信じる心
ラクトと別れ、しばらく走る。
ペース的には、もうすぐ到着のはずだった。
一度だけ、遠目からその場所を見に行ったことがある。
あからさまに「入口」とわかるその場所からは、異様な雰囲気が漂っていた。
その時は入らず、すぐに引き返したが――夜中になったせいで、セアラに少し怒られた。
もちろん、どこへ行ったかは内緒にした。
でなければ、もっと激しく叱られていただろう。
魔力を節約しながら走る。
自身が習得した身体強化――それを長時間維持できる程度の速度に落として、行使する。
オンとオフをこまめに切り替えるだけで、魔力の消費は大きく変わった。
切り替えがぎこちないとバランスを崩して地面に頭から突っ込むが、今ではもう慣れている。
そんなミスはしない。
(…見えた)
完全に身体強化をオフにする。
ゆっくりと減速し、立ち止まって前方を見据える。
(ここに…薬草がある)
禁断の森が、口を開けて待っていた。
(…夜になる。今日は駄目だな)
時間がどれだけあるかはわからないが、焦っても仕方がない。
確か、アイオンのときは8日ほど持った――そんな話を聞いた気がする。
(当時のアイオンは10歳。今のナリアは7か8。加えて女の子だ……厳しく見て、4日と考えよう)
村からここまで、できる限り飛ばして走り、魔力回復薬を一本飲んで――所要時間は約1日。
近くの湖で顔を洗う。
水面はとても澄んでいて綺麗だった。
野営の準備をしながら、残された時間を計算する。
(薬草探しに使える時間は3日。それまでに見つけて森を抜け、全力で村に戻る――それが最低条件だ)
肉屋に渡し損ねていたホーンラビットの肉を焼いていく。
(朝になるまでは、ここにいるしかない。できる限り休んで…日の出とともに入る)
焼けた肉を頬張る。
味付けは塩だけだが、それでも美味い。
食べ終えたら火を消す。
場所を少し移動し、良い岩を見つける。
周囲に聖水を撒いておく。
この辺りに魔物の気配は一切ないが、用心するに越したことはない。
(…森に入れば、外の魔物も排除される。そうなれば、弱い魔物はこの辺りには近づかない。…C級以上なら危険だけど)
目を閉じる。
(…不思議だ。魔物はいないと、なぜか確信できる。…眠れそうだ)
微睡んでいく。
(…あの森はなんなのか。魔物同士が争い合う忌地――のはずなのに、こんなにも静かだ…)
そして、思考は静かに途切れた。
#
日が昇る。
目を覚まし、服を脱いで湖に入る。
身体を洗い、気力・体力・魔力を整える。
体を拭きながら、携帯食料を口にする。
匂いを残さないよう、新しい服に着替える。
古いバッグに服と、貴重な魔力回復薬を1本だけ入れ、岩のそばに置いた。
回収できればよいが、できなくても構わない。
森の入り口に向かう。
まだ薄暗く、先は見えなかった。
(…ここから入ったほうがいい。なぜか、そう感じる。他の場所からでは、より危険な気がする)
(…3日。入ってすぐ見つかれば最高だが、そううまくはいかないだろう)
空を見上げる。
冷たい風が吹くが、雪はまだ降りそうにない。
(頼むから、このまま雪が降りませんように…)
探索しにくくなる要素は、少ない方がいい。
目を閉じ、深く深呼吸をする。
そして――覚悟を決めて、一歩を踏み出した。
#
セアラが目を覚ました。
どうやら、あのまま眠ってしまっていたらしい。
すでに日は昇っている。
昨日のことを思い出し、名を呼ぶ。
「…アイオン!」
しかし、返ってきたのは――
「おはよう、セアラ。アイオンは昨日、出ていったわ」
「おはようございます〜。眠れてなかったので〜、この時間まで眠ってしまってたんですよ〜」
レアとベティだった。
「も、申し訳ありません! お二人を置いて私は…ナリアは!?」
慌てて詫びを述べ、ナリアの顔をのぞき込む。
苦しそうではあるが、眠っているようだった。その姿に安堵する。
「苦しんでるうちは平気よ。…それがなくなってからが、この奇病の本番」
レアが魔力を切り、ベティが代わりに回復魔法をかける。
実は、ベティもさっき目が覚めたばかりだ。
それだけ魔力を使い果たすと、かなりの負担がかかる。
レアは魔力の余裕こそあったが、体力面を考えて眠ることにした。
「…アイオンのときもそうでした。苦しみがなくなって、穏やかな顔に――」
三年前を思い出す。
治ったのかと安堵した時に、レアたちは最大限の回復魔法を施した。
それから一日後――
「それが、この奇病の厄介なところです〜。一瞬、安心させるんですよね〜私たちを。
