泥に落ちる
雨は夜のうちに雪へと変わり、街を覆っていた。
朝日が昇る頃には、王都パルキノンの飛空艇ドッグは一面の白に薄く包まれていた。
誘導する者たちと、整備士たちの掛け声。
冷たい空気の中、銀灰色の飛空艇が静かに浮上を始めている。
その様子を、フォスター公爵は腕を組んで見つめていた。
隣にはカストル、そしてジーナとメリアの姿がある。
「……少し遅れていますね」
カストルが呟く。
雪の積もった滑走路を眺めながら、記録表に視線を落とした。
「予定より雪が早く降り、移送者の再選定が必要になったからな……。病人や老人を先に運ばねば、往復までに間に合わん可能性がある」
フォスターの声は低く、しかし穏やかだった。
吐く息が白く消えていく。
「それでも、できる事はこれくらいね。移送が終わるまで、耐えてくれるのを願うしかないわ」
ジーナは冷静に考えを口にする。
視線の先には、整列する貧民の群れがあった。
子どもたちが、震える手で荷物を抱えている。
ジーナの目には、どこか興味なさげにその列が映っていた。
頭を振り、切り替える。
「子どもたちを優先するはずだったけど、彼らも納得して順番を譲った。なら、それを尊重するべきね」
「……それでも、往復は四回必要です。八日間かかり、更に整備もある。倍はかかると見ていい。……我が家の飛空艇では、一度に運べるのは最大でも二十人ほどですから」
フォスターが答える。
ジーナの顔には陰が残る。
「……王家の飛空艇を使えればいいけど、私にはその力がないわ。リアラもお父様に頼んだけど、駄目だったし」
「――どうやら、その力を持つものが来ましたな」
フォスターは静かに視線を向けた。
雪に覆われた通路の先、豪奢な馬車がゆっくりと停まる。
白金の装飾が朝日に鈍く光り、深紅の王家紋章が雪を背景に際立っていた。
馬車の扉が開き、第一王女――ヘリル・ローズレッドが姿を現す。
白い外套に包まれた彼女は、一歩ごとに雪を踏みしめながら進む。
その背後には、赤と金の法衣をまとった男――ルドバ枢機卿が静かに従っていた。
整備士たちは慌てて頭を下げ、場の空気が張りつめる。
ヘリルはそれを当然のように受け流し、ゆるやかに微笑んだ。
「ご苦労さま、ジーナ。貧民に慈悲の奉仕とは感心ね」
「姉さま……」
ジーナはわずかに眉を寄せた。
その表情の奥に、警戒と諦めが混ざる。
「飛空艇で貧民を運ぶなんて、なかなかのご決断。けれど……随分と非効率ね。何往復もさせるつもりかしら?」
「仕方ありません。王家の飛空艇を使う許可が下りなかったので」
ジーナの返答は短く、淡々としていた。
ヘリルは唇の端を上げ、視線をフォスターへと移す。
「それでフォスター公爵に泣きついたのね?でも、あなたの家の飛空艇では、時間がかかるでしょう?」
「ええ。ですが、民は強い。新天地に向かう事を諦めず、耐えてくれると信じてますよ」
フォスターは一歩も引かずに応じた。
その穏やかさが、かえって重圧のように響く。
ヘリルは一瞬だけ目を細め、そして軽やかに笑う。
「ふふ……いいわね。その王族に退かない態度。でも私なら、王家の飛空艇を使って一度で済ませられるわ」
ルドバが、静かにその場を補うように言葉を重ねた。
「王家の飛空艇を使えば、移送は一日で完了します。陛下からは許可を取れていますし、女神教としても、支援は惜しみませんよ」
「支援、ね……」
ジーナは冷たい息を吐き、軽蔑の視線を向ける。
「長い間手を差し伸べてこなかったのに、最後の移送だけ手伝って、支援したと言われてもね」
「だからこそですよ。今後の王国のために、我々は変わるという意思を民に見せなければならないのです」
ルドバの声は、まるで説教にも似た柔らかさを帯びていた。
