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激流が岩を叩き、泡を巻きながら荒れ狂っていた。

だが、流れがわずかに緩むその中――二つの影が、ようやく岸辺へとたどり着いた。


「っは…っ…!」


アイオンが水面から顔を出し、重たい体を必死に岸へと引き上げる。

泥と水にまみれた身体。全身が痛んでいた。

けれど、それでも彼は――自分の腕の中にいる少女に目を向けた。


「おい、大丈夫か!?」


呼びかけても返事はない。

少女――ジーナはぐったりと力を失い、瞳も閉じたままだった。


「うそだろ!」


恐る恐る顔に触れる。冷たい。

その胸元に手を当てる。――動いていない。


「――っ!」


アイオンはすぐさまジーナを地面に横たえ、口元に耳を寄せた。

呼吸も、脈も、ほとんど感じられない。

彼女は水を大量に飲み、意識を失っていた。


「やれることをやれ…!」


自分に言い聞かせるように、声が漏れる。

震える手でジーナの鼻をつまみ、口を開く。


(前世で習った…はずだ。思い出せ、落ち着け…!)


一度、大きく息を吸い――


「ふっ…!」


ジーナの口に息を吹き込む。

続けて、胸元に手を重ね、体重をかけて押し込んだ。


「戻れ! 戻れ!」


一秒たりとも無駄にできない。

もう一度呼気を送り、もう一度、胸を圧迫する。

何度も、何度も繰り返した。


「お願いだ! 死ぬな!」


アイオンの声は震えていた。

体中の痛みよりも、裂けた腕の傷よりも――

目の前の少女が冷たくなっていくことの方が、何倍も怖かった。


(頼む…生きてくれ!)


「頑張れ! 頑張ってくれ!」


その時だった。


「っ、けほっ、けほっ!」


ジーナが突然、激しく咳き込み、水を吐き出した。


「大丈夫か!?」


アイオンはすぐに彼女の肩を抱き起こし、背中をさすった。


ジーナの身体が小刻みに震える。

呼吸は荒かったが、確かに――息をしていた。


「…はぁ。助かった……」


途切れた声が漏れる。

全身の力が抜け、肩が小刻みに震えていた。


「――ギリギリ。でも、賭けには勝った…とりあえずだけど」


そう言って、深く、深く、息を吐いた。



ジーナの肩がかすかに揺れた。

震える吐息が漏れ、まぶたがゆっくりと開いていく。


「…っ…」


視線がぼやけていた。

水に濡れたその瞳が、じっとアイオンを見つめる。


彼は、優しく声をかけた。


「目、覚めましたか」


ジーナは、微かに瞬きをした後、かすれた声で問いかけた。


「…ここは…?」


「川の下流の方です。なんとか緩くなったところで、岸に上がれました。助かりましたよ」


ジーナはそれを聞き、少しだけ目を見開いた。


「…生きてる…本当に…」

「ええ。無事で何よりです。痛むところはありますか?」


「…全身が、痛いわ」

「でしょうね。…これを」


腰のバッグから小瓶を取り出し、回復薬を手渡す。

ジーナは黙ってそれを受け取り、口に含んで飲み干した。

深く息を吐きながら、ようやく呼吸を整える。


川のせせらぎと、遠くで鳴く鳥の声が、静けさの中に染み渡っていた。


「…助けに、来てくれたの?」


ジーナが、震える声で尋ねる。


「はい」


それ以上、言葉はなかった。


ジーナの唇がかすかに震えた。

安堵とも、罪悪感ともつかない表情がその顔に滲む。


「…ごめんなさい」

「どうして謝るんですか?」


アイオンの声は穏やかだった。


「俺が勝手に来ただけです。謝られる理由なんてありません」


ジーナは何かを言いかけて――やめた。

そして、ふと目を伏せたまま呟く。


「…なんで、来たの…?」


その問いは、呟くように、弱い声で。

アイオンは少し黙ってから、静かに答えた。


「…あなたのためじゃありません。村で王族が攫われたとなれば、責任は俺たちに降りかかる。それが嫌だっただけです」


淡々と、静かに言ったその声に、ジーナは一瞬だけ黙った。


目を閉じたまま、かすかに笑ったように見えた。


「…変な人」

「どこが?」


アイオンは、目線をそらし答えた。


「…それと…」


ジーナがぽつりと口を開く。


「さっき…その…私、気を失ってたよね」

「…ええ、意識も呼吸も止まりかけていました」

「…何か、してくれたの?」


アイオンは一瞬だけ言葉を選び、それから静かに答えた。


「…応急処置をしました。昔、教わった方法で」


ジーナはわずかにまばたきをし、すぐに目をそらした。


「…ああ、そう…なんとなく、分かった気がする」

「不快でしたら、すみません。けど、あれ以外に手はなかったので」


「…別に。不快とかじゃなくて……正直、覚えてないけど」

「…不敬罪で死刑とか、ありますか?」


ジーナはふっと小さく息を吐いて、微かに笑った。


「…不問にするわ」

「…言質はとりましたから」


「ほんと、変な人ね…」

「話が噛み合ってないですね」


それきり、二人は黙った。

だが、不思議と重苦しい空気はなかった。


アイオンは立ち上がり、あたりを見回す。


「――歩けますか?」


ジーナは小さく頷く。

だが、足元を見ると、靴がなかった。


「…流されましたね。…これを」


腰のバッグから、もう一足の靴を取り出す。

使い込まれた、動きやすい実用靴――濡れてはいたが、十分使える。


「連れ去られたとき、部屋履きだったと。もしものために村の人から借りておいたんです。……濡れてますが、緊急時なので我慢を。あと、できるだけ服は絞って水気を抜いてください」

