オルババ村
馬車の窓から、フィギルは目の前の光景に息を呑んだ。
土と木の匂いを運ぶ風。遠くで笑い声が響き、若者たちの掛け声が重なる。
素朴な家々のあいだを、石畳が縫うように続いていた。
(想像より、ずっと整っている)
道こそ未舗装だが、荒れてはいない。
倉庫には施錠が施され、乱雑な印象もない。
(もっと荒れ果てた寒村を思っていた。だがこれは――)
老いに沈む村ではなく、むしろ若さに満ちていた。
青年たちは自警団の腕章をつけて巡回し、老人は畑で働く。
広場には、子どもたちの笑い声が響いていた。
(カルララ村よりも若者が多く、活気がある……)
王女の馬車を警戒するように見つめる、自警団の鋭い視線も印象的だった。
(軍のような装備ではないが、立ち居振る舞いに迷いがない。まるで鍛錬された兵士のようだ)
(カルララ村とは違う、静かな強さを感じる……。なぜ父は、この村を“放っておけ”と?)
「おい、邪魔だ! 下がれ!」
静かな秩序を乱したのは、やはり護衛団だった。
先頭を行くガーリンが、手綱を振って自警団員をどかそうとする。
「ここは私有地だ! 勝手に踏み込むな!」
青年が怒声を上げるが、ガーリンは鼻で笑った。
「貴族の馬に道を譲らぬとは、なんと無礼な村だ」
「待て!」
慌ててフィギルが駆け寄る。
「ここは村の中だ。騎乗のまま突っ込むな!」
「では下馬しろと? 民のために、貴族がわざわざ泥を踏めとでも?」
(貴様は本当に……!)
フィギルが歯を食いしばった、その時だった。
村の子どもたちが手作りの籠を抱えて馬車へ近づく。
小さな手の中には、焼きたてのクッキーが入っていた。
「これ、みんなで作ったの! 王女様に食べてもらえたらって!」
だが――
「下がれッ!」
ガーリンの部下が払いのけ、籠を叩き落とした。
「なんて無礼な! こんなもの、殿下が口にするか!」
「やめろ!!」
フィギルが怒声を上げたが――遅かった。
地に落ちた焼き菓子は護衛の足で踏みつけられ、粉々に砕ける。
泣きそうな顔でクッキーを拾おうとする子どもたち。
その姿に、村人たちの怒気が高まった。
村長とともに出迎えていた者が、一歩踏み出す。
「殿下が来られるのは歓迎しております。ですが、これ以上は――」
村全体に、緊張が走る。
そんな中――
「やめなさい、全員」
凛とした声が響いた。
扉が開き、馬車から王女ジーナが降り立つ。
そして静かに、ナリアの前にしゃがみこんだ。
「ありがとう。いただくわ」
泥にまみれたクッキーのかけらを、そっとつまみ上げ、口に含む。
そして優しく微笑んだ。
「とても、美味しいわ」
ナリアの目が潤む。
沈黙の中、ジーナは立ち上がると振り返らずに歩き出した。
「行きましょう、フィギル子爵」
「……はい、かしこまりました」
フィギルは彼女に並びながら、周囲を見渡す。
怒りを噛み殺す村人たち、自警団の青年たち、冷ややかに睨む護衛団――
(最悪な出だしだ。ガーリン達を何とかしなければ!)
