王女、オルババへ
――2日後、バルナバの街門が開かれた。
城門前に集まった民の間を割り、ゆっくりと馬車が進んでいく。
先頭を行くのは、若き子爵――ゲルド・フィギル。
そのすぐ後ろには、控えめながら気品のある王女の馬車。そして、赤い紋章を掲げた護衛団が隊列を組んでいた。
だが、その一行はどこか異様な空気を纏っていた。
「どけ、庶民ども。道を開けろ!」
「王女殿下のお通りだぞ!」
護衛兵たちは街の人々を威圧し、行く先々で罵声と暴力を振るう。
荷車を引いていた商人の腕を突き飛ばし、籠からこぼれ落ちた果実を踏みつけて進む。
子どもを抱いた母親が慌てて道を逸れ、老人がよろけるたび、周囲からは不安の声が漏れた。
「おい、あの人たち…王女の護衛なんだろ?」
「なのにあんな態度…。フィギル様は何も言わないのか?」
「護衛とあっちゃ、口出しできんのかもな…」
普段は温和で穏やかな市場の空気が、冷たいざわめきに変わっていた。
そのざわめきは、フィギルの耳にも痛いほど届いていた。
(この馬鹿ども…!何が護衛だ!?民の暮らしを踏みにじって、王族の名を傘に着るとは…!)
彼は馬を進めながら、護衛団の横暴を何度も制止しようとした。
だがそのたびに、ガーリンが横から遮る。
「殿下の安全を確保するのが我らの務め。小さな混乱など、必要な代償だ」
「混乱ではない。これは、街の秩序を壊している。下がってくれ、ガーリン隊長」
「子爵殿が領民を大事に思うのは結構。だが、今は王族が優先だ」
(これが王族のためになると、本気で思っているのか…?)
フィギルは唇を噛む。
ジーナは何も言わない。
守られるべき本人が、黙ってすべてを受け入れている。
(ハリボテの王女に、暴力の権威を誇示するだけの護衛団。…この地にはこの程度が相応しいという事か!)
王女の馬車からは、何の声も発せられない。
ジーナは静かにカーテンの隙間から外を見ていた。
押し黙ったまま、けれど眉間には深い皺を寄せて。
(…やっぱり、あの人は止められない)
街を見下すような護衛団の態度。
それに眉をひそめながらも、ジーナには声を上げることができなかった。
止めようとした時に浴びせられた、「王女が口出しすべきことではない」という冷たい嘲笑。
あの瞬間、彼女の中で何かが崩れた気がした。
(まただ。結局私は、言われるままに動くしかない。…王族として、誰も期待していない人形)
与えられた役割を果たすだけの旅。
「民に寄り添う」などという建前は、飾りの仮面でしかない。
(…だったらせめて、最後まで演じきってやる)
ジーナは俯き、握りしめた手の中に、微かに震える悔しさを隠していた。
#
街の広場に到着した一行を、使用人たちが出迎える。
だが誰一人、王族を前に頭を深く垂れることはなかった。
人々の目には、不信と戸惑い、そしてどこか冷めた視線が宿っていた。
護衛団はそれに気づかず、あるいは意図的に無視し、声高に命令を飛ばしては宿舎へと向かっていく。
(まるで敵兵の進軍だな。…なぜ彼らが“護衛”を名乗れるのか、理解に苦しむ)
フィギルの心に、怒りと無力感が絡み合う。
王族のために民を犠牲にするこの構図――それを許しているのは、ほかでもないこの国自身だ。
彼は強く拳を握った。
その光景を、街の隅から見つめていた者たちがいた。
「…今度は街でもやりたい放題か」
「いい燃料になる。……王女に従ってるだけで、こんなにも嫌われるとはな」
「街道整備で“良き子爵”なんて持ち上げられてたが、これでどうなるか…」
フードを被った男たちは、通りの影に溶けるように消えていった。
不満と不信――
それは、火種となって街にばら撒かれていた。
#
その夜――
酒場では、噂話が飛び交っていた。
「倉庫の鍵、護衛兵に無断で開けられたってな」
「なんでも“王女の命令”とか言って勝手に馬を借りていったそうだ」
「フィギル子爵は黙ってたらしいじゃねえか。あんだけ“民のため”って言ってたのに、結局あいつも…」
誰が最初に言い出したかは、誰も知らない。
だが、言葉はいつしか真実のように広がり、人の心を少しずつ染めていく。
(――王族が来ると、碌なことがない)
そんな空気が、確かにバルナバに広がっていた。
ジーナは、薄暗い部屋の中で、静かに手を組んでいた。
窓の外に見える灯火――
それは確かにそこにあるのに、どこか遠くのように感じられた。
