祈りの先に届いた声
「…アイちゃん?」
「…ごめん、ごめん」
ただ謝り続けるその顔は、涙で濡れていた――。
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「あの時、気づいたんじゃないかな? 顔も体も同じなのに―」
「なんで知ってるの?」
今よりも幼かった頃の記憶がよみがえる。
病気が治って元気になった、大好きな兄と手を繋いで、遊びに行こうと誘ったあの時――
手は払われ、体を押され、転んだ自分に、兄はただ謝り続けていた。
「ねぇ! なんで知ってるの!?」
「…見ていたからねぇ。目を通して。」
思わず怒鳴ってしまった自分に、白い女性はそう答えた。
意味は分からなかったが、彼女は続けた。
「子どもは時に敏感だ。だからこそ真実を見抜いてしまう。…きみだけが、気づいてしまった」
――違う?
そう思った瞬間、すべてが違って見えた。
食べなかった野菜を食べるようになった。
嫌いだった運動をするようになった。
家族を“さん”付けで呼ぶようになった。
…手を繋いでくれなくなった。
…何をしても、謝るようになった。
…顔も体も、同じなのに。
「…アイちゃんは? アイちゃんはどこに行ったの?」
「…その問いに答える権利は、私にはないよ。」
悲しそうに俯き、そして顔を上げた白い女性が、静かに問う。
「だからもう一度聞くよ。どうだい? もう一人のお兄ちゃんは…嫌いかい?」
“もう一人”って、そういう意味だったんだ――。
少しだけ考えて、そして言った。
「…好きだよ。アイくんも。大好きだよ。」
それは、変わらない答えだった。
アイちゃんでも、アイくんでもいい。
どちらも優しい、自分の兄だから。
「――そうか。そうか!」
白い女性は、嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう、ナリア! それが聞きたかったんだ!」
優しい、でもどこか哀しい光が、彼女の体を包む。
柔らかく、白い光。
「家族に、あまり心配かけてもいられないだろ? ……目を覚まして、薬湯を飲んで、安心させてあげな」
光は、さらに強くなっていく。
「…ここ…の記憶…失うけど…その気持ち…忘れないで…」
――遠くなる。
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馬に乗ったゼアスとアイオンが、家に着いた。
村人たちは慌てて道を開ける。
ゼアスはアイオンを背負ったまま、壊れたドアを跨いで中に入り、父と母、そしてナリアのいる寝室へ駆け込む。
「父さん! 母さん! ナリア!」
「ゼアス!?アイオン!!」
「ああ…女神様!」
駆け寄りたい衝動を抑え、ナリアに向かって叫ぶ。
「ナリア! アイオンが、ゼアスが帰ってきたぞ!」
「お願いだから! 目を開けて! ナリア!」
急いでベッドの横に移動し、ゼアスが声をかける。
「ナリア! ゼアスだ! 帰ってきた! ほら! お前も!」
アイオンもそっと下ろされ、声をかける。
だが、ただナリアを見つめるばかりで、言葉は出なかった。
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(…魔力が、保たない…)
レアの魔力は限界に達しようとしていた。
およそ六日間、断続的に回復魔法をかけ続けてきた。
生まれつき魔力量の多いハーフエルフといえど、限界はある。
だが、今魔力が尽きることは――ナリアの死を意味していた。
ベティはすでに力尽き、虚ろな目でアイオンを見つめているだけ。
(ここまできて…!)
助けるための薬は、ある。
だが、それを飲むための力が、ナリアには残っていない。
ラクト家の悲痛な叫びが響く。
(こんな結末…!女神様、どうか!)
祈りの声の中、レアは魔力を使い果たし、その場に倒れた。
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(…間に合わなかったのか?)
頭の中に、「あの時」がいくつも去来する。
あの時、別の道を選んでいれば――
あの時、立ち止まらなければ――
後悔だけが、次から次へと…。
視線だけを動かし、周囲を見る。
ナリアを抱き起こして呼びかけるラクトとゼアス。
薬湯を手に泣きながら立ち尽くすセアラ。
倒れたレア。
…虚ろな目で自分を見つめるベティ。
薬草を届けてくれた少年まで必死にナリアへ呼びかけている。
外では村人が声を上げ、祈ってくれてるようだ。
(間に合ったのに。救えたのに)
最後の最後で、手が届かなかった――
そんな絶望が胸を締めつける。
ナリアの顔を見る。
穏やかな表情で眠っている。
これが死にかけている顔だなんて、信じられないほどに。
なにもできない。
その無力さが、ただただ苦しい。
(…頼む)
震える手を合わせ、目を瞑る。
(頼む…!)