そう、静かに決意した。
#
「この者が、オルババ村の管理者です」
フィギルの紹介を受け、髪をすっきりと結い上げた女性が一歩前に出た。
背筋を伸ばし、気負いのない口調で深く頭を下げる。
「ようこそ、オルババ村へ。私は村長のオルババと申します。殿下、そして子爵様。ささやかではありますが、村をご案内いたします」
「……ええ」
ジーナは頷き、村の空気を感じ取るように視線を巡らせた。
その隣には、自警団長のラクトが控えている。
「先ほどは失礼しました。自警団長のラクトと申します。治安や生活区画など、私がご案内いたします」
「ああ。よろしく頼む」
フィギルが応じると、ラクトは王女へ跪いた。
「恐れながら殿下。先ほどはありがとうございました。あの子は私の娘なのです。あの対応がなければ、どうなっていたか……」
「そうなの……。ごめんなさい」
ジーナは顔を伏せた。
王族であるならば、ああなる前に手を打つべきだった――そう思いながらも、できなかった。
「いえ、謝られることではありません! 礼をしただけでありますので!」
ラクトが慌てて頭を下げる。
少し気まずい空気が流れた。
「――では、ご案内を。こちらへどうぞ」
村長が歩き出す。
「……そうね。行きましょう」
「はい」
ジーナとフィギルも続き、ラクトがその後を歩いた。
#
「なるほど。しっかりと暮らしができている……想像していたよりもずっとだ」
村長とラクトの案内に、フィギルは感心してつぶやく。
「……あなたの領地でしょ? どうして驚いているの?」
ジーナが当然の疑問を口にする。
「……恥ずかしながら、この村を訪れるのは初めてなのです」
「はぁ? 畑の測量や人口の変動、なにか企んでいないかの確認とか。そういうのが領主の仕事でしょうに。……たった二つしか村がないのに?」
「街から監査官は送っておりました。ただ……父の父の代から“オルババ村は放っておけ”と。意味は未だにわかりませんが……」
フィギルが答え、村長へと視線を向ける。
つられて、ジーナとラクトも村長を見た。
「この村は古くから存在しています。領地の端にありますゆえ、行き来も大変でした。税さえ納めれば口出ししない――そういう取り決めが、先々代の領主様とあったようです。それが今も続いているだけ……でしょうね」
村長は静かに微笑んだ。
「ですが、街道整備が進み、バルナバやカルララ村との交流も増えてきました。今後は、より密な連携を取れるかと存じます」
「……そうだな」
フィギルはそれ以上言葉を継げなかった。
“これ以上は聞くな”という無言の圧を、村長の目に感じたからだ。
再び一行は、広場を離れ、村の各地を巡る。
畑の区画、薬草の干し場、整然とした家々、清潔に保たれた井戸――
どれも丁寧に手が入っていた。
「物流は限られていますが、薬草や山の恵みには事欠きません」
「自警団は農作業と兼任ですが、交代で巡回しています」
「食料事情は?」
「自給自足ができております。近隣の森には狩猟可能な魔物も多く、生きるには困りません。たまに行商の方が来て、商いもしてくださいますので」
フィギルは深く頷く。
(やはりカルララより、よほど統制が取れている)
その矢先、村の外れから怒声が響いた。
「なんだこれは? この家、空いてるじゃないか!」
「納屋のほうがマシだな!」
「おい、そっちの干し肉、持ってこい! 腹が減った!」
ガーリンたちが、倉庫を勝手に開け、民家に上がり込み、食料や道具を物色していた。
「……すみません」
フィギルが小さく頭を下げる。
「彼らに強く出れば、我々が罰せられる恐れもあります」
ジーナは黙って護衛団を一瞥し、すぐに視線を戻した。
子どもたちが、じっと護衛団を睨みつけている。
慌てて母親たちが連れ戻す。
村長がジーナの横顔を見ながら言った。
「……この村は、どんなに穏やかに見えても、外からの脅威には敏感なのです。生きていくために、心をひとつにせねばなりません」
「……よくわかります」
「服従は、この村にとって最も受け入れがたいこと。いつまで抑えられるかは、私にもわかりませんよ?」
ラクトも苦々しく呟いた。
「若者たちが睨み始めています。あれ以上やられたら、我慢できるかどうか……」
ちょうどその時、護衛の一人が井戸のそばにいた老婆の桶を蹴り倒し、水をぶちまけた。
「こんなところで水を汲むな! 邪魔だ!」
声も出せずにうずくまる老婆。
ラクトが一歩踏み出す――が、フィギルが手で制した。
「すまない。耐えてくれ……」
「……それが領主様の命令なら」
渋々と引き下がるラクトを見て、若者たちも下がっていく。
(くそっ。私が殴りつけたい! これでは、この村での信用も失ってしまう……)
唇を噛み締め、フィギルは怒りに耐えた。
その怒りは、やがてジーナへと向かう。
(なぜ黙っている? 王族の肩書があるなら、怒鳴りつけてでも止められたはずだ!)
