焦り
深夜。
虫の声すら止んだ静寂の中、村長宅の奥の一室では、かすかな灯りだけがゆらめいていた。
ジーナは窓辺に置かれた椅子に腰かけ、膝に掛けた薄い毛布を指でなぞっている。ときおり夜の闇に目を細め、思索にふけっていた。
その傍らには、従者のメリアが控えている。気配を消すように静かに、しかし控えめな声で口を開いた。
「…ジーナ様。そろそろお休みになっては? 明日の朝には、バルナバへ向かうのですから」
ジーナは小さく首を振る。
「…眠れないの。今日は…いろいろなことがありすぎたから」
ふっと微笑んだものの、その目には疲れの色が濃かった。
「…不思議な村ね。みんな自立して生きてる。王都より、よっぽど輝いて見えるわ」
「…そうですね」
メリアは静かに頷く。そしてしばらく沈黙したのち、ぽつりと声を落とした。
「…ジーナ様。私は…彼らに何もできませんでした。傷ついた人たちを見るのが怖くて…ずっと馬車に閉じこもっていて」
ジーナはゆっくりと顔を向けた。
「あなたのせいじゃないわ。…私だって同じよ。否定されるのが怖くて、ずっと…屈していた」
その声には、かすかな悔しさがにじんでいた。
「私は王族なのに、誰も救えなかった。罰を受ける覚悟で、誰かを守り、頭を下げたのは…あの少年だった」
「ジーナ様…」
「駄目ね。自分を受け入れると決めたのに」
目を伏せたジーナの声音は、静かだった。
けれどその思索を、突如として破る気配があった。
ぎ……。
どこか遠く、家の軋む音が聞こえた。
二人は顔を上げる。
「…風?」
「…いえ、違います。誰か――」
その言葉が終わるより早く、窓の外に黒い影が滑り込んできた。
「――っ!?」
メリアが叫ぶ暇もなく、背後の襖が音もなく開き、もう一つの影が忍び寄る。
「ジーナ様、伏せて――っ!」
メリアが身を挺して庇った瞬間、背後から打ち込まれた何かが、彼女の首元を撃ち抜いた。
「――あ、うっ…!」
力が抜け、崩れ落ちるメリア。
「メリア! あなたたち、何者――っ!」
ジーナが叫ぼうとしたその瞬間、口元に白い布が押し当てられた。
「ッ…ん、くっ…!」
甘ったるい香りが鼻を突き、意識が急速に引きはがされていく。
視界が霞み、足元から感覚が崩れていく。
(あ…ああ、また…)
誰かの腕に抱えられ、外へ運ばれていく中で、ジーナは最後に――
(また…私は、無力なまま――)
唇をかすかに動かしながら、夜の闇へと意識を沈めていった。
#
家の裏手。
3人の黒ずくめの男たちが素早く連携し、意識を失ったジーナを担ぎ上げる。
「従者は眠らせた。目が覚めたときには、王女は“もういなかった”ことになっている」
「よし、森へ入るぞ」
「道中はこっちの手の者が押さえてある。広場も複数作った。見つかる前に境を越える」
「…他領に着くまでは6日か? 田舎だから仕方ないが、魔物も放ってある。油断せず行くぞ」
風が吹き、木々がざわめく。
黒い影は1人、また1人と森の闇に溶けていった。
――それは、すべてが静かに、着実に仕組まれていた攫取劇だった。
続く混乱を、まだ誰も知らない。
ただ、月だけが高く冷たく、夜の出来事を見下ろしていた。
#
早朝――
「…ジーナ様?」
かすれた声と共に、メリアが目を開けた。
見慣れない天井。空気が妙に冷たい。立ち上がろうとするが、鈍い痛みが全身に残っていた。
昨夜の記憶が断片的に蘇る。
(…影…誰かが入ってきて…ジーナ様が――)
「ジーナ様っ!!」
叫ぶように声を上げて部屋を見渡す。
窓がわずかに開き、風が吹き込んでいた。だが、彼女の姿はどこにもない。
青ざめたメリアはふらつきながら部屋を飛び出した。
