風
「そっち、ホーンラビット2体」
ライアの指示に、アイオンは即座に地を蹴った。木々の合間を駆け抜け、飛び出してきた2匹を正面から捉える。
「――っ!」
1匹目は正面から跳びかかってきた。横跳び。その動きを読み切ったアイオンの剣が、見事に体を薙ぐ。
もう1匹は後方へ飛び退こうとしたが、すかさず左手で石を投げつける。動きが鈍ったその一瞬を逃さず踏み込み、剣を横に振って軽く叩きつけるように地に沈めた。
「ふぅ…次は?」
「今度はゴブリン3体。…春ね、魔物の数が増えてるわ」
「…例年より多いように感じます」
「魔物の中でも、ホーンラビットとゴブリンは繁殖が早いから。特にこの時期はね」
ライアが淡々と答え、指先で方向を示す。
「このまま続けましょうか。村から近すぎるのは、ちょっと気になるし」
「了解です」
木立の影に潜んでいたゴブリンたちが一斉に吠えたが、アイオンは怯まず距離を詰める。
1体目の棍棒を受け流し、すぐさま脇腹へ一撃。
2体目は突撃してきたところを足払いで転倒させ、腹部を叩く。
3体目は少し離れた場所から斧を投げてきたが、すんでのところで回避し、木を蹴ってそのまま斬り込んだ。
(…この程度なら、問題ない)
息を整え、剣を軽く振って血を払う。
「数が多くても、動き自体は単純ですね」
「慣れてきたわね。余裕がある」
ライアが軽く笑いながら歩み寄る。
「じゃあ、そろそろ――」
そのときだった。
「っ、ライアさん、今の見ました?」
「ええ…今の影。上からだったわね」
枝葉の隙間を鋭く裂く影。羽ばたきは重く、湿った空気を切り裂く音が混じる。鳥とは違う、鋭く粘る質量のある羽音。
「まさか、ハーピー?」
ライアの声に、空気が一気に張り詰める。
「本来は、もっと標高の高い場所に巣を作るはずよ。どうしてこんな所に――」
バサッ。
耳を裂く羽音。落ち葉が渦を巻き、視界の端で影が翻る。視線の先、森の開けた一角に、それはいた。
「――間違いないわね、ハーピーよ」
空を滑るように飛びながら、こちらを睨みつけている。
灰青色の翼。人型の上半身。鋭い爪の先には風の魔力が揺らめいていた。
「来るわよ。構えて」
「はい!」
アイオンが地を蹴った瞬間、空が割れた。刃のように鋭い風が斜めに走り、草を切り裂き、地を抉る。
「くっ――!」
頬に熱い線。浅く裂かれた皮膚から血が滲み、視界が赤に染まる。
(近づけさせないつもりか!)
風弾が次々と飛ぶ。軌道は曲線を描きながらも狙いは正確。アイオンは転がり、跳び、枝を蹴りながら、必死に間合いを詰めた。
「くそっ、動きが読みにくい!」
上空でハーピーが笑ったように見えた。羽ばたくたび、森が鳴り、葉が千切れ、砂が舞う。空気そのものが敵になったような圧迫感。
「焦らないで! 風魔法は翻弄が基本。詠唱の隙を狙いなさい!」
ライアの声が遠くで響くが、風の轟音に半ば掻き消される。
(見える……! でも、体が遅い!)
上空から爪が振り下ろされる。反射で剣を構えた瞬間、金属が擦れるような高音。風の刃が剣を滑り、腕に衝撃が走る。
(重いっ……!)
体勢を崩した足元を、風弾が抉る。飛び散った土が頬を打ち、肺の奥まで風が入り込むような乾いた痛みが走る。
(このままじゃ、距離を詰める前に削られる!)
だが、そのとき――ハーピーの口が、微かに動いた。
(詠唱だ!)
