幕間 嵐の前に
教会の礼拝堂には、昼の陽光が斜めに差し込み、木造の柱や祭壇に温かな光を落としていた。
レアは祭壇の花を整えながら、静かに口を開く。
「王族がこの村を訪れるのは、初めてのことよ」
その言葉に、隣で椅子を拭いていたベティが顔を上げる。
「そうですよね〜レア様。こんな事、記録にも載ってないです〜」
レアは落ち着いた声で答えながらも、わずかに眉根を寄せた。
「だからこそ気になるわね。こんな最果ての村に、護衛団を伴って王族が来るなんて」
教会の奥から、ライアが姿を現した。
手には洗いたての布巾を持ち、外の様子を伺っていたようだった。
「…数年に一度ある遊行。でも、今まではバルナバに1日泊まって帰ってたのよね?…どういう心境の変化かしら?」
「やっぱり変ですよね〜?」
「ええ」
ライアはベンチに腰を下ろしながら言葉を継ぐ。
「昨日、カルララから来た村人に話を聞いたわ。村に突然現れて、護衛団がやりたい放題し始めたって」
レアが顔を上げた。
「どのように?」
「荷車を蹴散らし、母親から子どもを引き離しそうになった者もいたとか。果実を踏みつけ、老人を怒鳴り、若い娘に手を出して…。王族の名のもとに“蹂躙”していたようなものだそうよ」
ベティの表情が強張る。
「なんという事を…」
レアは静かに目を伏せ、祈るように言った。
「来るのは王位継承順位6位の王女様でしたっけ?…恐らく、止める力もないのね」
「でしょうね。少なくとも継承順位が上の人間なら、それ相応の品格の護衛団が付くわ」
ライアが重く言う。
「この村に暮らす人たちは、外の権威に慣れていない。それをいいことに何かあれば…あっという間に壊れる」
レアが頷いた。
「それに、この村には私たちがいる」
「……所謂、“旧女神教徒”ですか〜?」
ベティが苦々しい顔で呟く。
「ええ。王族や護衛団なんかは確実に女神教が関わってる。いい顔はされないわね」
ライアは顎に手を当てて考えるように言った。
「加えて、赤い薬草がある。それを知られていたら…。まぁ、私が死んでないから、彼らが漏らしてはいないという事だけど」
「不穏ですね〜。…ただの視察で終わればいいですが〜」
「どちらにしても、村は守らなきゃならないわ。必要なら、私が止める」
ライアの静かな決意に、レアは頷いた。
「その時は、私も出るわ。…踏み荒らされて良い地なんてものはないけど、この村は絶対に駄目」
「そうですね〜。…緊張してきました〜」
ライアは小さく笑った。
「ベティ、あなたはそのままでいいのよ。緊張感は、こういう時こそ必要だけど…一番壊されやすいのも、ああいう“普通”だからね」
「そうね。――では、私ももう少しだけ、礼拝堂を整えてくるわ」
レアは静かに立ち上がり、祈りの言葉を胸に刻んだ。
もうすぐ、この村に“異なる空気”が入り込む――
それを、静かに迎える準備が、教会でも始まっていた。
#
夏の風が優しく吹き抜ける昼下がり。
オルババ村の小さな家の台所では、女の子たちの笑い声が弾んでいた。
「ねえねえ、王女様って、やっぱりお菓子が好きだよね?」
ナリアが真剣な顔で問いかけると、フィーダがふわっと笑った。
「うん、絶対好き! お城って、いーっぱい甘いのが並んでるんだよ。きっと!」
「じゃあさ、このクッキー、王女様にも食べさせてあげられるくらい美味しくしなきゃ!」
ミレイが手をぴしっと伸ばし、生地の上に指で花の形を描いていく。
ナリアは台の上に乗り、少しふくれっ面で手の粉を払った。
「でもさ、王女様ってどんな人なんだろう。おっきい? こわい? すっごくえらそうだったら…」
「それはないよ~!」
フィーダが首をぶんぶん振る。
「王女様は、ふわふわのドレス着てて、髪が金色で、にこにこしてて、…えっと、クッキーくれたら『まぁ、なんて素敵なの』って笑ってくれるの!」
「うんうん! それで、ありがとうって、お花くれるかも!」
ミレイも目を輝かせる。
「…えへへ、それなら、はちみつ多めにしよっか!」
ナリアが少し照れくさそうに言って、瓶を持ち上げた。
「でも入れすぎると焦げるからね?」
フィーダが手を添えて、二人でそっとはちみつを垂らしていく。