「村長様っ! 村長様!!」
扉を叩き、叫ぶメリア。その声に、村長の息子が飛び起きて駆け寄った。
「ど、どうしました!? 顔色が――」
「ジーナ様がいません! 誰かに攫われたんです!!」
悲鳴にも似たその声に、村長宅は騒然となった。
「すぐに領主殿へ! 鐘も鳴らして、村に異変を知らせて!」
村長が指示を飛ばし、息子が駆け出していく。
「…なんだ、こんな朝早くに――」
ノックに起こされたフィギルが扉を開けると、村長の息子が血相を変えていた。
「ジーナ様がいません! 従者の話では、深夜、何者かに――!」
その言葉に、フィギルの顔から血の気が引いた。
「すぐに人を集めろ!!」
命じるやいなや、外へと駆け出す。
朝靄を裂くように、村の鐘が鳴り響いた。
「なにごとだ!?」
「鐘の音だ…まさか、魔物か!?」
「何が起きた!?」
広場には村人、護衛団、それぞれが集まりはじめていた。
フィギルは高台に立ち、全体を見下ろしながら声を張り上げた。
「ジーナ王女殿下が何者かに攫われた! 集団によって連れ去られ、逃走中の可能性が高い!」
その言葉に場が一気に緊張する。
「自警団は分かれて森を重点的に捜索! 村の出入り口はすべて封鎖! 外から来た者、外へ向かう者は全員足止めだ!」
「了解!」
「護衛団、協力してもらうぞ! 昨日までの失態を取り戻す機会だ!」
「…了解」
任務を果たせなかった彼らに選択肢はない。
罰を受けるのは確実だった。
だが――確実な死よりは、廃嫡のほうがまだマシだ。
#
「フィギル。森へ向かうのはいいけど、村の中の安全は? 賊が潜んでいる可能性もある。村人以外も多いし」
ライアが腕を組みながら、冷静に尋ねる。
「全員外に出さず、監視するしかない。村人も、それ以外の者も。――そして情報が欲しい。昨日まで村にいたのに今いない者。そういう者がいないかの聞き取りが必要だ」
「それなら、私たちが手伝います」
レアとベティが前に出る。
「この村の住人とは全員と面識があります。保証できます」
「なので〜私たちにお任せを〜」
「…頼んだ。村長とラクト殿と共に任せる!」
「俺は森に向かったほうが――」
「いや、信用されている君には村での聞き取りに同行してもらいたい」
「りょ、了解です」
「私は捜索に?」
「念のため、禁断の森の付近も見てほしい。あそこを通るとは思えないが、万が一に備えて」
「…まあ、ないとは思うけどね?」
「少なくとも、街道付近に怪しい者はいなかったぞ」
振り向くと、先日護衛団と街道で揉めていた冒険者パーティの姿があった。
「俺たちが着いたのは今朝方。街道付近で野営してたが、人が通った気配はなかった。あそこを通らずバルナバに向かうのは無理だ」
イザークが続ける。
「禁断の森の方に行った可能性はあるが、あの先には何もねぇ。バルガ帝国に行くにしても、相当な遠回りをしなきゃならねえ。よほどの世間知らずじゃなきゃ通らねえよ」
「…やはり、近場の森から他領へ抜けたか」
フィギルが思案する。それを察したライアが言う。
「この村から他領へ行くなら、南の森を抜けて崖を下り、川を越えて、数日かけて隣領に入るルートしかない」
「…デオール領に入る前に、捕まえなければ」
「…もしかしたら、結構時間をかけて練られた誘拐かも」
ライアがふと口にすると、フィギルやイザークたちが表情を変える。
「…ここらでは見かけないハーピーが南の森にいた。連れ込んだんじゃない?そうすれば、弱い魔物たちは生息地をずらし、街道へ出やすくなる。ちょうど整備中の道に、護衛のため冒険者が動員される…」
