追われる者
淡い光が東の空に差し始めていた。
洞窟の入り口から覗く空は、藍を含んだ灰色に染まり、木々の間から朝の光がじわりと滲み出している。
静かな夜が、ようやく終わろうとしていた。
アイオンはずっと起きていた。
焚き火の火はすでに消え、燻った灰の中にかすかな温もりを残すのみ。
岩にもたれた姿勢のまま、彼は夜をやり過ごした。
やがて、ジーナがわずかに身じろぎし、丸めた外套をぎゅっと抱きしめるように動く。
「…ん…」
微かな寝息が止まり、まぶたがゆっくりと開いた。
目が合うと、ジーナは一瞬きょとんとした表情を見せ、それから小さく眉を寄せる。
「…あなた、ずっと起きてたの?」
アイオンは静かに首を振って申し訳なそうに答えた。
「いえ。気づいたら自分も眠っていまして。さっき慌てて目が覚めたんです。…なにもなくてよかった」
―こんなにわかりやすい人がいるのだろうか?
「…嘘が下手ね。ごめんなさい、足手まといにしかなれないわ」
申し訳なさそうに俯くジーナに、アイオンは穏やかに返す。
「謝ることなんて、なにもありませんよ」
その声音は淡々としていながら、どこか優しかった。
ジーナは何かを言いかけ、それを飲み込む。
そしてゆっくりと起き上がり、外套の埃をはたいて小さく息をついた。
「…ありがとう」
「感謝されるほどのことじゃないです。寝てしまいましたし」
ジーナは小さく笑った。
昨日より、少しだけ素直な笑みだった。
「…そうね。でも、やっぱり…ありがとう」
森の冷気はまだ肌を刺すように残っていたが、空気は夜とは違っていた。
どこか澄んでいて、微かな希望を含んでいるような、そんな空気だった。
「すぐに出発します。昨日話した通り、川沿いを下って分岐点を目指します。そこまで行ければ、あとは俺の知っている道です」
「うん、わかった。ちゃんと、ついていくから」
ジーナは外套を整え、小さく伸びをして表情を引き締めた。
アイオンも荷を背負い、洞窟の外へ視線を向ける。
木々の隙間から朝日が差し込み始めていた。
冷たさはまだ残っていたが、それでも確かに世界は動き出している。
「行きましょう。足跡はなるべく残さず、慎重に」
「うん」
二人は言葉を交わし、歩き出した。
小さな足音だけが、朝の森に吸い込まれていった。
追われる旅はまだ続く。
けれどその足取りは、昨夜よりも少しだけ軽やかだった。
#
川のせせらぎが、途切れなく耳に届いていた。
水音は穏やかで、時折小さな飛沫が岩に当たってはじける。
朝靄がまだ残る川沿いの森は、しっとりと湿り気を帯び、静けさと冷たさを併せ持っていた。
アイオンは先頭を歩きながら、周囲を警戒しつつ地形を確かめていた。
枝葉を踏まぬよう音を立てず、慎重な足運びで進む。
後ろからついてくるジーナも、彼を見習うように小さく息を殺して歩く。
表情にはまだ緊張が残っていたが、必死に歩幅を合わせようとしているのが伝わってきた。
「川沿いの方が、歩きやすいの?」
ふと、ジーナが小さく問いかける。
声は抑えられ、周囲に響かぬよう配慮されていた。
「地形が把握しやすい。道を失っても、川が導線になる。背を預けられる地形があるだけで、警戒すべき方向を絞れます」
「なるほど…」
アイオンは立ち止まり、地面を見つめた。
「…獣道があります。誰かが通った痕ではないですが、人の手が入ってない分、足跡は残りやすい」
そう言って小石をどけると、柔らかな湿土が露わになった。
その上を慎重に一歩、踏み出す。
「こういう場所は、なるべく避けてください。痕跡を残せば、追跡されやすくなる」
「わかったわ」
ジーナは頷き、アイオンの足取りをなぞるように進んだ。
草むらをすり抜け、踏み跡を残さぬよう細心の注意を払っている。
「昨日は、煙と火で撹乱してくれたのよね?」
「ええ。いくつか痕跡も偽装してきました。足跡は繋がっていませんし、煙の流れも不自然なはずです」
「それでも、追ってくると思う?」
「ええ。あの仕掛けは、“二人とも無事だ”と知らせているようなものです。…俺ひとりならそんな事はしませんし」
ジーナの表情が、わずかに曇る。
「…そうよね」
「…ただ、もう一つ意味があります。森に入ってる人間が煙に気付き、しかもそれが意図的に消されたと分かれば…こちらに来てくれるかもしれません」
「…ライアさん?」
「ええ。彼女が来てくれれば、賊の相手は押しつけられる」
「押し付けるって」
思わず笑ってしまうジーナ。
「問題は、彼女がこの森に詳しくない事。なので、あまり期待はしないでください」
「…わかったわ」
その返事には、何かを噛みしめるような響きがあった。
アイオンはそれ以上言わず、前だけを見据えて歩を進めた。
鳥の声はまだ少ない。
だが、森の中は確かに朝へと向かっている。
梢の間から差し込む光が、湿った葉を照らし、小さなきらめきを作っていた。
(…まだ敵の気配はない。今のところ順調だ)
