幕間 方針
ジーナの寝息が、微かに岩肌に響いていた。
焚き火のぬくもりに包まれながら、彼女は丸めた外套を抱くようにして横になっている。
まだ浅い眠りなのだろう。
ときおり眉がわずかに動いていた。
アイオンはそっと視線を向けると、再び洞窟の外の気配に耳を澄ませる。
(…静かだ)
森を抜ける風が、蔦をわずかに揺らす。
虫の音は少ない。まだ気温が低く、獣たちの動きも鈍い時間帯だ。
アイオンは背を岩に預けたまま、ゆっくりと息を吐く。
(これから、どう動くべきか)
ひとまずジーナは無事だ。食料も最低限は確保できている。
だが、賊はまだ動いている。
目的が何にせよ、ジーナを狙っているのは明白だった。
(ジーナは何か知っているかもな……聞いておけばよかった。でも、聞いたところで“守って村に帰る”って方針は変わらないし、意味ないか)
ジーナの体力も心も、今はまだ長距離の移動には耐えられそうにない。
(デオール領に賊は向かってた。といっても、街や村は近くにない。恐らくどこかで賊の一味が待機してるはず…そっちにいくなら、オルババに戻った方がいい)
オルババ村に戻れば、フィギル子爵もいる。
彼の私兵や冒険者たちも恐らくいるはずだ。
安全性は高いはず。
(問題は、ルートだな)
川を下れば、やがて滝に近づく。
その手前の分岐点まで辿り着ければ、地形は把握している。
あとは森の中の小道を使い、少しずつ村へ戻ればいい。
(最短でも村まで2日はかかる。広い森ではないんだけど…慎重に進むべきだ)
途中で賊と遭遇する可能性もある。
だが、手は打ってある。
焚き火の痕跡と煙の流れが、少しでも混乱を誘ってくれれば――
ぱち、と焚き火が小さくはぜた。
ジーナが身じろぎする。
アイオンは反射的に視線を向けたが、彼女はただ寝返りを打っただけだった。
(急に誘拐されたんだ。賊のところで休んだとしても、気なんて休まらなかっただろうな)
アイオンはそっと腰を上げ、洞窟の入口へ歩を進める。
蔦の間から覗く夜の森は、淡くぼんやりとしていて、まだ眠っているようだった。
静かに、深く、冷たく――
それでも、どこか優しい夜だった。
(夜が明けたら移動する。こんな場所、そうそうあるとは思えない。女神の干渉に期待しすぎても駄目だ)
アイオンは小さく息を整えると、岩の影に腰を下ろし、目を閉じて気配に集中する。
(命のストックにも期待しすぎるな。……驕るな。現状で切り抜ける道を探せ)
眠らず、油断せず。
けれど、ほんのひとときだけ――焚き火の灯りに背を預けて。
夜はまだ、深かった。
#
夜の森に、白く濁った煙が漂っていた。
湿った枝を燃やしたせいか、くすぶるような匂いと白煙が立ちこめ、視界を曇らせている。
その中を、3つの影が慎重に歩を進めていた。
「チッ、また煙かよ。どんだけ焚いてんだ、あのガキ」
先頭の男が、苛立ちを隠そうともせず舌打ちを漏らす。手で煙を払いながら、鼻を鳴らすように呟いた。
「にしても、こっちも火の跡多いって言ったのお前だよな? 結局どれもハズレじゃねぇかよ」
「火の回り方だって自然だったろ? 枝の組み方も崩れてなかったし、誰だって騙されるって!」
「騙されっぱなしで済むかってんだよ。くそ!」
煙の向こう、さらに進んだ先で乾いた音が鳴る。
――バキィン!
突如、足元の枝が爆ぜ、近くの茂みが不穏に揺れた。
「っ…なんだ、またかよ! 雑魚のくせに!」
不意に飛び出したのは、牙を剥いた獣型の小型魔物――ウルフだった。
森に元から棲む種で、生息域が変化し、ここまで出てくるようになっていた。
男が剣を抜き、すばやく一閃。
だが魔物は茂みの奥へ逃げ去る。
「畜生! こっちは人探してんだよ!」
怒りをあらわに、枝を蹴り倒す。
火を点け、煙を撒いたのも、すべては自分たちを惑わすための罠だった。
そのすぐ後ろで、リーダー格の男が短く息を吐いた。
「わざとだ。煙と匂いで、魔物も俺たちも引っかかるように仕組まれてる」
「わかってんだよ! だが一体いくつ仕掛けたら気が済むんだ、あのクソガキ!」
苛立つ気配の中、もう一人の男が静かにしゃがみ込み、地面を観察する。
「足跡は、こっちへ流れてる。踏み跡は薄いが、確かに続いてる。火と煙の分散で惑わせてはいるが、足運びには意識がある。無意味な動きじゃない」
「ってことは?」
「地形を知ってる。あるいは、目的地がある。――この先、川の分岐があるはずだ。村へ向かうなら、そこを越える」
「まぁ、オルババに住んでんなら俺らより詳しいかもしれねぇが、そんな単純なルートを選ぶか?」
「全ての地形が頭に入ってるかはわからん。正直、これは賭けだ。……立場が逆転したな。追う者と、追われる者」
「なんでちょっと楽しそうなんだよ! こっちは右腕斬られてんだぞ!」
「それはお前の油断だ。しかし…楽しい、か。正直、そうかもしれないな」
「あぁ? ふざけてんのか?」
長剣の男が凄むが、ナイフの男は涼しい顔で言い返す。
「上物だと、お前らも理解してるだろ?…命を確実に奪ったはずなのに、一瞬で回復して激流に飛び込み、とんでもない魔法を使って逃げ切った。そして今もこうして撹乱してくる。並のガキじゃない」
「…そりゃそうだ。正直あと数年もすれば、3対1でも勝てねぇと思うぜ。足りねぇのは経験だけってやつだろ」
「体外魔法も、まだ完全には扱えてないようだった。体中の魔力を全部ぶっこんで、無理やり起こしたって感じだ。適切な使い方を覚えたら…こえーよ。“瞬迅”なんて目じゃねぇ冒険者になるんじゃないか?」
2人は憎々しく思いながらも、それでも素直に褒めた。
「そんな奴が相手だ。楽しくなっても、仕方ないだろ?」
「まぁ、わかるけどよ…」
ナイフの男は笑う。
「若い才能を潰す。これほど楽しいことはない。…方針を決めるぞ」
――しばらくして三人は再び動き出す。
煙が薄れた隙を縫い、足跡を追って。
獣の唸りが、まだ遠くでくぐもって聞こえていた。
夜の森は、静かに、しかし確実に彼らを惑わせようとしていた。
それでもなお、影たちは執念深く、前へと進み続けていた。