――祈るのは初めてだった。
(頼む!)
――クソ女神に、祈る。
(どうか、ナリアを!!)
その祈りは――
「――アイくん、泣いてるの?」
目を開け、声の主に顔を向けた。
「…誰かに、いじめられた?」
――届いていた。
#
「ナリア! ナリア!」
「母さん! 薬を、早く!!」
「ナリア! これを飲んで!」
家族たちは混乱しながらも、目を覚ましたナリアに薬湯を差し出した。
ナリアは薬湯をゆっくり飲み込むと、再び眠りについた。
「「「ナリア!?」」」
その場にいた三人は、慌ててナリアの名前を呼んだ。
まさかこの奇病は、最後に“目覚めさせる希望”さえも与えるのか――
そんな不安を、レアの声が振り払った。
「だ、大丈夫よ。」
皆の視線が、一斉にレアへと向かう。
…ベティを除いて。
「さっきとは違う眠りよ。とても、安定してる」
「「う、うぉぉおお!!」」
ラクトとゼアスの雄叫びが上がった。
「ちょっと! ナリアが起きちゃうでしょ!」
セアラが二人をたしなめる。
だが、彼女の目からは涙があふれ続けていた。
歓喜に、体ごと震えている。
レアは、震える体で立ち上がった。
「み、皆に知らせてくるわ」
「いや、あんたは休んでな。俺が行くよ」
そう言ってイザークが部屋を出ようとする。
「わ、悪い。助かる」
ラクトが声を掛ける。
「入り口のドア、壊しちまった。悪い」
「ははは、気にするな!命の恩人よ!」
イザークが部屋を出ると、廊下で人とすれ違った。
「…すげー雄叫びが聞こえたけど…治ったのか?」
「ああ。もう、大丈夫みたいだ」
その相手――ジェダのことを、イザークはただの村人だと思っている。
「…すげーな。治るんだな…」
「な。…ちょっと泣いちゃったよ」
手をひらひら振って外へ出ていくイザークの背を、ジェダは見送らなかった。
代わりに、部屋の中の様子を窺った。
「「「うぉぉおおお!! やったー!!」」」
背後から歓喜の雄叫びが聞こえる。
だが、彼は反応せず、じっと中を見つめていた。
(抱き合う夫婦…喜ぶゼアス…眠る少女…椅子に座るシスター1…呆けたシスター2の視線の先…あれか)
ジェダは“目当て”の人物を見つけた。
それは、静かに眠るナリアを見つめている少年――アイオンだった。
(ただの少年だな。だが生き返り、禁断の森からも五体満足で帰還した…)
冷静に観察を続ける。
(なにより、あの栗色髪のシスターの目線…)
それは、信仰対象を見つめる目。
旧女神教信者によく見られる、崇拝の眼差しだった。
(…およそ二百年ぶり、セドリック以来の“御使”か。だが、生き返ったというのは信じがたいし、人が変わったというのもひっかかる)
伝承に“生き返る”という要素はない。
御使とは、生まれながらにして超常的な力を持ち、時代に影響を与え、革新を与える存在。
幼少期から突出している。
ある日急に――という御使はいない。
(判断がつかんな。こんな曖昧な状況を報告しても、司祭様からの評価は上がらん)
一瞬、報告を考えたが――結論を下す。
(――保留だな。慎重に調べていこう)
そう決めて、表情を変えた。
“ゼアスの相棒”であるジェダの顔に。
「おーい! ゼアス!」
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「ジェダ!」
ゼアスが駆け寄ってくる。
「出てった兄ちゃんに聞いたぜ! 良かったなぁ、おい!」
「ありがとう。でも…俺はなにもしてない。アイオンの…弟のおかげだよ」
ゼアスが振り返ると、アイオンが軽く手を挙げた。
だが――
「ラクトさん、セアラさん、ゼアスさん。喜びたいのは山々なんですが…」
「ど、どうしたの? どこか痛むの?」
慌てるセアラとラクト。
そして、やたら慌てた様子のベティ。
「ど、どこか痛みますか〜? 回復を〜!」
「…いえ、痛みは…ないんですが」
その場にいる者たちが息を呑む。
「…限界です。寝ます」
その言葉を最後に、アイオンはベッドに頭を預け、意識を手放した。
…正確には、気を失ったのだ。
時間が、止まったかのようだった。
だが――