目線が逸れた、その一瞬。時間が引き延ばされたように見えた。
――羽ばたき。――風の塊が膨張する。
その瞬間、アイオンは飛び込んでいた。
「そこっ!!」
剣閃。鋼の弧が、音もなく走る。次の瞬間、風の渦を断ち切るように血飛沫が舞った。
ハーピーが叫び、羽を乱暴に広げて後退。折れた羽根が、陽光を反射してひらりと落ちた。
静寂。遠くで、森の鳥が一斉に飛び立つ。
「…なんとかなった」
剣を下ろし、深く息を吐く。ライアが傍に寄る。
「よく耐えたわね。ハーピーなんて、この辺りじゃまず見ないもの」
「……驚きました。村の近くに出るなんて」
「隙を見逃さなかったのが、今回の勝因ね。それに、身体強化せずにあれなら上出来よ」
「……でも、“反射”じゃなかったです。動きを“理解してから”体が動いた感覚でした」
「いいわね。その実感を“無意識にできる”ところまで落とし込むのが訓練よ」
ライアはふっと笑う。
「さて、手負いとはいえ、放っておけないわね。少し散策して、見つけたらトドメをさしましょう」
「放っておけば、村に向かう可能性もありますからね」
頷き合い、2人は再び森へ足を踏み入れた。
#
陽が傾き、森に金色の光が差し込む。地面には黒ずんだ血が点々と残り、湿った空気が重くのしかかっていた。
「……この辺り、血の跡」
アイオンが指で示す。指先に乾きかけた赤黒い粒がつく。生々しい体温の残滓――獣がまだ近くにいる証拠。
「低空で逃げたのね。さっきの傷なら、もう長くは飛べないはず」
ライアの声は落ち着いているが、瞳は鋭い。光を反射するその眼差しが、森の闇を切り裂くように前方を射抜く。
(……いる。どこかで、こっちを見てる)
風がざわりと木々を揺らし、血の匂いが濃くなる。鳥の声が遠のいた。
数歩進んだ先。倒木の陰、わずかに光を遮る影の中――。
「――いた」
草むらにうずくまる灰青色の翼。片翼は垂れ、もう片方は力なく震える。だが、その目だけは、生気を失っていない。
ギィィ――!
耳を裂く叫び。嵐が喉を鳴らしたような音だった。
「まだ動けるつもりか!」
アイオンが剣を構えた瞬間、地面が跳ねる。風の塊が弾丸のように放たれ、樹皮を抉る。木片が飛び散り、頬をかすめた。
「当然よ。追い詰められた魔物は、より一層凶暴になるもの」
ライアは動かない。
ただ、冷静に“試して”いるように見えた。
(……援護は、ない。俺だけでやれってことだ)
深呼吸。心臓の鼓動が耳の奥で鳴る。風の唸りが、血の音と重なる。
「――来い!」
叫びと同時に、ハーピーが羽ばたく。空気が爆ぜ、土煙が上がる。木々がしなるほどの突風が、アイオンの全身を叩いた。
(速い――けど、もう見える!)
爪が振り下ろされる。アイオンの世界がゆっくりになる。羽の角度、爪の軌道、風の圧力――すべてが“理解”できた。
それでも反応は半拍遅い。風弾が地面を穿ち、砂煙が目に入る。
「くそっ、手数で押してくる気か!」
後退しながら呼吸を整える。肺の奥に熱がこもり、視界がわずかに滲む。
ハーピーが空中で旋回。羽根に光が反射してきらめくたび、風の刃が軌跡を描く。
(羽ばたく瞬間……魔力が収束してる!)
再び距離を詰めると見せかけ、アイオンは石を拾い上げて投げた。乾いた音。翼の付け根に当たり、ハーピーが一瞬体勢を崩す。
「――今だ!」
地面を蹴る。風を割る音とともに、剣が弧を描く。だが、ハーピーも反射的に詠唱を走らせ、風が唸った。
爆ぜる風圧。足元の地が割れ、体が浮く。視界が反転し、空と木々が入れ替わる。
「っぐ……!」
地に叩きつけられる寸前、アイオンは剣を突き立てて衝撃を殺した。砂が舞い、口の中が鉄の味で満たされる。
立ち上がる。傷口に汗が流れ込み、視界が揺れる。けれど、その瞳の奥の光は消えない。
「――終わりにする」
ハーピーが咆哮。翼が大きく広がり、風が渦を巻く。空気が震え、葉が一斉に裏返る。嵐が形を持ったようだった。
(詠唱……また来る!)
