火種
日が傾きかけた頃――
カルララ村に一陣の馬が駆け込んだ。
土埃を巻き上げて止まったのは、バルナバ一帯を治める若き子爵――ゲルド・フィギル。
本来であれば、王女一行は直にバルナバ入りするはずだった。
だが、なぜか彼らは3日前からこの小さな村に滞在していると聞く。
(王都からならカルララ村の方がわずかに近い…だが、今まで視察で村に寄られたことはなかったのに!)
知らせを受けたのは昨日のこと。
フィギルは街の政務を部下に託し、すぐさま馬で駆けつけた。
「遅れて申し訳ない!」
馬から降りると同時に、王女の馬車の前へと進む。
しかし、行く手を阻んだのは、濃い紅の紋章を纏う男――
「この地の者か? 名を名乗れ」
不躾な声音と横柄な態度。
男――ガーリン・デュラントは、王女の護衛隊長を務めると名乗った。
「フィギル地方領主、ゲルド・フィギルだ。王女殿下をお迎えに参上した」
その名を聞いた瞬間、ガーリンの口元が皮肉気に吊り上がる。
「ほう、貴様が…あの“貧民に媚びる貴族”か」
フィギルは眉をひそめつつも、言葉を飲み込んだ。
自らが進めてきた政策に対し、敵対貴族からそう揶揄されていると笑われたことはあったが、面と向かって悪意をぶつけられたのは初めてだった。
相手は王女の護衛であり、名門伯爵家の人間――。
(…なんでこんな奴が王女の護衛なんだ)
「予定と異なる地にご滞在と聞き、急ぎ参りました。殿下のご無事を確認したく――」
「その必要はない。我らが随行している以上、王女殿下に不備はない。
それとも、子爵殿――伯爵家に連なる私の率いる護衛隊に、不信でもおありかな?」
明らかな挑発を含んだ口調だった。
ガーリンの後ろでは、護衛兵たちが嘲るような目をフィギルに向けている。
(…お前がなにかを成したわけでもないのに、なぜこうも偉そうにできる?)
フィギルは視線を逸らさずに応じた。
「…村の者がご迷惑をかけていないか、それを確認したいだけです」
「くだらん。貴族の務めとは、民に頭を垂れることではあるまい。
そもそも“村など”に王女を迎えさせるとは、子爵としての矜持が足りぬのでは?」
「――ッ」
(貴様らが勝手に来たんだろうが!!)
歯噛みしながらも、フィギルは耐えた。
王女の目の前で、これ以上争うわけにはいかない。
周囲では村人たちが、遠巻きに様子を伺っていた。
その表情には、護衛団への明確な不信と戸惑いが浮かんでいる。
すでに村では、「護衛兵が家畜を勝手に使った」「倉庫に無断で入り込んだ」といった噂が広がっていた。
王女の護衛とは思えぬ横柄な振る舞いは、村人たちの心を冷やしていた。
(…これでは、視察どころか私の信用まで失いかねない)
フィギルは静かに息を吐き、改めて礼を込めて言った。
「この村に滞在されていたこと、事前に存じ上げず、大変失礼いたしました。
つきましては、殿下を早々にバルナバへお迎えしたく――」
「ふん、ようやく貴族らしい口をきいたな。
貧民などより、王女殿下の足元を気遣う方がよほど相応しい」
「…それが“貴族の誇り”だというのなら、私は貴族であることに恥じるしかありません」
その一言に、ガーリンの目が細められる。
一触即発の空気を断ち切ったのは、馬車の扉が開く音だった。
ジーナ・ローズレッド王女が姿を現す。
「もういいわ。出発しましょう」
その一言で、ガーリンも言葉を飲み込む。
王女の命令には"一応"逆らえない。
フィギルは軽く頭を下げ、馬車の横へと歩み寄った。
「バルナバまでは整備された道です。お疲れが出ませんように」
ジーナは短くうなずき、馬車がゆっくりと動き出す。
フィギルはその隣を馬で並走しながら、村に残された空気を思い――静かに唇を噛んだ。
(…くそ!護衛たちの振る舞いが、すべてを台無しにしている。民からの信頼も、あの王女の印象も…私の政策も!!)