(…田舎ね。なのに、ちゃんと人が暮らしてる。営んでる。…それなのに私は……)
誰からも期待されない。
名だけの王族。
発言すれば冷笑され、黙れば無力と映る。
ただの“飾り物”でしかない。
(…また、何もできなかった)
守るべきものがあるのに、声を出すことすらできない。
誰かを庇おうとすれば否定され、何も言わなければそのまま風景の一部になる。
そんな自分が、腹立たしかった。
(“お飾りの王女”…それならいっそ――)
感情を押し殺しながら、ジーナはそっと目を閉じた。
その胸の奥に、悔しさと怒り、そして微かな決意が、ゆっくりと沈んでいく。
そしてその夜、さらに数人の“旅人”がバルナバの街へと紛れ込んでいった。
民のふりをして、貧民街へ。宿屋へ。広場へ。
すべては、“その日”に向けて――
静かに、確かに、仕込みが進んでいた。
#
朝――
バルナバ領のフィギル邸の中庭には、張り詰めた空気が漂っていた。
護衛団の赤い外套が並ぶ前に、子爵フィギルが毅然と立つ。
「――たった1日の滞在で、村の蔵を無断で開け、家畜に手を出し、子どもを泣かせたという報告が複数届いています。…女性を無理矢理引きずり込んだ、なども」
低く、しかし明確な怒りを込めて、フィギルは護衛団長――ガーリン・デュラントを見据えた。
「民に対する振る舞いとして、看過できるものではありません」
ガーリンは口元を歪め、鼻で笑う。
「くだらんな。所詮は田舎者の被害妄想だろう。貴族に仕えるのが民の本分ではないのか?…体を使われる事も、名誉だと泣いて喜ぶのが普通だ」
下衆な笑いが起きる。
フィギルは怒鳴りたい衝動をなんとか押し殺した。
(…この腐った思想が、王族の護衛として罷り通っている現実。…これが、“貴族”の正体か)
「“仕える”とは、虐げられることではありません。誇りを持って生きることができる関係こそ、本当の従属です」
「理想論だ。民など、与えられるだけで満足していればいいのだ」
男の声には、当然のような冷笑と見下しがあった。
(この国はもう病んでいる。民の尊厳すら知らぬ者が、王族の隣で口を開いている…)
「……私の領内でその理屈は通用しません。民の信頼なくして、領地の存続などあり得ない」
「信頼? ほう、それで王女の護衛を責めるとは、子爵も大層な正義漢だな」
一歩、ガーリンが詰め寄る。
「王族の威光を背負っている我々が、多少民に不快を与えたからといって、それがなんだというのか。むしろ、畏敬の念を持たせたと考えるべきでは?」
「それは“恐れ”でしかない。貴族がそうあるべきだとお考えなら――」
フィギルはゆっくりと言い切った。
「――私は、貴族であることに恥じるしかありませんな」
周囲の兵士たちが一瞬たじろぐ中、ガーリンの目が細められる。
「……舌の回る小僧だな」
吐き捨てるように言うと、彼はくるりと背を向けた。
「せいぜい、その綺麗事でどこまで領地を守れるか試してみろ。子爵殿」
その背を見送りながら、フィギルは内心で唇を噛んだ。
(こんな男が、王族に近しい位置にあるというのか…。傀儡政権とはいえ…腐臭すら隠そうとしないとは)
重苦しい沈黙が流れる中――
「…おはよう」
背後から、柔らかな声が響いた。
振り返れば、朝の光を浴びた石畳の上に、王女ジーナ・ローズレッドが立っていた。
控えめに、しかし毅然とした表情で。
フィギルはすぐに頭を下げる。
「おはようございます、殿下」
「悪かったわね、護衛の件…私がきちんと制御できていれば、村人にも不快を与えずに済んだのに」
(制御できるはずがない…そもそも“制御される気がない”連中なのだ)
顔を伏せ、答える。
「責任を感じる必要はありません。問題は、領主である私が処理すべきことです」
(なにもできない飾り物が、殊勝な顔をするな…)
敵意を隠し、淡々と答える。
そんな姿にジーナは少しだけ目を見開き、それから静かに微笑んだ。
「…我慢強いのね。文句の一つも言われて当然だと思うけど…」
「…滅相もない。殿下は殿下なりに、振る舞われれば良いかと」
フィギルは穏やかに答えた。
“飾り物なら、それらしくしていろ”という皮肉を滲ませて。
ジーナはふと視線を外し、少し考えるように言った。
「そういえば――昨日の話の続き。カルララ村のほかに、もうひとつ村があると聞いてるわ」
「…オルババ村のことですね」
「そこも、視察したい」
フィギルは少し間を置いたのち、やんわりと首を横に振った。
(…厄介な!)
