支え、再び剣を構えた。
「俺は、生きる」
その目に宿るのは、恐怖でも怒りでも憎しみでもなかった。
ただ――守ろうとする意志。自分の信念を。
――生きる意味を。
「――なら、いくぞ」
最初に動いたのは、杖の男だった。
「燃えな!」
火の紋章が空を走り、炎の束が地を這うように放たれる。
咄嗟に跳んで回避――しかし、着地が甘い。
ふらついた足で地を踏むと、即座に。
「はい、そこ!」
長剣の男が、すでに目前に迫っていた。
「一丁、舞ってみようか!」
金属の閃きが、正面から振り下ろされる。
剣で受けるが、片腕を失っているアイオンには押し返す力がない。
歯を食いしばり、なんとか軌道を逸らす――だが。
「甘いな」
リーダーの男が背後に回り、ナイフを下段から喉元へと狙って突き上げる。
(まずい――!)
地を蹴る。
僅かな魔力をすべて足元の風に集中させる。
風魔法――未熟な制御では破綻の恐れもある。
それでも、足を動かすために。
「はぁあああっ!!」
跳んだ。
ナイフが首筋を掠め、風を裂く。
そのまま地面に転がり、間合いを取る。
――だが、もう限界だった。
片膝をつき、息が切れる。足が動かない。
それでも、ジーナの方は振り返らなかった。
「どうした?……俺は、まだ立ってるぞ?」
「……本当に惜しいな」
リーダーが一歩踏み出す。
「だがこれが――お前の、限界だッ!!」
その叫びとともに、3人が同時に動いた。
火が、上から降る。
長剣が、横から迫る。
ナイフが、正面から突き上げる。
防げない。
避けられない。
殺される。
「アイオンッ!!!」
ジーナの叫びと同時に――
アイオンの身体が、炎に包まれ、剣に貫かれ、ナイフで裂かれた。
彼の意識が、白く塗り潰されていく。
最後に見えたのは、泣き崩れるジーナの姿。
剣が、彼の首元へと振り下ろされる。
――その身と首は、地に落ちた。
「いやあああああああああッッ!!!!!」
ジーナの絶叫が、森中に響き渡った。
空は、静かだった。