それで回復魔法をやめて〜、安定してるのを確認して〜、安堵すると〜…一気に死に向かう〜」
ベティはそう言いながら回復魔法を続ける。
今では症状が知れ渡っているから騙されることはないが、流行し始めた頃は本当に酷かったという。
(…まぁ〜、俗物どもには都合の良い病気ですよね〜)
内心で毒づくが、口には出さない。
彼らはこれを、“女神様が選んだ子どもたちを次の世界へ導く試練”と信じている。
(まったく忌々しい〜。“死した魂を他の世界へ導く”という教義を〜、勝手にねじ曲げて〜)
「…そうなった時のためにも、休みながら診ましょう。あの状態になったら、おそらく一日ももたない」
「…ああ、お願いします! お願いします、レア様!」
セアラは必死に懇願した。
「…アイオンさんを信じて待ちましょう〜。きっと帰ってきてくれますよ〜」
その言葉に、セアラの表情がさらに動揺する。
「あの子は…禁断の森に…! 私は、止められなかった!」
ベティを睨むレア。
そんなつもりではなかったのに、と焦るベティ。
どう慰めればよいか悩んでいると、家の扉が開いた。
「セアラ! ナリアは!?」
「ラクト! ラクト!!」
ラクトが帰ってきた。
セアラが駆け寄り、抱きつく。
「おかえりなさい、ラクト。ナリアは無事よ」
「おかえりなさ〜い!」
代わりにベティが応える。ナリアのそばに寄る二人。
…少し臭い。
だが、空気を読んでレアとベティは何も言わなかった。
「ラクト、アイオンには会ったのね?」
「ああ。あいつに言われたんだ。俺にできることは、ここでお前たちのそばにいることだって…」
ナリアの頭を撫でる。
「でも、あの子が森に…入ってしまったんでしょ? そんなの…私…」
最悪の結末が頭をよぎり、涙があふれる。
もし、アイオンが帰らなければ――
「…信じよう」
「え…?」
ラクトの顔を見る。
そこには、悲観の色はなかった。
「俺たちの子どもを信じよう。アイオンは必ず帰ってくるし、ナリアは、それまで絶対に頑張る」
セアラの肩に手を置き、優しく笑いながら言う。
「なんたって…俺たちの子どもだからな!」
その顔には、一切の迷いがなかった。
(…なにか〜あったのでしょうか〜? 気になりますね〜)
“御使様”の可能性が非常に高いアイオン――
ベティの興味は尽きなかったが、今は聞く状況ではない。放っておくことにした。
「…そうね。私たちの子どもだもの。きっと平気よね?」
セアラは涙を拭う。
「ああ! ゼアスもすぐ来てくれる! 家族五人で飯を食おう!」
「ええ! もうすぐ…アイオンの誕生日もあるわ!」
盛り上がる二人。
そろそろ限界だった…。
「…二人とも、少し休ませてもらっても…いいかしら?」
魔力に余裕はあっても、夜通し魔法をかけ続けたのだ。
見た目は平気そうでも、さすがにキツイ。
「あっ! 失礼しました、レア様!」
「どうぞ! 私のベッドをお使いください!」
「ありがとう。でも、一度教会に戻るわ。着替えと、湯浴みもしたいから」
「え〜! 私もしたいです〜!」
「…床に寝てたのはあなたでしょ。はしたない…。いつまでも子ども気分なんだから」
「…まだ平気です〜。どうぞレア様〜ごゆっくり〜」
(調子のいい…でも、そこが良いところなのよねぇ)
「お言葉に甘えて…なにか変化があれば、すぐに教会へ来てちょうだい。…ラクトも、汗を流したほうがいいわ」
「わかりました! レア様!」
さりげなくラクトにも湯浴みを勧める。
成功したようで、ベティがサインを送った。
家を出て、教会へ向かう。
途中、カーラと出会った。
「あら、カーラ。こんな朝早くに」
「おはようございます、レア様! よければ、これどうぞ!」
そう言って、サンドイッチを差し出してくる。
「ありがたくいただくわ。…そういえば、何も食べてなかったわ…」
「えっ!? それは大変! もう一つどうぞ!」
中身の違うサンドイッチを二つ、受け取る。
「ありがとう、カーラ。…ラクトの家に行くの?」
「はい! こんなことしかできないんで! それと、村長が代表して見舞いに行くって、母さんたちに頼まれて!」
(確かに、大勢で行くよりは良いわね…アイオンのときも、そうだった)
「そう。きっとみんな喜ぶわ。お願いね」
「はい! では、レア様。失礼します!」
会釈して、元気に走っていった。
その背を見送りながら、教会へと歩き出す。
(どれだけ冷たくしても、わかる人には…わかるのよね)
冷たい風が通り過ぎる。
どうか、雪が降りませんように――そう願いながら。