「――オルババ村は、バルナバからも遠い最辺境です。村というより集落に近く、王族が立ち寄られるには、あまりにも…」
「でも、そこもこの地の一部なんでしょ?」
ジーナは一歩前に出ると、まっすぐにフィギルを見つめた。
「カルララとバルナバだけを見て、全部をわかった気になるのは、あまり好きではないわ」
(なにをやる気になってるんだ!…昨日まで目も合わせられなかった人形が)
「…お気持ちはありがたいのですが、護衛の負担も考慮すると」
「私の“遊行”よ?見るべきものは私が決める」
柔らかい言葉の中に、確かな意志の強さがあった。
フィギルはわずかに目を伏せ、短く息を吐く。
「――承知いたしました。準備を整え、午後には出発できるようにします」
ジーナはほっとしたように微笑んだ。
「ご迷惑をかけるわね。じゃあよろしく」
「…恐縮です。ですが、護衛の方々にはあまり期待なさらぬよう」
ふっと、ふたりの間に笑みがこぼれた。
(クソッ、伝令魔法で急ぎ知らせねば…!バルナバからオルババ村までは3日…、整備中の街道で時間を稼げたとしても4日がせいぜいか…。それまでに用意をさせねば!)
――フィギルの内心など、気づきもせずに
(…全部見て、帰りましょう。…それで王族に悪感情を抱いてくれるなら…王国に対する嫌がらせにはなるわ)
――また、ジーナの陰った決意にも気づかずに
#
そして、午後――
王女ジーナ一行は、簡素な装備でバルナバを発った。
先頭にフィギル子爵と私兵数人。
その後に王女を乗せた馬車。
あくまで“民に近い視察”を貫くという名目で、華美な装備も威圧的な陣容も排されていた。
後にガーリンら護衛も続く。
――赤い紋章を威圧的に掲げる数人の護衛団が。
その姿を、街外れの古びた小屋の窓から見つめる男がいた。
「…動いたな」
黒ずんだフードを被った男は、馬車の背を目で追いながら呟く。
傍らでは、粗末な鎧を着た数人の男たちが武具を整えている。
それぞれが農夫や狩人を装い、バルナバの周囲に自然と溶け込んでいた顔ぶれだ。
「オルババ村までの街道は森を抜ける長い道。王都の目も届かない、まさに“何かが起こる”にはうってつけの場所だ」
男は机の上に広げた地図を指でなぞる。
道中に赤く記された三叉路。その近くに、小さく“崩れかけた石塔”と書かれていた。
「ここが最適だ。見通しは悪く、馬車の進行は遅くなる。しかも、護衛は少ない」
「問題は、あの子爵が同行していることだな。あいつが邪魔に入らなければ――」
「…逆だよ」
別の男が不敵に笑う。
「今回は、“王女の誘拐”と同時に、“子爵の責任問題”を叩きつけるのが狙いだ。王女を守れなかった失態としてな」
「そうだ。どのみち王女は傷つけない。姿を消せば、王都は大騒ぎ。だが矛先はまず、奴――“地方の無能子爵”へと向く」
「村からバルナバへ帰る道中の方がいいな。オルババ村の住人にも、護衛団の横暴さを味あわせ、不満を煽ろう」
「後は攫い、王女を引き渡して、任務終了だ。…いいな?くれぐれも手を出すなよ?」
男たちはうなずき合い、荷を背負って小屋を出ていく。
その背にはそれぞれ違う装い――
旅の行商人。整備に関わる貧民。薬草を担いだ行商女。
どれも、道中で紛れれば誰も怪しまぬ姿ばかり。
その足が向かうのは――オルババ村。
誰の目にもつかず、誰の耳にも届かない地で、計画は刻々と進行していた。




