導き
一歩踏み入れた瞬間、空気が変わった。
体全体が圧迫感を覚える。
(…これは…)
引き返したくなる衝動に駆られながらも、一歩一歩、足を進める。
辺りを注意深く観察しながら、赤い薬草を探す。
(赤い草…それしか情報がない…)
目に入る範囲には、それらしいものは見当たらない。
―もっと奥まで行く必要がある。
途端に警戒を強め、剣を引き抜いた。
…なにかが、こちらを見ている。
草を踏む音が微かに聞こえる。近づいてきている。
(落ち着け。冷静に…素早く選択しろ…)
戦うか、逃げるか――その選択を。
姿を現したのは、犬のような魔物だった。
ただの犬ではない。頭の中で、与えられた基礎知識を必死に探る。
――グリムウルフ。
C級の魔物であり、集団で行動する習性を持つ。
森魔法を使い、敵の足を止め、襲う。
(先手で討つ!)
瞬時に判断し、体に魔力を巡らせる。
(この距離は、俺の間合いだ!)
地を蹴ると同時、足元を絡め取ろうとする根。
だが、既にそこに自分はいない。
一閃。肉を裂く感触。
グリムウルフが呻き、地に崩れ落ちる。
呼吸ひとつ置かず、そのまま走る。
(よし、あの程度なら問題ない)
血の匂いが広がる前に、魔力を抑え、気配を断つ。
音も立てず、森の奥へと身を滑らせた。
(集団で行動するはずなのに、一体だけ…? この森では同種同士でも争うから…?)
余計なことは考えない。
警戒を維持したまま、先へ進む。
今やるべきことは、薬草を探すこと―それだけだ。
#
少し離れた場所で、彼は観察されていた。
それに気づくことはなかった。
(“あれ”が言ってたのは…彼、か)
枝の上に立つ女性。
この森に似つかわしくない、黒い服、黒い髪、黒い瞳、そして、透き通るような白い肌。
冷たい眼差しでアイオンを観察していた。
(鮮やかなお手並みだけど…ここに来るには力不足)
グリムウルフが動き出す前に判断したのは悪くない。
一瞬で間合いを詰める強化も、そこらの人間では真似できない。
(でもこの森じゃあ、その程度の力は餌にしかならない)
彼女の目は、森のさらに奥を見据えていた。
そこにある“何か”を捉える視線。
(…ま、久々の頼みだ。無下にはできない)
ため息を吐き、空を見上げる。
その姿は、森の中で異物のように浮いていた。
黒く、美しく、そしてどこか楽しげに。
#
少しずつ進んではいたが、まだ深部にはほど遠い。
気持ちを抑え、常に警戒しながら進む。
魔物の気配を感じたら、飛ぶように移動する。
それが功を奏してか、会敵することはなかった。
やがて開けた場所にたどり着いた。
慎重に、周囲を探る。
体が勝手に震え始めた。
(…な、なんだ、これ…?)
魔物の気配はない。
それなのに、体は最大限の警鐘を鳴らしていた。
ふいに空を見上げる。
(…な、なんだあれ…!)
驚きと、微かな興奮が胸を打つ。
悠然と空を飛ぶ、圧倒的な存在――黒いドラゴン。
巨大な影が頭上を横切る。
翼一振りで空気が唸り、木々がざわめく。
その身はまるで闇そのもの。
見る者を沈黙させる威容。
そして、唐突に空中で旋回する。
次の瞬間、咆哮が森を裂いた。
鼓膜を震わせる轟音に膝が震える。
辺りにあった僅かな魔物の反応は完全に消え、風すらも沈黙した。
だが黒き巨影は地に降りることなく、静かに翼を翻す。
やがて―空の彼方へと消えていった。
咆哮の余韻に体は芯まで震えていたが、しばらくして落ち着く。
(…今のうちに進むしかない)
魔物の気配が消えた森を慎重に、しかし速く進んだ。
#
日が次第に落ちていく。
(くそっ!入ったばかりだったろ!)
体感時間が驚くほど短い。
こんな森で夜を明かすなんて、不可能だ。
気温も下がり、冷気が肌を刺す。
そのときだった。
木々の間に、小さな光がふわりと浮かぶ。
虫か?いや、違う。
白く、柔らかな光。
ふらふらと漂いながら、一定の間隔でこちらを振り返るように動いている。
(…誘ってる?)
そんな馬鹿な、と呟きかけた言葉を飲み込む。
妙な確信があった――「ついてこい」と言われている気がした。
周囲に魔物の気配はない。
慎重に距離を保ちつつ、その光を追う。
木に跡をつけ、迷わないようにしながら。
やがて辿り着いたのは、木々の根が絡み合い、天然の天蓋を成した小さな空間だった。
地面は柔らかく、湿気も少ない。
森の中で、ここだけ時間が止まっているかのような静けさ。
光は、根の間にふっと消えた。
(ここに導いたのか?)
恐る恐る腰を下ろすと、不思議と緊張が緩んでいく。
寒さも和らぎ、魔力も静かに巡っていた。
(…不思議だ。とっくに死んでてもおかしくない森だとわかっているのに…まだ、生きてる)
携帯食料を取り出し、頬張る。
食べ終わり、横になる。
(こんな森に、なんでこんな場所がある?さっきの光はなんだ?)
わからないことだらけ。だが、その中でひとつだけ思い至る存在がある。
(…導かれてるのか?…クソ女神に?)
目を閉じる。
何故か、それが自然にできた。心から安心できた。
やがて意識は、静かに眠りへと沈んでいった。