だが、油断はしない。
川の分岐点までは、まだ距離がある。
静かに、慎重に。
その一歩一歩が、生き延びるための道だった。
#
獣の気配に、空気がわずかに変わった。
アイオンはすぐに立ち止まり、右手でジーナの前に腕を伸ばす。
彼女も何かを察し、小さく息を呑んだ。
「…来る。茂みの奥、2体。軽い足音と、跳ねる気配。ホーンラビットとウルフだな」
川沿いの森は、魔物が出やすい地形だ。
だからこそ、最初から警戒は怠っていない。
アイオンは静かに双剣を抜く。
朝の光が刃をかすめ、青白い光が一瞬、森に浮かんだ。
「ここから動かないでください。視界を保って。万が一接近されたら、大きな音を」
「…わかった。気をつけて」
軽く頷き、アイオンは一歩前に出た。
次の瞬間――茂みが爆ぜる。
飛び出したのは体長半メートルほどのホーンラビット。
額から伸びた鋭い角を突き出し、一直線に突進してくる。
「――遅いな」
低く呟き、アイオンは滑るように身をかわす。
直後、右手の剣が横へ薙がれた。
刃が白兎の背をかすめ、赤いしぶきが朝靄に滲む。
奥から、獣の唸り声。
「…やっぱり来たか」
草を押し分けて現れたのは、灰色のウルフ。
鋭い牙と濁った瞳を向け、低く唸りながら間合いを詰めてくる。
ホーンラビットは跳ね回り、背後に回り込む動き。
ウルフは正面からにじり寄る――連携を取るつもりらしい。
「ちょっとは頭を使ってるってか」
そう呟き、アイオンは身構えを低くした。
次の瞬間――地を蹴る。
ホーンラビットの動きより先に、ウルフの間合いへ飛び込んだ。
「――ッらぁ!」
右の剣が、首筋を狙って振るわれる。
ウルフがギリギリでそれをかわし、前脚を振り上げた瞬間には、すでにアイオンの姿は背後にあった。
左手の刃が肩口を裂く。
悲鳴混じりの唸り声とともにウルフが後退。
その隙を狙って、ホーンラビットが跳びかかる――
「そっちは後だ!」
振り返りざま、逆手に構え直した刃が跳ねる影を地面へ叩きつけた。
鈍い音とともに、ホーンラビットが地に伏す。
止めを刺し、アイオンは双剣を引いた。
「…ふぅ」
肩を落とし、刃をひと振り。返り血を地に落とす。
ウルフは傷に怯み、距離を取ったまま退いた。
それ以上追わず、アイオンは静かに戦場の終わりを見極める。
やがて、ジーナが岩陰から姿を見せた。
その表情に安堵と、わずかな恐れが混ざっている。
「無事? 怪我は…」
「大丈夫です。逃げてくれて助かりました」
双剣を収めながら、アイオンはホーンラビットの死骸を確認する。
若い個体だが、肉は悪くない。
「これは使える」
ジーナが、そっと近づく。
「…解体するの?」
「すぐに。放置すれば他の魔物が寄ってきます」
そう言って、地面に布を広げ、ナイフを抜く。
皮を裂き、内臓を取り除き、静かに手際よく処理していく。
「すごい。慣れてるのね」
「何度もやってるだけです」
血を極力散らさぬよう注意しながら、必要な部位を丁寧に切り出す。
やがて、綺麗に整えられた肉片が布に包まれる。
森の湿った空気に、微かな血の匂いが残った。
作業を終えたアイオンは、肉を荷にしまい、ジーナに目を向けた。
彼女は岩に腰をかけ、不安げに両手を握っている。
「焼かないの?」
控えめに尋ねる声に、アイオンは川で手を洗いながら首を横に振った。
「今はまだ。火を使えば、煙で居場所が割れる可能性がある」
「…そうよね。ごめんなさい、無理に聞いたわけじゃないの」
「わかってます。俺も空腹ですし」
苦笑しつつ、アイオンは小さな布包みを取り出し、彼女に差し出す。
「昨日のうちに炙っておいたキノコと、道中で採れた果実です。少しでも持たせられれば」
「え?」
ジーナは驚き、布を開いた。
甘酸っぱい香りの果実と、香ばしく乾いたキノコが数片。
「…ありがとう。ちゃんと準備してたのね」
「出来る範囲で、です」
ジーナは微笑み、小さく頷いた。果実を一粒口に運びながら、ふと尋ねる。
「今日中に、どこまで行けそう?」
「うまく進めば、夕方までには川の分岐点に着ける。そこまで行けば、俺の知っている地形と繋がる。安全な休息地もある」
「分岐点…」
ジーナは呟き、果実の甘さに目を細めた。
「焦らずに行きましょう。ただ、少し頑張ってほしい。あそこまで辿り着ければ、焚き火を使える場所もあるし、食事ももう少しまともなものができる」
「…うん、頑張るわ」
そう言って、彼女は立ち上がった。まだ体の芯に疲れは残っているはずだが、その足取りには覚悟があった。
「無理はしないでください。何かあったらすぐに言って」
「…ありがとう。本当に」
川沿いを渡る風が、森の空気を撫でる。
霧をまとった光が、木々の隙間から地を照らしていた。
そしてふたりは、再び歩き出す。
腹にわずかな空腹を抱えながら――
分岐点という名の道標へ向かって。
―そして、脅威に向かって。