#
カルララ村を離れ、馬車が街道を進む。
ジーナは無言のまま、窓の外を見つめていた。
その視線の先、村を駆けてくる者の姿が浮かぶ。
(あれが、この地の子爵……フィギル)
王都では名前すら耳にしない地方貴族。
若くして男爵位を継ぎ、早々に子爵位になったが、辺境ゆえ中央の舞台には縁がない男。
だが――
彼の瞳に宿る焦りと責任感は、ただの“地方貴族”ではなかった。
(…必死に、何かを守ろうとしてた)
その姿が、胸の奥で引っかかった。
王族に媚びる貴族の顔ではなく、何かを背負おうとする意志のようなものが確かにあった。
だが現実は――。
「下がれ。子爵風情が王女の前に立つとは、不敬だろう!」
護衛団長・ガーリンの声が響き、フィギルが押しやられた瞬間――
ジーナは、深く小さな息を吐いた。
(…私が、村を見たいなんて言わなければ)
小さな反抗心だった。
誰にも期待されない視察なら、自分で意味を見出したかった。
だが、出した結果は最悪だった。
フィギルは馬を駆け、護衛は横暴を振るい、村人は困惑し――。
王族の名は、ただ混乱と迷惑をもたらす象徴にしかならなかった。
(それが“王族”なのね)
護衛たちは自分の命令すら守らない。
止めようとしても「身分が違う」と嘲られる。
王女という肩書きを持ちながら、誰一人従わせられない自分。
「…滑稽ね」
そう呟いた声は、自分自身へと向けたものだった。
#
王女の馬車が村を離れた後――
カルララ村に再び静寂が戻る。
だが、その空気は平穏とは程遠かった。
「護衛たち、ひどかったな」「あんなのが王族の側近なのかよ…」
人々の間で、呆れと怒りが漏れ始める。
そこに混ざる、見慣れぬ顔の男たち。
「…聞いたか? 蔵が荒らされたって」「馬を近づけられた子どもが泣いたって話もある」
「フィギル子爵は何してたんだ?」
その問いに、男は溜息まじりに答える。
「…何もできなかったんだろうよ。王族の前じゃ、ただの小役人さ」
不満はやがて、不信と静かな怒りへと変わる。
#
夜、古びた納屋の中。
数人の男たちが、低く笑いながら集まっていた。
「…思った以上に上手くいったな」
「ガーリンとかいう護衛団長、まさに“燃料”だったな」
「“護衛に蹴られた子ども、蔵を荒らした王族の一行”…どれも確証じゃないが、噂だけで十分だ」
「村人の半分は信じてる。残りの半分も、疑い始めてるさ」
「フィギル子爵が黙って見てた――って噂も混ぜておいた。あとは“民の敵”として広めるだけだ」
男たちは満足げにうなずき合う。
「じゃあ、次はバルナバだな」
「ああ。合流先も準備済みだ。王女がオルババ村にも寄れば、そこで誘拐が実行される。寄らなくても、バルナバから王都に帰る道で…」
「いよいよだな」
男は服を着替えながら、静かに言い放った。
「油断するなよ」
#
翌朝。
数人の“旅人”たちが、村を後にした。
農夫に扮した男。旅商人に紛れた者。修道服を着た老女――
そのすべてが、計画の一端を担う侵入者だった。
村人たちは彼らに手を振り、食べ物を渡し、言葉を交わして見送った。
だが、その背中が向かう先は――バルナバ。
静かに、確実に、火は広がろうとしていた。
#
昼下がりの森の縁。
バルナバとオルババ村を繋ぐ街道沿いでは、斧や鍬の音が響いていた。
木々を払い、地を均し、荷車が通れる幅に整えられた道。
フィギルの私兵が待機する小屋。
村と街を行き来する際に便利な休憩所。
まだまだ未完成だが、利用できる施設ではある。
その周囲では、数人の村人と雇われ作業員が汗を流している。
その少し先。木陰で警戒に立つのは、ウルとオニクの二人だった。
「…さっきの群れで、もう3度目だね。今月だけで」
魔力の残滓が漂う方向をじっと睨みながら、オニクが呟いた。
つい先ほどまで魔物――ホーンラビット数匹との小競り合いがあったばかりだ。
「例年の倍以上だな。特に、昼間に出てくるのが増えてる」
ウルは大盾を背に、倒した個体を確認しながら答える。
その声は落ち着いていたが、わずかに警戒心が滲んでいた。
「…気候の変化とか、そんな話じゃなさそうだ」
「うん。繁殖期でも“こんな出方”はしないし、狙いもおかしい。まるで…“追われて”出てきてるみたいだ」
「追われて?」
オニクが怪訝な顔で振り向く。
「…何かが、森の中から押し出してるように見えるんだ。居場所を追われて、行き場なく溢れ出してる」
「…群れの一部だけが押し出される? それ、縄張り争いならまだ理解できるが。今の魔物たち、妙に散ってるじゃないか」
ウルは小さくうなずいた。
「…“何か”が中心にいて、そこから半径を取るように、魔物が外に出ている。そんな印象だ」
オニクは腕を組み、空を仰いだ。
「まさか、禁断の森から?」
「それはないと思う…あそこから魔物が出てくるなんて話があったら、とっくにこの辺は滅んでるはず」
二人の間に、ひとときの沈黙が流れた。
「ま、気のせいかもしれないけどさ。俺、ちょっと嫌な感じがするんだよな」
「…僕もだ。魔物の数だけじゃない。森の“気配”が、去年と違う。生き物が静かに息を潜めてるような…そんな感覚がある」
オニクは軽く肩をすくめると、魔法石のついた杖を手にした。
「何があっても、仕事は続ける。だけど…これ以上おかしくなるようなら、僕は街の方に伝えるよ。さすがに放っておけない」
「俺も賛成だ。村も街も、この道が頼りになる。…誰かが、ちゃんと見ておかないと」
二人は再び視線を森へと戻し、周囲の気配に意識を研ぎ澄ませた。
「イザーク達に知らせようか?」
「…そうだね。彼が僕たちのリーダーだし…」
森の奥で、鳥の鳴き声が途絶えた。
風は穏やかに吹いていた。
だがその奥に、違和感の混じる“何か”が、確かに潜んでいる気がした。