だが、ジーナは顔を伏せ、目をそらしていた。
(……私がこの村に来たいと言わなければ、あの善意は踏みにじられなかった)
けれど、なにもできない。
できたことといえば――踏みにじられたクッキーを食べる、それだけだった。
ガーリンたちはさらに奥へ進み、村の若者たちの視線が王女にも向けられる。
「……行きましょう。視察を終え、早く立ち去る。それが、我々にできる唯一のことです」
フィギルがそう呟き、村長とラクトに頭を下げ、案内を再開させた。
「……本当に滑稽だわ」
ジーナは、小さな声でそう呟いた。
――それだけが、上手くなっていた。
#
案内を終えた一行は、村の中心近くにある、石造りの小さな教会へと足を運んだ。
石壁には蔦が絡まり、鐘楼には小鳥の巣がいくつも見える。
外観は素朴ながら清潔で、どこか温かな雰囲気が漂っていた。
その入口で、双剣を背負い、周囲を警戒するように立っている女性がいた。
「……ライア!?」
思わず声を上げたのはフィギルだった。
女性は手を挙げ、軽く笑みを浮かべて返す。
「久しぶりね、フィギル子爵。……王女殿下は初めまして。この教会に世話になっている、冒険者のライアよ」
軽い口調の挨拶に、村長が小さく咳払いした。
「ライアさん。今のあなたはこの村の住人です。軽口が過ぎれば、村の評価に関わります。発言にはご注意を」
だが、それに応じたのはジーナだった。
「……構わないわ。冒険者が、王族に畏まる必要はない」
「まぁ、珍しくわかってる王女様ね?」
ライアは皮肉めいた笑みを浮かべる。
「王族や貴族に反感を買おうが、冒険者の行動は縛れない。そっち関係の依頼は来なくなるだろうけど、魔物を狩って魔石を売れば、生きていくには困らないし……それに、あなたのお父様が嫌いなの。だから余計に敬う気もないのよ」
にっこりと、しかし真正面から挑発するような笑みで言い放つ。
その言葉に、ジーナはわずかに目を見開いた。
「……口が過ぎるぞ、ライア。冒険者ギルドに正式な抗議もできる内容だ」
フィギルがたまらず一歩前に出る。
「それはちょっと困るわね。せっかくBランクまで戻ったのに、またランクを下げられたら……さすがにこの国にはいられないかも」
とぼけたように肩をすくめるライアに、フィギルが訊ねた。
「……それで、なぜこの村に? “しばらく休業する”と言って、バルナバを離れたはずだろう?」
「確かめたいことが、この村にあるのよ。……やりたいこともできたから、ここにいるだけ」
そう言って、ふと村長の方へ視線を向けた。
「そういえば、村長さん。私、もう長いことこの教会に世話になってるけど……私の家の整備、いつ終わるのかしら?」
ライアが悪戯っぽく笑いながら問いかけると、村長が肩をすくめた。
「……本当に必要ですか? レア様とベティさんと、仲良く暮らしておられるようですが」
「もうベッドに慣れちゃったし、今さら変えるのも面倒だけど……まだ警戒されてるのかなって思ってね?」
「そんなことは……」
村長が否定しかけたそのとき、教会の扉がゆっくりと開いた。
「……あまり、村長をいじめないでくれる? ライア」
優しい声が響く。
ジーナとフィギルが振り返ると、教会の奥から二人のシスターが現れた。
「ようこそ、教会へ。ご来訪、心より感謝いたします。ジーナ第3王女様、フィギル子爵様。この教会の管理者、レアです」
静かに頭を下げたのは、美しい顔立ちの女性――シスター・レアだった。
その後ろから、もう一人、ふわふわとした雰囲気の女性が顔を出す。
「ようこそ〜、教会へ〜。ベティと申します〜。お茶でもお出ししましょうか〜?」
語尾を伸ばす柔らかな口調のベティに、ジーナがわずかに笑みを浮かべた。
「――ありがとう。いただけるなら、ぜひ」
その穏やかなやり取りの裏で、ライアは無言で天井を仰ぎ、肩をすくめていた。
教会の鐘が静かに鳴る。
穏やかに見える村の中で、確かに空気が少しずつ変わり始めていた。




