プロローグ 誤算
2章プロローグ
誤算だった……。
何もかもが、あまりにも。
策は悪くなかった。
いや、むしろあの地には“過ぎた”策だったとすら思っていた。
フィギル子爵の領土。
王都より遠く離れた地で、軍備は手薄。
周囲との不和はあるものの、領民が平和に暮らしている弱小の土地。
人々はフィギルの統治のもと、ただ日常を生きている。
だからこそ、そこに“対処不能な賊”を放った。
知性を持たず、交渉も効かず、暴れれば数十人は死ぬ。
数刻の混乱であっても、それが貴族の統治に亀裂を入れるには十分だった。
まして、それは“あの方”からの命令だった。
「……まずは揺らせ。穏やかな水面に、石を投げろ」と。
それだけでよかった。
反乱を誘導する必要も、血を流す必要もなかった。
ただ一つ、賊が暴れ、街か村が火の海となれば――
それがどれほど、あの“傲慢不遜”の子爵にとっての失点になるか、計算は済んでいた。
……しかも、今回は思わぬ“追い風”があった。
ちょうどその頃、ジーナ第3王女が子爵領を視察に訪れていたのだ。
王の寵愛を受けているわけでもない。
王位継承順位も第6位。
王都では、誰も特別視などしていない“ただの王族”。
だが、だからこそ、もしもの時に“守られない”可能性も高い。
仮に賊の襲撃に巻き込まれていたら、命を落としていたかもしれない。
そしてその瞬間、フィギル子爵は間違いなく終わっていた。
王女がどれだけ軽んじられていようとも、
“王家の者を預かる地で死なせた”という一点で、全ての責任は領主にある。
それは王都の意志ではなく、王国という仕組みそのものが動く話だ。
絶好の機会だった。
――なのに、現実は違った。
賊の討伐に動いたのは、私兵ではない。
部下の報告では、たった数人の冒険者たちが、あの賊共を沈めたと。
混乱も起きなかった。
王女も無事だった。
当然だ――子爵が手を打ったのだろう、と、誰もがそう思った。
だが――違った。
王女の命を救ったのは、どこの兵団でもなければ、冒険者でもなかった。
“ただの村の少年”だったと、遅れてきた報告に記されていた。
名もなき者。
誰も知らない存在。
策の計算にも、世界の枠組みにも含まれていなかった、“本来あり得ないはずの存在”。
その少年が、たったひとりで王女を守りきった。
貴族も兵も成さず、軍略も魔術も届かぬところで、
すべてを壊されたのだ。
計画は潰された。
賊は殺され、混乱は起きず、王女は守られた。
子爵は落ち度どころか、結果として“王女を守り抜いた領主”として評価を得た。
――何もしなかったというのに。
……そして、“こちら”には何も届いてこなかった。
失敗を悟ったのは、それから数日後だった。
“あの方”からの返答が来なかった。
指示も、詰問も、何も。
それが何を意味するか、わからぬほど愚かではない。
この私に、逃げる理由などない。
この命は、あの方に差し出した時に終わっている。
それを、自らの手で回収するだけだ。
震える手で短剣を掴む。
冷たい刃の感触が、現実を突きつけてくる。
それでも、怒りは消えない。
腹の底が煮え立つような屈辱。
「誰か知らない者」に、策を打ち砕かれたという事実。
しかも、あの平和で脆い領土の中で――
しかも、“ただの少年”に――
「フィギル……」
名を口にすれば、なおさら腹が立った。
あの男が動いたわけではない。
なのに、守り切られた。すべてを。
敗北だった。
何一つ残せず、傷ひとつつけられず、ただ失敗という痕だけが残った。
もう終わりだ。
せめてもの忠義。
せめて、自分という駒があったことを、刃に刻み込んで――
男は、静かに目を閉じた。
血の音が耳に響く頃には、すべてが終わっていた。
そのとき、窓の外から――
いつものように、夜の鐘が鳴った。
この街に住む者たちに、穏やかな夜の訪れを知らせる音。
けれど彼には、それが
“誰にも気づかれずに死んでいくこと”を、
ただ静かに告げているように思えた。
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