死を食らう
力の限り叩きつけた棍棒に、潰れた感触が手ごたえとして伝わる。
棍棒を持ち上げると、布切れに包まれた潰れた肉片が、べっとりと張りついていた。
…こんな小虫に、目を潰されるとは…。
「グルァァア!!」
もう一度、全力で叩きつける。
肉片すら残さない勢いで。
潰す、潰す、潰す、潰す!!
「クルゥゥッ」
気づかなかった。
怒りに我を忘れていた。
―敵が接近してきていることに。
悠然と歩み寄ってくる影。
傷を負っているが、それでも漂わせている。
絶対的な強者の気配を。
「…プギュルル…」
臨戦体勢をとる。
「…クフゥ」
鳥は、その場に腰を下ろした。
まるで─『お前には興味がない』とでも言うように。
「プギャア!」
棍棒を振りかざし、威圧する。
付着していた肉片が、ぽとぽとと地面に落ちた。
本来なら、一片たりとも残すつもりはなかったのに…。 だが、今は目の前の脅威への対処が優先だ。
─その時。
突然、首に激しい痛みが走る。
「プギョ?」
何が起きたのか理解できなかった。
だが、首に深く突き刺さった“何か”の存在だけは感じられる。
そして次の瞬間。
それが引き抜かれ、緑の血が噴水のように吹き出した。
「グノォォオ?!?!」
なにが?虫か?犬か?蛇か? …こいつの前でこんな不意打ちを仕掛けてくるやつがいるのか?
痛みの元を確かめるため、振り返る。
─そこに立っていたのは、小虫。
潰したはずの小虫は、ボロボロの布をまとってはいるが、確かに立っていた。
「プォ?」
なぜ?なぜ元に戻っている?
問いの答えは返ってこない。
共通言語がないのだから当然だ。
それでも、問う。
「プォオ!?」
「まだ生きてるのか…でも、もう終わるよ」
何を言っているのかはわからない。
だが、さっきまでとは違う。
─ あちらが、こちらを見下して笑っていた。
#
「…騙し討ちして悪いが、それも戦いだ」
静かに剣を構える。
手持ちの武器はこれ一本。
だが、なくなっていた魔力は回復していた。
「悪いな。もう、お前に負ける気がしない。」
全身に魔力を巡らせ、身体強化で肉体を覆う。
視界が研ぎ澄まされ、力が体を巡るのを感じながら、アイオンは地面を蹴って走り出した。
「グォオオオ!!」
目前で巨大な棍棒が唸りを上げて振り下ろされる。 力任せの単純な一撃。
アイオンは身体を深く沈め、その攻撃を紙一重でかわすと、さらに跳躍した。
そして、十分に間合いを詰めたその瞬間、アイオンは魔力を限界まで巡らせ、全身を強化する。
そして瞬時に解放する。
加速した肉体が、ハイオークの視界から一瞬にして消え去った。
「グォ!?」
反応が遅い。
既にアイオンは目の前にいる―!
「この距離は!俺の間合いだ!!」
最初に貫いた右目に、今度こそ致命の一撃を!
ハイオークの反撃を許す前に、再び剣を突き出した。
「終わりだ!」
「グォォォォアアア!!!!」
断末魔の絶叫が森に響き渡る。
アイオンの剣は、右腕ごとハイオークの眼窩を貫き、脳へと深く突き刺さった。
確かな手応えを感じる。
素早く剣を引き抜き、距離を取る。
ハイオークは狂ったように暴れ回った後、がくんと崩れ落ちた。
残された左目が、アイオンを虚ろに見つめている。
なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?
その問いかけが、意識の底から響いてくるようだった。
#
まだ脅威は残っている。
ハイオークを倒したばかりだというのに、すぐに臨戦態勢を取った。
ハイオークのようにパワーだけの魔物なら、まだ対処できる。
だが、グリフォン相手ではひとたまりもない。
存在の格が違いすぎる。
─だが、襲ってくる気配はなかった。
グリフォンはただ地面に座り込み、じっとこちらを見つめているだけだ。
(…こいつ、あの時と同じグリフォンか?)
昨日、オルトロスを奇襲して命を救ってくれた、あのグリフォン? …体に傷を負っているが、それは昨日のものか?
