掴んだ希望
当てもなく、森の中を進んでいく。
どこにあるのかもわからない、“赤い草”としか知らない物を求めて。
既に来た道は見失っていた。
アラクネに襲われた時、逃げ道を気にする余裕はなかった。
(焦るな…迷うな…油断するな)
それだけを、自分に言い聞かせる。
…もう、遅いのかもしれないのに。
頼みの綱だった魔力回復薬は残り2本。
アラクネの接近を許してしまったことで、無駄に消耗する羽目になった。
(考えが甘かった。自分なら、なんとかできる―そう思い上がっていた…)
転生してからの3年間は順調そのものだった。
女神から与えられた知識の中には、効率的な身体強化魔法の使い方も含まれていた。
それを習得し、さらに応用して、5メートル以内ではほとんど視認されない超高速移動を会得した。
持続可能な速度で長距離移動する術も、身につけていた。
(…驕っていたんだ、俺は)
恥ずかしかった。
あれだけ“クソ女神”と罵っておきながら、その与えられた恩恵に縋り、少なからず思い上がっていた自分が。
(…この無様な姿も、きっと見られてるんだろうな。さぞ笑えることだろうよ)
それでも歩みは止めない。
もはや、ひとつの意思だけがこの足を動かしている。
―薬草を見つけて、ナリアを助ける。
それだけのために。
その時、再び魔物の気配を感じた。
即座にその場を離れる。
だが忘れていた。
―この森では“逃げる先にこそ注意が必要”だということを。
突如、目の前に現れた魔物に、思わず笑いがこぼれた。
「ははっ…はっはっは!」
二つの頭。巨大な体。
個体によっては人語すら理解し、異常な回復力を持って“不死”とさえ噂されるものもいるという。
Bランクの中でも最強格の魔物。
「オルトロス…」
こちらにとっては絶望的でも、オルトロスにとっては“ただの獲物”だろう。
ゆっくりと。だが確実に、こちらへ顔を向ける。
死が、背筋を撫でた。
それでも諦めるわけにはいかない。
(逃げ切るしかない!)
二つの頭が、異なる低いうなり声を上げて威嚇してくる。
その巨体が一歩踏み出すたびに、地面がわずかに震え、恐怖が心を蝕んでいく。
アイオンは全力で走り出した。
目指すのはアラクネのときと同じ、木々の切れ間から開けた地形。
そこなら、わずかでも状況が変わるかもしれない!
しかし、オルトロスはただの獣ではなかった。
逃走経路を読むかのように予測して回り込み、二つの頭が別々の軌道から挟み撃ちを仕掛けてくる。
牙が空気を裂く音が耳をかすめ、身の毛がよだった。
剣で牽制するも、鋼よりも硬い皮膚には浅い傷しか残らない。
しかも、その傷すらも瞬く間に塞がっていく。
(このままじゃジリ貧だ!)
肺が焼けるように痛み、足が鉛のように重くなる。
呼吸は限界に近づいていた。
―その時。
右の頭が弧を描くように振り下ろし、鋭い牙が肩を抉った。
「ぐあああああっ!!」
灼けるような激痛。熱い血が服を濡らし、体勢を崩す。
背中を木に叩きつけられ、視界が揺れた。
これは…終わりか。
次の瞬間、牙が喉元を―。
(…ごめん)
妹の笑顔が脳裏をかすめた瞬間―
「ギャアアアアアアアッ!!」
森を震わせる、鋭く獰猛な咆哮。
空を裂いて舞い降りた影が、オルトロスの背中に深々と爪を突き立てた。
「…っ!?」
黄金の瞳を光らせる翼獣――グリフォン。
突然の乱入者にオルトロスは怯み、咆哮を上げて後ずさる。
グリフォンはその背を蹴り、羽ばたきと共に再び空へ舞い上がった。
牙と爪が閃き、巨体同士が激突する音が森を揺らす。
Bランク同士の壮絶な死闘が幕を開けた。
その隙に―。
(ここしかない!)
バックから魔力回復薬を引き抜き、一気に飲み干す。
体内に力が満ち、重い体がわずかに軽くなる。
続けて外傷回復薬を肩にかけ、焼けるような痛みに顔を歪めながらも走り出した。
背後では咆哮と肉が裂ける音、木々が倒れる轟音が混ざり合い、森全体が戦場と化していた。
それでも、アイオンはただ前へ。
(これは…生き延びるために与えられた機会だ!)
轟音と咆哮が遠ざかるのを背に、さらに深く森の奥へ。
やがて木々は密を増し、陽光はまばらに。
湿った土の匂いが鼻をつき、ぬかるむ足元が体力を奪っていく。
(…もう、限界だ)
そう思った、その時――
視界の先に、ぽつり、ぽつりと赤が浮かんでいた。
(…あれは…まさか!)
苔むした倒木の根元。
血のように赤く、小さな草が群生している。
“赤い薬草”。
森の闇の中で、それはまるで命の灯火のように輝いて見えた。
震える手で、それをひとつずつ丁寧に摘み取る。
必要な量などわからない。だからバックに入るだけ詰め込む。
(…喜ぶのは、終わってからだ。達成感なんて感じるな)
自分に言い聞かせる。
まだ道は遠い。帰り道すら、わからない。
夜になれば、さらに危険が増す。
(探索リミットまで、あと1日と数時間。必ず、それまでに抜け出す!)
森の外へ。
家族のもとへ帰るために。
森を進む。
その先が、出口に近いと信じて。




