託す
走る一頭の馬。
その背で、ラクトは焦燥に駆られていた。
(このペースなら夜には禁断の森に着く。けど…失敗した。食料がない)
止めようとしたベティや村長、ついてこようとした自警団員たちを振り払い、ただ飛び乗るようにしてここまで来た。
(ケニーさんのところで買っておけばよかった…)
水はどうにかなる。森の近くに湖がある。
(魚を捕れば…道具はないが、なんとかなる!)
目処が立つと、否応なく考えはその後に及ぶ。
―森に入った後のことへ。
(…無駄なことをしてるんじゃないか?)
脳裏に浮かぶのは最悪の未来。
禁断の森。恐ろしい場所。生存率、ほぼゼロ。
子どもの頃から繰り返し聞かされてきた。
入り口付近で調査をしただけの研究者が、一瞬でウルフ種に食いちぎられたという話は有名だ。
さらに奥を目指した冒険者たちが何人も入って、一人だけ―両腕をなくして―戻ってきた。
そんな血なまぐさい真実は枚挙に暇がない。
だから、入ってはいけない。
誰もがそう教わってきた。
そんな場所に、一人で入る。
それはつまり――
(やめろ、やめろ!行くしかないんだ!行かなきゃ、ナリアが死ぬ!)
自分の頬を叩き、無理やり奮い立たせる。
なにもしなければ、必ず訪れる未来。
それを変えるために――進むしかない。
「うわっ!」
突如、身体が宙に浮いた。
馬が転倒したのだ。
投げ出されながらも、なんとか受け身を取る。
「くそっ…大丈夫か!?」
慌てて駆け寄ると、馬は足を挫いたのか骨折したのか、立ち上がれずに苦しげに嘶いていた。
「なんてことだ!回復薬もない!」
このまま森まで歩けば、すぐに魔物の餌になる。
かといって村に戻れば、ナリアの命に―間に合わないかもしれない。
情けなさに、涙がにじむ。冷静に準備をしていれば、こんなことには…。
ナリア、すまない。
こんな情けない父親で。
セアラ…俺は、もう――
「追いつきましたよ」
その声に顔を上げる。
「…アイオン。…なんで?」
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「なにを泣いてるんです?ああ、馬が」
アイオンは近づき、馬の頭を撫でる。
その手から回復薬が零れ、傷んだ脚を瞬く間に癒した。立ち上がった馬が嬉しそうに彼へ頬ずりする。
安堵が広がる。
だが――それは同時に森へ向かわねばならないという現実を再度、突きつけた。
「ラクトさん。あなたは村に戻ってください」
「は、はぁ!?なんでだ!?」
見透かされたのか。だが、それでは!
「それじゃ、ナリアは絶対に助からない!森に入って、薬草をとってこないと!」
「わかってます。だからこそ、あなたはセアラさんとナリアの傍にいてください。それは―あなたにしかできないことです」
アイオンは目を逸らさずにそう言った。
「な、なら薬草はどうする!?お前は、ナリアをセアラと看取れって言うのか!?」
「そのために、俺はここにいます」
「なっ!?」
言葉に詰まる。
それはつまり―。
「俺の代わりに、お前が採りに行くと?」
「はい。それがベストです」
「そ、そんなわけあるか!だったら二人で入ればいい!その方がまだ――!」
「足手まといです」
アイオンの声は冷たく、しかし揺るがなかった。
「一度心が折れた人は、また何かあればすぐに折れます。フォローできる余裕があるならともかく、そんな場所じゃない」
こいつ…やっぱり気づいて…。
「そ、それは……」
「Cランクの魔物なら恐らく対処できます。状況判断を即座にする前提です。一人の方がいい」
―化け物を前にしたら、今の自分は腰を抜かすかもしれない。
それでも…。
「…なら、二人で戻ろう」
「……は?」
「二人で村に…家に戻ろう。ナリアを見送ろう。女神様の元に帰るナリアを―ぶべらっ!」
拳が飛んできた。
殴られた衝撃で、ラクトは地面に転がる。
「な、なんで…」
「手加減はしました。これで、今のは聞かなかったことにします」
ラクトは気づいた。
俺は今…なんて言葉を吐いたんだ。
体を起こそうとするが、羞恥と情けなさが重くのしかかり、立ち上がれない。
「お、俺はなんてことを…!ナリア!すまない!!」
涙があふれる。
アイオンを死なせない理由に、ナリアを使ってしまった!
「すまない…すまないナリア…こんな、情けない父親で、すまなっえばらっ!?」
今度は蹴りが飛んできた。
地面にうつ伏せになる。
「手加減はしました」
嘘だ。痛みで立ち上がれない。
だが、その直後にかけられた声は、鋭さとは違うものを含んでいた。
「…いいじゃないですか。情けなくたって」
ラクトは顔を上げる。
「死にたくないのは普通ですよ。死なせたくないのも。それでもここまで来たんです。…立派ですよ」
アイオンはゆっくりと近づいてくる。
「でも、父親だからって、できないことをして死ぬのはやめましょう。言い訳にして、無理矢理諦めるのもやめましょう。…できないことは、できる人に託してください」
アイオンは、目の前で膝をつき、手を差し伸べた。
「家族なんです。少しは、頼ってくださいよ。―父さん」
差し出された手と言葉に、何も言えなくなった。
何年ぶりだろう――アイオンにそう呼ばれたのは。
「…そうか。…そうだなぁ…」
声に出すと、また涙が溢れた。
だが、それは先ほどとは違う涙だった。
ラクトはその手を握った。
いつの間にか大きくなっていた、息子の手を。
#
「それでは、俺は行きます」
馬にまたがったラクトにそう告げると、アイオンは背を向けて駆けだす。慌ててその背に叫んだ。
「アイオン!」
振り向いた瞳は真っ直ぐだった。
「帰って来いよ!ナリアとセアラと待ってるからな!ゼアスもすぐ帰ってくる!」
「前向きに善処しますよ…」
あっさりした言葉を残し、アイオンは馬をも置き去りにする速さで走り去っていった。
「…どういう意味だ?」
首をかしげながらも、ラクトはその背を信じた。
きっと帰ってくる。あいつは自分とは違う。
姿が消えてもしばらくその方向を見つめ、やがて村へと馬を向かわせる。
「すまないな。もう少し、乗せてもらう」
馬の頭を撫で、進む。
息子に託す。
こんな日が来るとは思っていなかった。
まだまだ先のことだと――。
ふいに、死に別れた父の笑顔が脳裏に浮かぶ。
…今度、墓参りに行こう。
家族五人で。
――自慢の家族、全員で。




