女神の印
走る。
雪が降る道を、ただひたすらに。
村までは、通常なら二日かかる道のりだ。
脇目も振らず、全力で走る。
バックだけは、何があっても落とせない。
――失えば、希望は絶たれる。
…もうとっくに、自分が仮定していた「4日のリミット」は過ぎている。
時間との戦いだ。焦る。
けれど――信じるしかない。
ナリアは、強い子だ。
きっと、待っていてくれている。
だからアイオンは走る。
体が千切れそうになるほどの負荷をかけて、走る。
禁断の森へ向かうときは、体の負担も考えながら身体強化を使っていた。
だが今は違う。
村に少しでも早く着けば、どうなってもいい。
(たとえ明日から、二度と歩けなくなっても!)
ナリアが助かるのなら、それでいい。
間に合うと信じて、ただひたすらに走る。
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ナリアの苦しむ声は、数時間前から聞こえなくなっていた。
今は、まるで眠っているかのように、穏やかな顔をしている。
ラクトとセアラが、彼女に向かって必死に声をかけ続けていた。
「ナリア! 大丈夫だ、ナリア!」
「ナリア、アイオンが!アイオンが来てくれるから! 頑張って、ナリア!」
レアとベティも、回復魔法をかけながら叫ぶ。
「そのまま! 呼びかけを止めないで!」
「ここが〜正念場です〜!」
ナリアの穏やかな顔とは裏腹に、部屋中には悲痛な声があふれていた。
その声は、家の外にまで届いている。
「ナリアちゃ〜ん! 頑張って〜!」
「大丈夫だ! 大丈夫!!」
「祈りましょう! 女神様に!」
村中の人々が、ナリアのために祈っていた。
この奇病で命を落とした者は、過去にもいた。
それでも祈ることをやめない。
何度でも、奇跡を信じる。
女神にこの祈りが届くと、彼らは信じているから。
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「……なんか、怖いな」
村人たちの祈る様子を、少し離れた場所から見ていた青年が、ぽつりとつぶやいた。
彼――イザークは、依頼人の護衛依頼でこの村に来ているだけの部外者だった。
その目に映る光景は、あまりにも異様だった。
女神に祈りを捧げる“女神教”の信者など、今ではほとんど見かけない。
だがこの村では――どうやら、ほぼ全員が女神教――正確には「旧女神教」の信者だという。
もっとも、“新旧”の違いなど、新女神教側が勝手に作った線引きにすぎない。
信仰の対象が少し違うだけ。
"実像"か、"偶像"か。
イザークにとっては、正直どうでもいい話だった。
祈る対象は別にいる。
正確には、女神が遣わした“御使様”だが――。
「バカ。迂闊なこと言うんじゃないわよ。どこで誰が聞いてるかわからないでしょ!」
パーティメンバーのエリーが、周囲を気にしながら声をひそめた。
「……大丈夫だろ。誰も気にしちゃいないよ」
「わからないでしょ! 私たちは“よそ者”なの。警戒されてるのよ……」
イザークは肩をすくめながら、小声で続けた。
「……にしても、ケニーさん、早くバルナバに帰らないのかな。まあ、追加報酬くれるって言うから、いいけどさ」
「彼を待ってるんだろ」
ウルが短く言う。
一方、オニクは雪を避けて木陰に入り、本を読んでいた。
「……それにしても、やっぱりおかしいよな、この村……」
イザークの呟きに、二人の視線が向く。
「だってさ、子どもが苦しんでるのって"あれ"が理由だろ?祈りで治るわけないじゃん。むしろ、逆効果じゃね?」
「やめなさい、イザーク!」
エリーが叱る。
イザークはつい思った事を口にしてしまう性格だった。
「で、でもよ!今までだって"あれ"で死んでる子だって絶対いるだろ?それなのに、懲りずに祈るんだぜ?…正直怖いだろ」
言葉を続ける。
「……お前らなら信じられるか? 俺には無理だ」
「……この村は旧女神教の村だからな」
「うわっ!?」
イザークは、背後からの声に驚いて跳ねた。
村人たちがこちらを振り返る。
慌てて手を振ってごまかす。
「急に声かけるなよ、ケニーさん!」
「後ろから近づく気配くらい察しろよ……C級にはまだ早いんじゃないか?お前」
ケニーは呆れたように言う。
「う、うるさいよ! 最初は“将来有望なパーティーと組めて嬉しいです〜”なんて言ってたくせに!」
「そりゃ、“ただの原石”と“特級の原石”じゃ全然違うからな。 “特級”に貸しを作れたんだ。態度も変わるさ」
……まだ“ただの原石”扱いならマシかも。
「……で? 旧女神教の村だと、なんでおかしいんだよ?」
「誰も“おかしい”とは言ってねぇだろ……むしろ、おかしいのは――」
ケニーの声が低くなる。
「……お前が知ってるのは、今の女神教の教義だけだろ? だから、あの病を“病”だと認識していない」
は?
「……今、みんなが祈ってるのは、“女神の印”に選ばれた子のためだろ? つまり“祝福”を与えられて……」
「……迂闊」
オニクが本を閉じて呟く。
「な、何が迂闊だよ?」
ため息をつきながら、オニクが言葉を続けた。
「……ローズレッド王国の建国の歴史は、たった150年ほど。この大陸で唯一、“新女神教”の教義に基づいて作られた国だ。国民の9割は、新教にどっぷりだよ」
ケニーが話を引き継ぐ。
「元々女神教は女神を崇拝するだけのものだったが、いつしか変わっていき……新女神教によって作り変えられた教義が、この国の常識に根付いてる。……この国の人間は新女神教が作った教義しか知らないはずだ。他国の方は半々くらいか?まぁ、御使様が神格を得て、多神教になってるが」
……話が、どんどん大きくなってきてる。
「つまり……今広まってる教義は、もともとの教義じゃない。“新女神教”が作り変えた教えってことか?」
「……そう。だからこそ、村ひとつまるごと旧教のままってのは異常なんだよ。……弾圧されるって話は聞いてないけど、どうしたって肩身が狭くなる。そういう人達が寄り添ってできた村だっていうならまだわかるだろ?……でもそうじゃない」
オニクは本をしまい、こちらを向く。
「現に僕だって、他国に行くまで知らなかった。 "女神の印"は――“原因不明なだけの、ただの病”だってことを」
「……じゃあ、治るってのか?」
……いや、待て。妹が病気。必要な薬草を取りに行った……ってことは。
「それで、禁断の森に?」
「ああ。ああいう“忌地”にしか生えない薬草がある。"赤い草"。それを取りに行ったのさ、アイオンさんは」
……それはわかった。でも――
「それと、この村が旧女神教の村なのと、何の関係がある?」
ケニーとオニクがまたため息をつく。
へ、へこむ……!
「……言っただろ? この村には“新女神教”の教義がまったく入ってない」
「……だから?」
エリーとウルもつられてため息をつく。
な、涙が出そう……
「……この村には、“女神の印”なんてものは伝わってない。“女神の印”は、新女神教が後から作った方便にすぎない」
「いつからそうなったのかはわからない。だが、貴族も真実は知っている。ただ口にしないだけだ……女神教が怖いから」
白い息を吐きながら、ケニーは続けた。
「病に効く薬草は、かつて罪人を無理やり森に入らせて採らせたらしい。だが、生きて戻った者はいなかった。……そこで“原因不明の病”を“女神の印”と呼び、ありがたい祝福だと教義にすり替えたのさ」
――雪が、さらに強く降り始めた。