「…ありがとう」


ジーナはそれを履き、立ち上がる。

まだ痛みは残っていたが、今は耐えるしかない。


「あの賊たちも、たぶん川を下ってくるはずです。もう夕方になる…森に入って、休める場所を探しましょう」


ジーナは黙って頷き、ゆっくりと歩き出す。



森は深く、湿った風が木々の間を抜けていく。


苔むした根の上を、二人の足音がかすかに重なる。

ジーナの足取りはまだおぼつかないが、それでも彼女は歯を食いしばり、一歩ずつ前へと進んでいた。


アイオンは時折、後ろを振り返っては足を止め、彼女の様子をうかがう。


「無理はしないでください。少しでもおかしかったら、すぐ言って」


「…言わないと止まってくれないって顔してるもの」

「よくわかってますね」

「ふふっ…だって変な人だもの」


ジーナの声はかすれていたが、どこか張りつめていた空気が少しだけ緩んだ。


とはいえ、状況は甘くない。

陽は傾き、森にはゆっくりと夕闇が落ちていた。


二人は黙って歩き続けていたが、足元は不安定で、体力も限界に近い。

ジーナは時おり立ち止まりながら、何とかついてきているものの、無理を重ねているのは明らかだった。


アイオンもまた、焦りを隠せずにいた。


(日が落ちれば終わりだ。追手か、魔物か、どちらにせよ逃げ切れない――)


そのとき――ふと、視界の端に白いものが揺れた。


森の夕暮れの中、ひらりと現れたそれは、一匹の白い蝶だった。

まるで光を内に秘めたかのように淡く輝き、音もなく、風もないのに羽を揺らしながら漂っている。


アイオンは思わず足を止め、蝶を見つめた。


「…?」


ジーナが怪訝そうに振り返る。


「どうしたの?」

「…いえ」


アイオンは一瞬、答えを迷ったが、やがて小さく続ける。


「…蝶が。見えます?」

「蝶? こんな場所に?」


ジーナはあたりを見渡すが、そこには何も見えない。

彼女には――見えていない。


蝶はゆっくりと森の奥へと進み、その羽をちらちらと揺らしながら、まるで“こっちだ”とでも言いたげに舞い始めた。


「……」


アイオンの胸に、言い知れぬ感覚が広がっていく。

それは警戒でも危機感でもない。むしろ、かすかな安堵と希望のようなものだった。


(…随分と…干渉するな、クソ女神)


「ちょっと寄り道します。ついてきてください」

「え?」

「たぶん、近くに使えそうな場所がある。…勘ですけど」


ジーナは怪訝そうにしながらも、静かに頷いた。


蝶は、森の奥へ奥へと誘うように飛び、岩の間をすり抜けるように消えていく。

その後を追って進んだ先に――


「…あった」


アイオンが声を漏らした。


そこには、岩と蔦の隙間に隠れるようにして、小さな穴がぽっかりと口を開けていた。

しゃがめば人一人が入れる程度の狭い入り口。

けれど、中からはかすかに風が流れ出ていた。


「ここ、通気がある…奥に空間があるはずです」

「えっ、本当に何かあったの?」


ジーナが少し驚いたように口を開く。


「ええ。…たまたま、目に留まりました」

「…すごい嗅覚ね」

「たまたまです」


アイオンは小さく笑い、先に中へと潜り込む。

そのあとをジーナも続いた。


空洞の中は、想像以上に広かった。

中腹まで進むと、そこには岩に囲まれた天然の広間のような空間が広がっていた。

天井は高く、ところどころに自然の穴が開いていて、そこから冷たい風と薄明かりが差し込んでいる。


地面は乾いていて、ぬかるみもない。

獣の気配もなく、外界の音もほとんど届かない。


「ここなら、一晩は隠れられますね」


アイオンは荷物を下ろし、ジーナの様子を確認する。


ジーナは岩に背を預け、ふうっと息をついた。


「本当に…見つけるなんて。運が良かったわ」

「ええ、そうですね」


アイオンは一瞬だけ、洞窟の入り口を振り返った。

そこに、もう蝶の姿はなかった。


まるで――導くべき場所に導いたのを確認して、消えたかのように。


彼は心の中で、小さく呟いた。


(何はともあれ、助かったよ。クソ女神)


そしてそっと、入り口の蔦を引き寄せ、内側から視界を遮るようにかぶせた。


こうして二人は、ようやく静かな夜を迎えることができた。


だがそれは、終わりではない。

何も終わっていない。


――逃走は、まだ序章にすぎなかった。

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