粉だらけの手、鼻に小麦粉をつけたまま笑い合う3人。
焼き上がったクッキーは、少し形が不揃いだけど、どこかあたたかくて優しい香りに満ちていた。
「これ、王女様に渡せるかな?」
「うん。きっと、ぜったい、よろこんでくれるよ!」
ミレイが包み紙を取り出し、三人でひとつずつ丁寧に包んでいく。
風に乗って、花の香りと、焼きたての甘い匂いが、村の中にほんのり広がっていった。
#
夜の街道は静まり返り、焚き火の炎がぱちぱちと音を立てる。
ジーナは小さな椅子に腰を下ろし、炎の揺らめきをじっと見つめていた。
「姫様。お茶をお持ちしました」
柔らかな声とともに、メイラが湯気立つ湯呑を差し出す。
「ありがとう」
ジーナは受け取りながら、焚き火の先へと視線を向け続けた。
どこか遠い場所を見ているような、焦点の合わない瞳。
「子爵に聞いたわ。“明日の昼には村に着く”って」
「ええ。ついに…ですね」
メイラの返事に、ジーナはふっと小さく笑った。
けれどその笑みは、どこか乾いている。
「また何か起きる。そう思ってるわ、私」
炎に照らされた頬に、影が落ちる。
「今日も、護衛団は傍若無人だった。作業中の人々に怒鳴りつけ、物を壊し、…私が止めようとしても、あの男たちは聞く耳を持たない」
握っていた湯呑が、かすかに揺れた。
「なのに、民の目に映るのは“王女様の行列”。何が起きても、その象徴は私なの。…それが、悔しい」
言葉を失ったように、メイラはそっと視線を伏せる。
ジーナはなおも続けた。
「結局、私は“止められない”。“変えられない”。口を出せば逆効果。黙っていれば共犯者。…どちらにしても、誰かを傷つけるだけ」
彼女の声がわずかに震えていた。
だがすぐに、それを覆い隠すように冷たい調子に戻る。
「…ねえ、メイラ。あなたは“付いていく”って言ったわね。でもそれって、私を慰めるのがあなたの役目だからでしょ?」
ぴたりと、空気が止まった。
メイラは、何も言えずに立ち尽くす。
ジーナは立ち上がり、湯呑を焚き火のそばにそっと置いた。
「――もう休むわ」
背を向けて、馬車の方へと歩き出す。
「おやすみなさい、メイラ」
その声はひどく淡々としていたが、どこか傷ついた子どものようでもあった。
火のそばに取り残されたメイラは、そっと湯呑に手を伸ばし、まだ温かいお茶を見つめた。
「…私は、あなたの従者です。ですが――」
誰にも届かぬほど小さく、そう呟いた。
夜は静かに更けていく。
その深さに、少女の苦しみと、誰にも見えぬ涙が沈んでいった。
#
夜の森は、しんと静まり返っていた。
獲物は上出来だ。
夕暮れ前、数匹のホーンラビットを仕留めた。
肉はすでにさばき、少しを炙り、残りは肉屋へ卸すつもりだった。
(…明日には着くのかな。王女一行は)
火にあたりながら、アイオンはぼんやりと空を見上げる。
星の光が、木々の隙間から覗いていた。
(…“気配”は感じる)
そっと右手を持ち上げる。
指先に意識を集中すると、空気の中に確かに微かな違和感――魔力の流れがある。
(でも、それを“形”にできない)
恐らくハーピーから手に入れた力――
風の対外魔法。
その因子は確かに魂に刻み込まれている。
だが、行使する。
それがどうしてもうまくいかない。
(形にする、って…どうすればいいんだろ)
火を見つめる。
揺れる炎の輪郭が、自分の魔力の輪郭と重なるような気がして、でもすぐに消えていく。
ふと風が吹き、枝が揺れた。
アイオンは立ち上がり、剣を腰に据える。
(…この森も、少しずつ変わってきてる)
魔物の数が明らかに増えた。
本来この辺りでは少ないウルフやゴブリンの気配を、ここ数日で何度も感じた。
(やっぱり、“何か”が起きてるんだろうな…。前はなかった広い空間もある。こんなところまで、木を切り出す必要もないし)
森がざわめいている。
王族の一行が来る。
それに合わせて、森に異変が起こっている。
(…関係あるとしたら…王女一行か?)
焚き火に土をかけ、立ち上がる。
やがて明ける夜――
その先に待つのは、ただの来訪ではないと、どこかで感じていた。
アイオンは一度だけ振り返り、暗い森を歩き出した。