(…なら、賭けてみる)
警戒は解かず、先ほど投げ捨てたバックを拾い上げた。 薬草を回収しなくては、ここまで来た意味がない。
「…」
グリフォンは依然としてこちらを見つめている。 何を考えているのか分からない。 だが、敵意はない。
「クルァ!」
突如、グリフォンの翼が大きくはためいた。
凄まじい突風がアイオンの体を通り抜け、木々がなぎ倒される。
その先に、道ができていた。
「…ここを通れと?」
理解できるはずもないが、俺は問いかけた。
「クァ…」
まるで返事をするかのように、グリフォンは腕の上に頭を置き、目を閉じた。
─もうお前には、興味がないというように。
(…なぜだ? 侵入者に容赦しないはずなのに…)
疑問は尽きない。
だが、グリフォンの気が変わらないうちに立ち去るしかない。
「…ありがとう」
バッグの中から残っていたホーンラビットの干し肉を取り出し、その場に置く。
汚れた物の中から取り出した肉で申し訳ないが、これしか感謝を伝える術がなかった。
アイオンはグリフォンが作った道を進む。
やはりグリフォンは動かない。
慎重に、しかし素早く。
なぜだか分からないが、もう魔物が襲ってくることはない。そんな確信めいたものを感じていた。
#
アイオンが去った後、グリフォンはゆっくりと起き上がり、干し肉の匂いを嗅いだ。
低級の魔物の肉だろう。
一つ食べる。
美味い。
あっという間に平らげていた。
―少ない!少ないよ!!
「美味かったか?」
突然かけられた声に、グリフォンは「クケッ!?」と驚きの声を上げた。
慌てて振り返り、声のした方向に非難の目を向ける。
「…悪かったよ」
徐々に姿を現した声の主は、謝罪の言葉を告げた。 黒衣を纏った女性。 森が静寂に染まる。
「クルッ!」
「悪かったって。良いだろ?興味があったんだ」 「クルゥ?」
「…必要としないからって、興味がなくなるわけじゃないんだぞ?味わう器官だって、消化する器官だって、ちゃんとある」
「クケケッケッ!? クケッケッケッケッ!!」
「―怒るぞ?」
女性は一瞬で、死を覚悟するほどの圧力を放った。 グリフォンは身をすくませる。
「…クルゥ」
姿勢を正し、頭を下げた。
「まったく…嫌な奴だよ、本当に」
女性はため息をつき、ハイオークの死体に視線を向ける。 興味深そうに観察しながら、ゆっくりと近づいた。
「クゥ?」
「…こんな力を与えるなんてね」
「クォ?」
「そう。よっぽど期待してるんだろうね、彼に」
女性は愉快そうに微笑んだ。
その瞬間、ハイオークの体が霧のように消え、魔石だけが残った。 しかし、そこに魔力は感じられない。 これでは…ただの石だ。
「…命を奪い糧にする…悍ましいな」
「クケッ!? クルゥケケ!?」
「きみもそう思うか? 私も同意見だ。また厄介な事に、これは肉体を壊しても意味がない。まるで“魂そのもの”が力を宿しているかのようなんだ。…服は消し飛んで再生しないから、別の意味でも厄介だね」
「クケー?」
「“あれ”が関わってる。神聖術は効かない。いや、正確に言えば“あいつらの神聖術”じゃどうにもならない。…俗物共の術では、ね」
「クケーケ?」
「どうやって止めるか…殺し尽くすか、心を折るか―ふふ、嫌な話だよね」
女性は静かに分析する。 まるで他人事のように。
―いや、ある意味では、“創造主”のような口ぶりだった。
「…まぁ、敵対しなければ済む話さ。きみは私の“友”だから話を聞いてくれたけど、ここの森の魔物は基本、独立独歩。同種同士でも食い合う。そして定められたルールに従う。この地に入ったものは人間でも魔物でも、排除しなければならない。―私たち以外は、本能に刻まれている。くだらないルールと共に」
「…」
“私たち以外”。
その言葉に、グリフォンは一瞬だけ視線を鋭くした。
しかしすぐに戻した。
「まぁきみが助けたんだ。私の存在を察して、この辺りの奴らは手を出さないだろうね。深部の奴らは…わからないけど」
「クケケーケケ!」
「…私も嫌いさ。まぁ、あいつらは私になにも言えないから、きみにあたってるのさ…」
空から冷たい結晶が降ってきた。
「…まぁ、それもまた運命か。野垂れ死んでも、辿り着いても。」
「クルゥ…」
グリフォンは物欲しそうに、自身が作った道を見た。
「…また来るだろうね。匂いは覚えたろ?でも、彼以外には容赦しちゃ駄目だよ。ここは恐れられる場所じゃなきゃならないから」
「クゥッ!」
グリフォンは喜び、翼を広げた。
「…その時には、一切れくらい残しといてくれよ?」
その言葉を最後に、女性は影に姿を消した。
そして空には黒いドラゴンが現れ、音もなく飛び去っていく。
「…クァッ!」
続いてグリフォンも、力強く翼を羽ばたかせ、飛び立った。
残されたのは、静かに降る雪だけだった。