空中で1回転。風の魔力が周囲の空気を吸い上げ、目に見えない壁が迫ってくる。
「――させない!」
アイオンは地を蹴り、風を切り裂いて跳び上がる。ハーピーの足を掴み、その勢いのまま身を引き寄せ――
「せあっ!!」
渾身の一閃。風を断ち、肉を裂く音。
ハーピーが絶叫し、体がねじれるように落下。羽根の雨が散り、地面に叩きつけられる。翼が千切れ、血が土に滲んだ。
アイオンは背後に着地し、息を荒げつつ剣を構え直す。
「……まだ、やる気か」
ハーピーは呻きながらも、爪を伸ばそうとする。だが、魔力の光は消えかけていた。羽の先が震え、風が止む。
「終わりだ」
一歩、踏み込み。剣が閃き、胸を貫く。鈍い音とともに、すべてが静まり返った。
風が止む。森が息を吹き返すように葉の音が戻り、陽光が血の上で金色に揺れた。
「――ふぅ」
「やったわね」
ライアが静かに歩み寄る。
「ええ。前よりは落ち着いて戦えた気がします」
「今回は、ほとんど“体で”動いてた。目の使い方も良くなってる」
「…でも、まだまだです。魔法への対処が遅い…」
「そう。だからこそ、できたことをちゃんと認めなさい」
ライアはそっとアイオンの頭に手を置いた。
「今日のあなたは、ちゃんと“戦えてた”わよ」
#
夕暮れが近づき、森の影が長く伸びていく。木々の隙間から漏れる光を浴びながら、2人は静かに村へ戻った。
村の入り口を通り抜けると、教会の扉が開く。
「あら、おかえりなさい」
中から現れたのは、シスター・レア。微笑みを浮かべながらも、アイオンの傷に気づいて顔を曇らせる。
「怪我を?」
レアはすぐに回復魔法をかけながら問いかける。
「少しだけです。森で、魔物に」
アイオンにライアが合わせる。
「少し手強い相手だったわ」
レアが訝しむ。
「何がいたの?」
「ハーピーです」
レアの表情が凍る。
「……この近くに?」
「はい。このあたりじゃ聞いたことなかったけど…」
アイオンが続ける。
「例年より低級の魔物も増えてる気がしましたし…何か、異変があるのかも?」
レアが戸惑いながらも頷く。
「かもしれないわね。ラクトたちが戻ったら、調査を頼まなければ」
「…気になるわね」
「ええ。――上着を持ってくるわね。セアラに心配かけてもあれだし」
レアは教会の奥へ足早に消えていく。
「…予想外の反応ですね」
「そうね。長くこの村にいても、記憶に残るほど珍しいってことよね」
着替えをし外に出る。夕暮れの風が、村の通りを通り抜けていく。
アイオンは空を見上げ、ふと呟く。
「……風が、強くなる?」
「えっ?」
ライアが首を傾げた瞬間、突風が吹き抜けた。
「びっくりした。なにか感じたのかしら?」
彼は風の通り過ぎた先を、じっと見つめていた。
「すいません。なんだろう、風が鳴いた気がして」
「なにそれ、魔法使いみたいなこと言うのね」
クスリと笑うライア。
しかしアイオンの頭に浮かんでいたのは、あのとき耳にした“あの言葉”だった。
――"因子"
そっと、呟く。
理解できなかった対外魔法の感覚。あの瞬間、ほんのわずかに、それが“繋がった”気がした。
そんな風だった。




