できること
教会の扉が、静かに音を立てて閉まる。
厚い石造りの堂内には、ひんやりとした空気が満ちていた。
奥に立つ女神像が、訪れた者を無言で迎える。
(この女神像……質素ね)
ジーナは思わず眉をひそめた。
王都の豪奢な教会にある女神像とは、あまりに対照的だった。
次に目に映ったのは、壁際に身を寄せる数人の若い女性たち。
その腕には、まだ幼い赤ん坊が眠っている。
彼女たちはジーナと目を合わせようとせず、じっと沈黙の中にいた。
微かに聞こえる囁きが、空気をいっそう張り詰めさせる。
「……あの人が、王女様……?」
「でも、あの賊たちと一緒に来たって……」
「本当に、信じていいの……?」
疑念が交じり合う声。
誰も明確な答えを返さなかった。
(……賊、ね。そうよね)
ジーナは黙って立ち尽くし、その不安を黙って受け止めていた。
視線は逸らさず、ただ彼女たちをまっすぐに見つめていた。
(カルララでも、バルナバでも……若い女性が無理やり連れていかれた、とメイラは言ってた。それが伝わってるなら、この反応も当然よね)
彼女の頭をよぎるのは、あの護衛団。
そして――冒険者を外に置いた意味。
(あの人は、王族でも貴族でも、この人たちに害をなす者なら、ためらわず斬るでしょうね)
そのとき、堂内の奥から声がかかった。
「ジーナ様、フィギル様。こちらへどうぞ」
金髪のシスター、レアがふたりを食堂へと案内する。
そこは小さな木造の空間だったが、どこか温もりがあった。
「狭いところで恐縮ですが〜、どうぞおくつろぎください〜」
栗色の髪をしたシスター、ベティがにこやかにお茶を差し出した。
「この前の行商人から手に入れた上物です〜」
その様子に、ジーナは少し驚いた顔になる。
「……あなた、本当に女神教のシスターなの?」
「えぇ!? なにか疑われるようなこと、ありましたか〜?」
口元に手を当て、大袈裟に驚くベティ。
続けて、自分の修道服やウィンプルを指差してみせるが――
「服じゃないわ。私の周りのシスターや神父たちは、そんな風に笑わないわ」
「それは〜王族相手にかしこまって、お布施をたっぷりいただきたいから〜じゃないですか?」
「え?」
「……ええ?」
唐突な毒舌に、ジーナとフィギルが同時に声を漏らす。
それでもベティは、変わらず笑顔を崩さなかった。
「……ベティ」
「おっと〜、本音がつい〜。失礼しました〜」
頭をペコリと下げると、自分でこめかみを軽く叩く。
レアが小さくため息をつき、ジーナに向き直る。
「はぁ……ごめんなさい。まだ子どもで」
「――あなたたち、もしかして旧女神教?」
「そうなりますね」
ベティが苦笑して小声で付け加える。
「業腹ですが〜」
ジーナがちらりとフィギルを見ると、彼は「しまった」という顔をして口を開いた。
「申し訳ありません、伝えていませんでした。この村は旧女神教の信仰を守っている村です。
我々が知るのは改訂された教義ですが、この村には女神様の古き教えがそのまま残っているそうです」
「そう……珍しいわね」
ジーナは小さく息を吐いた。
いても街に数人しかいないと聞いていた異端派閥――それが、まさか村ぐるみで。
「――ハーフエルフのあなたが、旧女神教を教えている村ってことね?」
(長い間、異端な教えを植え込まれた村……そう見えてしまう。偏見だとわかっていても)
「そうですね。でも、こちらから見れば、あなたたちこそがそうなのよ?」
レアは涼しい顔でそう返した。
「この話はきっと平行線のまま終わるわ。どちらの教えが正しいかを決められるのは、女神様だけだから」
「……そうね。私にもどうでもいい話だし」
ジーナの胸に渦巻くのは、乾いた諦め。
――国王は女神教に逆らえない。
自分は、その女神教の誰かに捧げられた女を通して生まれた、政の駒。
名ばかりの王族。
(どうでもいい……いない存在に縋るあなたたちも、それを利用して私腹を肥やす者たちも)
そんなとき、レアが表情を変え、問いかけた。
「今、この場所になぜ若い子たちが避難しているか、あなたは知ってる?」
ジーナはびくりと肩を震わせた。フィギルも反応する。
「……いつからここに?」
「護衛団が、子どもたちのクッキーを踏みつぶした直後かしら」
「話に聞いていた以上に〜厄介そうな方々でしたから〜」
「あなた、王族よね? 護衛団を従わせるべき立場にいながら、なぜ好き放題させているの? あなたの指示?」
「ち、違うわ!」
ジーナは思わず声を張り上げた。
だがレアは、冷静に見下ろすまま続けた。
「――あなた、なにを諦めてるの?」
その一言が、心の深くに刺さった。
ジーナは言葉を失い、目を伏せた。
会って間もない相手に、核心を突かれたからだ。
(……なにも、知らないくせに)
なにを話しても、どう動いても、何も変わらなかった。
王宮で育った自分に与えられた役目は、他国との政略結婚だけ。
「第3王女なんてそれしか使い道がない」と囁かれながら育った。
そんな自分に、できることなど――
「……私は……」
唇が震えただけで、言葉にはならない。
そんなジーナに、レアの表情が少しだけ和らぐ。
「あなたが王族であることも、事情があることも理解してるわ。
でも、立場なんて関係ない。今ここで、子どもたちが踏みにじられているのを見て……なにを感じたの?」
「……わからなかったの。どうすればいいのか」
かすれた声が落ちる。
レアが立ち上がり、そっとジーナの傍へと歩み寄る。
「怖いのね。否定されるのが」
その言葉に、さらにジーナは目を伏せた。
「なにかをして、変わってしまう自分が怖かった?
