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自分という存在

なにもない人間だった――

自分の半生を振り返れば、そうとしか言いようがない。


父親の顔は知らない。

どこかの会社の重役らしいと、親切な他人が噂していた。


母親はその愛人だった。

見た目だけはいいが、それ以外に誇れるものはない、下劣な人間。

俺を身ごもり、産み落とし、父親をゆすって金を得たあと、邪魔になった俺を放置し、最後は捕まった――これもまた、親切な他人から聞かされた話だ。


施設送りになった子どもの話は、世間話のネタにちょうどいいらしい。

父にも母にも会ったことがない。

怒りもなければ、会いたいとも思わない。

けれど、施設を“家”と思ったことも、誰かを“家族”と感じたことも一度もない。


そこは、ただ生きていくだけの場所だった。

どこまでいっても他人と一緒に暮らしているだけ。

物心ついたころには、すでにそう思っていた。

ませていたのか、冷めていたのか、自分でもわからない。


転機が訪れたのは十四の頃だ。

見た目だけは母親に似てしまったのが、不幸だったのかもしれない。

施設の職員数名に襲われかけた――その瞬間、自分の中でなにかが“押された”。

徹底的に反抗し、殴り、数人を痛めつけた。

身の危険を感じてリミッターが外れたのだろう。

今までにない力が湧き、どうにかその場を乗り越えた。


事件は大ごとにはならなかった。

顔も知らない父親からの“支援金”――という名の口止め料が施設長に届き、警察沙汰は避けられた。

どうでもいい話だったが、金を渡されたので従った。

同時に、自分をどこかで“監視している”存在に、強い不快感を覚えた。

そして俺は、施設を出ることを決めた。


一人で生きていくには若すぎたかもしれないが、どうにでもなった。

年齢をごまかして日雇いのバイトをし、公園や放置車両で寝泊まりする日々。

やがて定職にも就いたが、そんな奴にできる仕事など、たかが知れている。

そして、職場と安アパートを往復するだけの生活が始まった。


――ただ息をしているだけの、人生だった。


今日も、何もない一日が終わる。

何かがあったのかもしれない。だが、それを認識していなければ、ないのと同じだ。

誰とも必要最低限の会話しかしない。

交流もしない。

それが明日も続いて、いつか死ぬ。

――それでよかった。


職場からの帰り道、近所のスーパーで弁当を買う。

レジ袋を指にかけて歩くと、すれ違う人々の笑い声が耳に入る。

(……皆、自分とは違う)

彼らは意味のある一日を過ごしたのだろう。

でなければ、何がそんなに楽しいのか。


信号待ちで、横に視線をやる。

自分には縁のない「家族」という形が、そこにあった。

父親と母親、そして子どもが一人。

信号が変わるのを待ちながら、談笑している。

――微笑ましい光景だと思った。


青になり、三人は並んで横断歩道を渡る。

そのとき、風にあおられた子どもの帽子が、ふっと浮き、俺の足元に転がった。

子どもが帽子を追いかけて、家族から離れて走ってくる。

俺はそれを拾い、渡そうと手を伸ばした――その瞬間、視界の端で車が迫っているのが見えた。


(……これは)


理解した。時間が、遅くなる。

運転手はハンドルに顔を伏せ、動かない。

病気か、眠気か?

両親の叫びが、粘つくようにスローで響く。

彼らの視線は、子どもだけを捉えている。


(俺を見たら……どんな顔をするのかな)


場違いな想像がよぎる。

だが、自分の顔がどうなっているかはわかっていた。

――きっと、笑っていただろう。


踏み出す。

膝に重みはない。身体は軽い。

伸ばした腕が、子どもの肩を押し返す感触を確かに拾う。

代わりに、鈍い衝撃が胸を割った。

世界が跳ね、音が潰れ、視界が白くほどけていく。


落下ではない。浮上でもない。

境目だけが、無限に引き延ばされる。

指の先から体温が消え、鼓動が遠のく。

「痛み」が最後に名乗りを上げ、すぐに名札を失った。

音がない。匂いもない。色がない。

ただ、白。


――死んだのか。


言葉にしてみる。声は出たのか、出なかったのか。

白が、静かに揺れた気がした。


「…子ども助けて死ぬなんて、いい死に方だねぇ」


声だけが、世界に最初の影を落とした。

誰もいないはずの空間で、女の声が笑う。


「…誰だ?」


返事の代わりに、白がざわめく。

粉雪のような白が集まり、糸で縫うように輪郭をつくる。

髪――白。服――白。肌――白。

そして、瞳だけが黒。


「見えたようだね。…合わせるのを忘れてたよ」


女は愉快そうに目を細めた。

黒い瞳だけが、色として成立している。

この世界で、色を持っているのは彼女だけだ。


俺は、息をする必要がないことに、ようやく気づいた。

そして、ここから先が“現実”よりも現実めいていると、直感した。


――ここで、俺の“死”は終わり、別の物語が始まろうとしていた。



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