「…父さん、母さん。実は…安心したら、俺も…」
「俺も…眠い…」
「わ、私も…」
全員が、まともに休めていなかった。
安心とともに、容赦ない眠気が彼らを襲う。
「皆、休みなさい。正直、私も限界なの」
「私もです〜」
魔力を使い切ったレアとベティも、疲れを隠しきれなかった。
「じゃあ、詳しい話は後日にして――まずは休もうぜ。村の人らにも、解散するように伝えてくるよ」
ジェダが場を収めるように声を掛ける。
「村人には私が言うわ。ベティ、行くわよ」
「は〜い〜。では、皆様、また後日〜」
「「「レア様! ベティ様! ありがとうございました!!」」」
三人の感謝に、二人は静かに会釈を返し、部屋を出た。
ジェダはその背を見送った。
しばらくして、外からは騒がしい声。
やがて、静かに散っていく音が聞こえた。
「じゃあ俺は、道具を借りてドア直しとくわ!」
「ジェダ…悪いな」
「いいって! ゆっくり休みな!」
手を振って出ていくジェダの背中。
「アイオンを部屋に連れてくよ」
「ああ…」
「待って! そのままにしてあげて」
「え? でも…あ、そうだね。わかった」
三人の視線の先には――
手を繋ぎながら、眠る二人の寝顔があった。
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教会への帰路につく二人。
冷たい雪が、疲れた体を容赦なく冷やす。
だが、それがかえって、襲いかかる眠気を少しだけ紛らわせてくれていた。
レアは、薬湯の入った霊薬鍋を両手で抱え、
ベティは、赤い薬草が入ったバックを抱えている。
「ベティ。アイオンのこと、見すぎよ…」
前を歩きながら、レアがぽつりと言った。
「…」
ベティは何も言わず、無言でレアを見つめる。
「あなたの言いたいことは、わかる。でもね…そうとは限らないわ」
「…もう疑う余地はないかと〜。絶命からの蘇り、そして祈りだけで、死の淵にいた少女を呼び戻しました〜。…少なくとも、女神様の祝福は、間違いなく、受けています〜」
ベティは穏やかに、だが強くそう言った。
「…確かに、そうかもしれない。でも、アイオンが“御使様”だと、確定はできないわ。伝承と違うもの」
「…そうですけど〜」
その点を否定はできず、ベティも少し口ごもる。
「たとえ女神様の祝福を受けていたとしても、それが“御使様”であることとイコールではない。…彼はあくまで、可能性のひとつに過ぎない」
「じゃあ〜、二百年ぶりに“新しい形”での御使様として現れた可能性は〜?」
ベティは食い下がる。
だが――
「可能性はある。だけど、それを断言できる根拠がないわ。――神託が、下っていない」
「…」
それが何よりも大きな“否定材料”だった。
「御使様は、必ず“女神の神託”と共に現れる。でも、この二百年、神託は一度も下っていない。だから私たちは、御使様もまた現れていないと結論づけてる」
「…でも〜、俗物どもが神託を隠している可能性も〜」
ベティは所謂“新女神教”について語るとき、口調が荒れる。
まだ若い――。
「仮に、あちらが神託を受け取っていたとしたら? 女神様は、私たちではなく、“あちら”を選んだってことになる。あなたはそれで、いいの?」
「失言でした〜」
深々と頭を下げたベティの吐いた息が、白く冬空に散った。
「――ともかく、今は休みましょう。そして、この薬湯と薬草をどうするか、慎重に考えなければ」
「ですね〜。…それに、あの場に“村の人間じゃない者”が数名いましたが〜。どうしましょう〜?」
そう――あの場所には、確かに“部外者”が二人、いた。
それを除いても、アイオンが“禁断の森”に行き、帰還したという事実を知っている者は複数いる。
「私たちが、今も弾圧されずにいられる理由。それは、この薬湯を作れるから。少なくとも――アイオンだけは、守らなきゃ」
「はい〜。あの子が“禁断の森に入れる存在”だとわかったら〜、俗物どもが確実に動きます〜。捕まえて、森に送り込もうとするかもしれません〜」
二人の顔は晴れなかった。
雪はますます強く降り始める。
それは、先の見えぬ未来を示しているかのようだった。