「…魔物の活性化については、バルナバでもカルララ村でも報告があった。街道整備中に被害が出たため、冒険者ギルドに調査を依頼していた」
「…まあ、最初から到着までに時間がかかる場所だから、どうしようもなかったよ」
オニクが冷静に言葉を継ぐ。
「この村から伝令魔法で連絡しても、バルナバから人を送るには3日はかかる。それなら、村の少ない人員で捜索するしかない。…南の森に入っていった。そう仮定して進めたほうがいい」
「伝令、頼めるか? ライア」
「…そうね。私よりアイオンの方が速いけど、今は見当たらないし…私が行くわ」
「あの少年が…? いや、頼む。向こうでそのまま捜索に加わってくれ」
「わかったわ。…高くつくわよ?」
軽く言い残し、ライアは足早に去っていった。
「君たちには村の警備を頼みたい。この混乱に乗じて、賊が押し寄せる可能性もある。そうなれば…」
「心配ないと思うがな。依頼なら受けるよ。警戒にあたる」
四人はそれぞれ警備に回る。
――広場での指示を終えると、フィギルはひとつ息をついた。
自警団はすでに動き出していた。
南の森、川沿いの小道、抜け道、旧獣道――
地の利を知る者たちを主軸に、護衛団にも体裁だけの捜索任務を与えた。
(やるべきことはやった)
それでも胸の奥に、どす黒い澱のような感覚が残っていた。
(…だが、それだけだ)
自分自身の手で、何ひとつできない。
剣を抜いて追いかけることもできず、見送るばかり。
目の前にあるのは、出発していく背中ばかりだった。
(私は、ただ命じるだけの存在だ)
喉が焼けるように乾いている。
(なぜ、あの夜…あと一歩、目を配らなかった。なぜ、あの家に護衛を置かなかった)
自責の念が胸を締めつける。
ようやく沈静化した護衛団の暴走。
村と王族の対立も、どうにか乗り越えた。
(あれさえ乗り切れば、道が拓けると思っていた。だというのに――!)
その直後に起きた、王女攫取。
すべてが水泡に帰す音が、耳の奥で鳴っていた。
(…私の領地で、王族が“消えた”。護送中でも戦乱でもない。ただ、ここで)
それは失態では済まない。
(これは、死だ)
王族の命にかかわる事件。
見つけ出せなければ、どんな弁明も意味を成さない。
出世など語る資格すら失う。
(…いや、違う。こんなことで…終わるものか)
震える拳を握りしめる。
だが、その震えを誰にも悟らせるわけにはいかない。
ふと振り返ると、護衛団の隊長・ガーリンがこちらを見ていた。
(こいつらがまともに機能していれば…! くそっ…! こんな連中と首だけ並ばさせるのは、死んでも御免だ!)
信じられるのは、自警団だけだ。
この森を知る者たちだけ。
(――誰でもいい、見つけてくれ!)
心の中で、祈るように願いを繰り返す。
(この地で王族が消えたままなら、私は“終わる”。いや――“処される”)
そして何より、
(…私の野心が潰える)
ようやく登りはじめた道。
公爵家の後ろ盾、王への貸し。
それらすべてが、王女一人の失踪で崩れ去る。
(だから…頼む。今すぐに、見つけてくれ!)
その視線の先で、朝靄に沈む森の入り口。
踏み込むことのできないその奥に、すべてが懸かっていた。
喉元を締めつける無力感に耐えながら、フィギルはその場に立ち尽くしていた。
#
ジーナが、目を覚ました。
頭が重く、体が鉛のように動かない。
草の匂いと湿った土の感触が、ゆっくりと意識を現実へ引き戻していく。
(……ここは……?)
ぼんやりと開いた視界には、斜めに張られた暗緑色の布と、わずかに揺れる木漏れ日が映っていた。
風にそよぐ布の感触――それは、粗末なテントの天井だった。
(……野営地……?)