それとも、受け入れられない自分を見るのが、怖かったの?」
(……わかったようなことを! 昔は……)
かつては小さな勇気を持っていた。
けれど、大人たちはそれを「余計なこと」と怒鳴り、押し潰した。
いつからか、人と話すのが怖くなった。
また否定されるんじゃないかと思うだけで、心が凍った。
「誰かの心ない言葉が、あなたの可能性を狭めた。
でも、それは諦めていい理由にはならないわ」
思わず、ジーナは顔を上げた。
「自分に立ち向かいなさい。あなたが、あなたを諦めてどうするの」
「でも……なにも変わらなかったら? また誰かを傷つけるだけだったら?」
「そうなるかもしれない。石を投げられるかもしれない。
でも――」
レアは静かに微笑んだ。
「また立ち上がる力を、あなたが、あなた自身に与えるわ」
「……私が、私に?」
「あなたの価値を決めるのは、あなたなのよ、ジーナ。
評価は他人がする。でも、自分の価値は自分で決めなきゃ」
「……私に、どんな価値があるっていうの!? なにもできない、ただのお飾りの王族に!」
「それに答えることは、私にはできないわ。
だからこそ、あなたが――あなた自身が、探さなきゃいけないの」
フィギルはその言葉を聞きながら、ふと思い出していた。
子どもの頃に受けた、あの優しい神父の言葉を。
(これが……本来の女神教。人の心に寄り添い、自主性を重んじる教え)
ジーナは俯いたまま、涙をこぼす。
「そんなの……ズルいわ。無責任よ」
「そうよ。私は、あなたの人生に責任なんて持てないもの」
そう言って、レアは明るく笑う。
そして、優しくジーナに触れた。
「でも、あなたの話を聞くことはできるわ」
その声に、ジーナはハッと顔を上げた。
「……私の、話を?」
「ええ。教えてほしいの。あなたが、どう思っているのか」
レアの瞳はまっすぐで、けれど柔らかかった。
否定も、断罪もない。ただ、聞くことを望む瞳。
ジーナは一瞬だけ口を開きかけたが、言葉はすぐに喉の奥で詰まった。
「……話せるようなこと、ないわ。私は、なにも……」
小さくかぶりを振り、視線を伏せる。
「……誰も守れなかった。ただ見ていただけ。見ていて、何もできなかった。
街で暴れても止められず、被害に遭ってる人がいても……見ないふりをして!
子どもを傷つけた後にしか……立てなかった……!」
声が震える。胸の奥に押し込めていたものが、少しずつこぼれ落ちていく。
「自分がどう思われてるか……自分は無力なんだって突きつけられて……もう嫌なの!
怖いの! ……否定されるのが……!」
その場にいた誰もが黙った。空気が張り詰める。
レアは、そんなジーナの手をそっと取った。
「怖がっていいの。何もできなかったと思っても、それはあなたの全部じゃない」
「でも私は――」
「あなたは、ここに来て、今こうして話してる。
否定されて生きてきた今までのあなたとは違うはずよ?
なによりも、あなた自身が、変わろうとしてる」
レアの声は静かで、あたたかい。
ジーナは、震える息を吐いた。
「……責任は、私にあるわ。指示はしていない。でも、止められたはず。
だから私が、止める。あの護衛団を」
ゆっくりと顔を上げ、まっすぐ前を見る。
「逃げたくない。あいつらからも……自分からも」
その瞳には、たしかに微かだが、確かな光が宿っていた。
「……もう大丈夫ね」
レアが微笑む。
「改めて教えてくれる? あなたの名前を」
ジーナは一瞬だけ目を閉じ、そして静かに唇を開いた。
「……ローズレッド王国、第3王女。ジーナ・ローズレッド」
「そう。――いい名前ね」
そのひとことが、ジーナの胸にじんわりと染み込んでいく。
誰かに、自分の名前を認めてもらったことが、こんなにも心強いものだとは思わなかった。
フィギルは、その横顔を見つめながら、静かに息をついた。
だが――
「レア様! 大変です! アイオンが護衛団とやり合ってるって! マリオから! ……マズいよ!」
慌てて飛び込んできたビアンカの声が、場の空気を一変させた。
「あの子が手を出したってこと? 何をされたのかしら」
「そんな落ち着いてる場合じゃないですよ〜! 私たちも行きましょう〜!」
冷静なレアとベティを背に、ジーナとフィギルはすでに扉を開け、外へと駆け出していた。
ジーナは、護衛団を止めるために。
フィギルは、領民を守るために。
――ふたりとも、誰かのために動き出していた。




