そして迎えるプロローグ
進む。進む。進む。
ただひたすらに、慎重に進む。
途中、魔物の気配を感じれば一瞬だけ身体強化を使って振り切る。
気配が消えればすぐに強化を止める。
もう魔力回復薬は残っていない。
節約しながら、最良の結果を導き出さなければならなかった。
眠気を抑えるため、考えながら歩く。
(なぜ魔物は、この森から出ないんだ…)
オルトロスやグリフォン、アラクネはもちろん、グリムウルフですら村に現れれば大きな脅威になる。
討伐依頼が出れば、農作業も止まる。
それなのに、この地方では凶悪な魔物被害は極端に少ない。畑を荒らす下級の魔物くらいだ。
(出れないのか?あるいは…出させない“何か”があるのか?)
この森で生まれた魔物は、外に出られない――そんなルールがあるようにすら思える。
でなければ、縄張りを求めてもっと広い場所を支配しているはずだ。
(それに…グリムウルフが群れではなく単体で襲ってくるのもおかしい)
本来は集団で狩りをするはずが、ここでは常に単独。感じ取れる気配は、どれも“1匹”だけだ。
(C級以上しか現れず、しかも特性を無視されている…。これは…作為的なものとしか思えない)
森そのものに、何かしらの意図が働いている。
考えながらも、足は止めない。
進む。進む。進む。
#
数度目の身体強化で、魔力は底を尽いていた。
これ以上は危険。だが進むしかない。
(こんなことなら…基礎体力を鍛えておけばよかった!)
後悔ばかりが積み重なっていく。
やがて開けた場所に出た。
木に登り、周囲を確認する。
(…もうすぐ出口だ。入り口で回収した薬を使って、村まで駆け抜ける!)
わずかな希望に胸を奮い立たせ、木を下りた―その瞬間。
濃厚な魔物の気配が迫る。
身体強化を使おうにも、魔力はもう残っていない。
(くそっ!)
慌てて木の幹に背を押し付け、息を殺す。
近づいてくる音。
それは重いものを引きずるような、鈍い音だった。
(グリフォンでも、オルトロスでもない…でも今の俺には十分すぎる脅威だ)
やがて、姿を現した。
巨大な影。
血と脂の匂いを纏い、棍棒を引きずるその存在。
(オーク?いや、ハイオークか!)
濁った瞳で周囲を見渡し、獲物を探している。
(頼む!気づかないでくれ!)
木に張り付き、必死に息を止めた。
祈るように願ったが――
目の前に突きつけられたのは、下卑た笑い。
祈りは、届かなかった。
#
「グルオォォオオ!!」
振り下ろされた巨獣の足を紙一重で躱す。
地面が砕け、土煙が巻き上がり、視界を覆う。
(魔力はもうない!だが、やるしかない!)
バックを放り捨て、剣を握る。
これを失えば、ここまで来た意味がなくなる。
汗で柄が滑りそうになるが、それでも離さない。
(格上…でも一瞬の隙なら、今の俺でも作れるはず!)
「うおぉぉおお!!」
叫びと共に突進する。
狙いは――奴の濁った目玉。
だが、棍棒が空気を裂き、広範囲を薙ぎ払った。
風圧だけで体が揺らぎ、躱す隙間がない。
「くっそがぁ!!」
盾を構えた瞬間、白い閃光のような衝撃。
嫌な音と共に左腕ごと砕け散った。
骨が折れる感覚と共に、全身に衝撃が走り、空気が肺から絞り出される。
「ぐっ…はぁっ!」
血の味が口に広がり、視界が歪む。
それでも立ち上がり、砕けた左腕を庇いながら剣を構える。
(まだ…まだだ!)
反動で巨体がわずかに揺らぐ。
その隙を突き、一瞬の迷いもなく跳び込んだ。
踏み台にした巨体を駆け上がり、狙い澄ました一撃を――その赤い右目へ。
「グギャァア!!」
血飛沫が顔を濡らし、眼球を貫いた剣を引き抜く。
断末魔が森に響く。
(今だ!逃げる!)
必死に走り出そうとするが、激痛と麻痺で足が動かない。
「グルルルル!」
右目を失ったハイオークはなお生きていた。
怒りに震え、近づいて来る。
蹴り飛ばされ、受け身も取れずに転がる。
次の瞬間、足を踏み抜かれ、骨が砕ける音が響いた。
「ぎゃあああああっ!!」
絶叫が森に木霊する。
それを聞き、ハイオークは嗤った。
また蹴り飛ばされ、地に転がされる。
(動け…動け…!)
願いも虚しく、体は応じない。
その巨体が再び近づく。
恐怖を与えるように、じわじわと。
#
(ああ、死ぬんだ…)
死が、目の前にあった。
自分は、この世界でも何もできなかった。
その現実を、容赦なく突きつけられている。
左腕はすでに動かず、防ぐ盾もない。
立ち上がるための足は、ぐちゃぐちゃだった。
剣は…手の届かない場所に落ちている。
少し先にある、棍棒に叩き潰される未来を―もう受け入れてしまっていた。
(ごめんなさい…ラクト、セアラ、ゼアス、ナリア…)
この世界の父と母に、兄と妹に詫びる。
望まなかった二度目の生で、家族と良い関係を築くことは結局できなかった。
無理やりこの体に押し込まれ、家族を奪ってしまった事が、ずっと苦しかった。
(ごめん、アイオン…)
どんな人間だったのかも知らない、この身体の本来の持ち主に、心の中で詫びる。
棍棒の汚い染みにされるくらいなら、病に伏し、家族に見送られて土の中で眠る方が、何倍も幸せだったはずなのに。
あのクソ女神のせいで、俺のようなからっぽの人間が入り込んでしまった。
この森の中では、死体を探す者もいないだろう。
目の前の豚に食われ、痕跡ひとつ残らず消えるかもしれない。
自分がいたという証も残らない。
―それは「前の俺」が望んでいたことなのに。
諦めは、永遠にも等しい一瞬を生んでいた。
その刹那に、思い出が溢れる。
この二度目の生の中で確かにあった、家族という温もりを。
誰かと触れ合った日々を。
受け止められず、逃げ続けてきた自分を。
その一瞬は、思い出させた。
――自分が、なぜここにいるのかを。
(ああ…それでも―)
もはや感覚のない砕けた足に、力を込めて立ち上がろうとする。
(あの薬草だけは…)
望みを、叶えるために。
(…届けなきゃ)
アイオンと同じ病にかかり、死が迫る妹のために。
(…生きなくちゃ…)
どれだけ拒絶しても歩み寄ってきてくれた、家族のために。
そして思い出す――この世界に来る前の、最後の言葉を。
「お前が望む時、私は“今のお前”が最も望まない力を授けよう」
あの空間で確かに聞いた、意味不明な言葉。
今でも理解できないままだ。
それでも、この瞬間を覆せるなら――
「…さっさと寄こせ! クソ女神!!」
獲物の最後の大声になど意味はないことを、豚は嘲笑っている。
そして棍棒を大きく振りかぶり――
「ブォォォオオッ!!」
力の限り、叩きつけた。