身体を動かそうとして初めて、両手足が硬く縛られていることに気づく。
口元には何もされていないが、声はうまく出なかった。
そのとき、テントの入口が持ち上がり、男が一人入り込んでくる。
低く鼻にかかった声が、耳元に落ちた。
「お、起きたな」
全身を黒布で覆った男が、こちらを見下ろしている。
その目には同情も憐れみもなかった。ただ、嘲りだけが浮かんでいた。
「さすがは王女様。目覚めもお優雅で」
もう一人が後ろから入り、テントの隅に腰を下ろす。
「突貫にしちゃ悪くないだろ、この拠点。2ヶ月かけて準備したんだぜ? 他にもあるから安心しな」
ジーナは唇を開こうとするが、喉が焼けるように痛む。
それでも、恐怖よりも先に、怒りが込み上げた。
「……何のつもり……あなたたちは誰……!」
「何のつもりって? お前が目当てじゃねぇ。狙いはフィギルだ。お前は――ただの貢ぎ物さ」
男が膝をつき、顔を近づけてくる。その息は臭く、目は冷たい。
「お前はすぐに、“誰かのペット”になるんだよ、姫さん」
ジーナの目が見開かれる。
「……なにを……」
「心配すんな。役に立たない王族でも、“価値”をつけてくださるお方がいる。よかったな?」
「第3王女なんて、王都じゃ誰も見向きもしねぇ。継承順位はゴミ、せいぜいどっかに嫁ぐだけ。――存在価値もねぇよな、なぁ?」
ジーナは小さく息を呑む。
「……黙りなさい……っ」
「へぇ、まだそんな口きけるんだな」
男の手が顎に伸びかけたところで、もう一人が手を伸ばして遮る。
「やめとけ。傷つけたら報いを受けるのは俺たちだ」
「ちっ、つまんねぇな」
二人の男は笑いながら、テントの外へ出ていった。
「安心しろ。今はただ、“無力な姫”でいろ。その方が、扱いやすいからな」
「せいぜい夢でも見てな。誰かが助けに来る夢をよ」
嘲りの声が、森の風に混ざって消える。
ジーナは縛られた手足の感覚を確かめながら、震える体を押さえつけた。
(……こんな奴らに……)
唇を強く噛む。
(価値は、自分で決める。でも、これじゃ……)
涙は出なかった。
ただ、冷たい絶望だけが、胸の奥深くに静かに沈んでいった。
#
「じゃあ、行ってきますね。セアラさん、ナリア」
「気をつけてね?」
「アイくん、これ持ってって!」
ナリアが、小さな袋を差し出した。
「王女様に?」
「うん! 昨日渡せなかったから。これ、ちゃんと渡してあげて!」
「わかった。見つけたら渡すよ」
「うん! いってらっしゃ〜い!」
言葉を背に、家を出て村の入り口へ向かう。
広場では、フィギルが立っていた。
「きみも行くのか?」
「ええ。あなた方がどうなろうと関係ありませんが、この村に変な疑いがかけられて潰されたら迷惑なので」
「……ハッキリ言うな」
苦笑しつつも、フィギルはまっすぐに少年を見た。
「南の森に入った可能性が高い。そこからデオール領に抜けるのが最短だ」
「なるほど。ハーピーを放ったのも、誘拐犯かもしれませんね。ひとつ聞きたいのですが、街道整備の際、南の森の中を進んで木を切りました?」
「いや? そんな話は聞いていない。街道沿いに待機所は建てたが、中まで進まなくても木材は手に入った」
「そうですか。なら結構です。では」
アイオンは軽く頭を下げて立ち去る。
その背に、声がかかる。
「……頼んだ。無事、見つけてくれ。……祈っている」
「……女神教に?」
「いや。女神様そのものに、だ」
「……届くといいですね」
そう言って走り出した少年は、驚くほどの速さで遠ざかっていった。
「――届くさ。でなければ困る」
フィギルの独白が、誰に届くこともなく、風に消えた。