だがその瞳の奥には、慈悲ではなく計算の光が宿っている。
ジーナは静かに睫毛を伏せた。
風が吹き、雪が頬に触れる。
「……取り繕った言葉はもういいわ。何が望み?」
ヘリルがその言葉に口元を歪めた。
「話が早いのね。助かるわ。――でも、なにもないわよ」
「そんな事ないはずよ。何の対価も無しに、私の助けになるわけないじゃない」
「あなたに用なんてないわよ。あるのは……"平民まじり"よ」
「……なんですって?」
ジーナの声音には、わずかに怒気が混ざった。
だがヘリルは動じず、微笑みを保ったまま歩み寄る。
雪の上で、二人の足跡が交わる。
「"あれ"はいらない子だけど、現王が唯一気にかけてる存在よ。……そんな存在から頼まれても飛空艇使用の許可を出せないほど、傀儡に磨きがかかってるけど、それでも現王なの」
「元々貧民救済はリアラがやっていた事。……それの終わりが見えたから、恩を売ってお父様に良い顔をしたいって事かしら?」
ヘリルは肩をすくめ、ため息をついた。
「あれと話すなんてごめんだけど、あなたを通す契約なら構わない。どう?単純な契約よ。『ヘリル王女の手助けで、貧民救済がなりました。』と、あれに一筆書かせればいいだけよ」
「……私は、窓口としての価値しかないって事ね」
短い沈黙。
雪が二人の間を舞い落ち、地に吸い込まれていく。
フォスターが一歩前に出た。
その声音は静かで、だが刃のように冷たい。
「勘違いをなされてるな。……この移送に私が手を貸したのは、ジーナ王女のためです。リアラ王女の手を借りたいなら、彼女に直接乞い願いなさい」
ヘリルは視線を向けた。
フォスターの瞳の奥には、確固たる意志が宿っていた。
彼女はわずかに口角を上げ、笑う。
「なるほど。あなたはジーナが関わっていなければ、手を出す事はないのね?」
「それが私が受けた恩義に報いる事ですので」
フォスターの返答は落ち着いていた。
ルドバが割って入る。
「……いずれにせよ、陛下は王家の飛空艇の使用をお認めになっています。ジーナ王女が望めば、いつでも出発できますが」
「――条件があるわ」
ジーナの声は低く、氷のように冷たかった。
「契約魔法を使い、誓いなさい。『リアラに謝罪する』と。それなら使ってあげてもいいし、姉さまに貸しを作ってもいい」
言い切るその姿に、ヘリルはしばし黙し――
やがて、笑みを浮かべ答える。
「……安心したわ。あなたは分不相応な夢を見て、フォスター公爵の力を得たのかと思ったけど、違うみたいで」
その声は、明らかに馬鹿にしたものだった。
そして、背を向け歩き出す。
「そんな契約はいらないわ。あなたに用がないのは変わらない。王家の飛空艇は好きに使っていいわよ。私が許可する。……飛空艇が汚れるけど、王都で貧民を見る日が今日で終わるなら、派閥に関係なく、皆喜ぶからね」
ルドバが軽く一礼し、ヘリルの後に続く。
二人が去っていく中、風が舞い、白い雪が再び空を覆い始めた。
フォスターはその背を見送りながら、低く呟く。
「……どうにかなりそうで一安心ですな」
ジーナは息を整え、雪を見上げた。
「……そうね!」
短く吐き捨てるように言い、ジーナは唇を噛みしめた。
白い息が荒く揺れ、肩が震える。
「移送を進めて!王家の飛空艇を使える!全員乗せ次第出発して!」
声が跳ねた。
ドックの中が慌ただしく動き始める。
「どんな形であれ、これで私のやるべき事は終わったわ!」
雪を踏みつける音が響く。
ジーナは足早に去っていった。
その後を、メリアが追いかける。
「――わかったか、カストル」
「……はい。よくわかりました」
フォスターはカストルに声を掛ける。
カストルは目を伏せ、考えを述べる。
「……アイオンさんと再会できた。暫く共に過ごす事が決まった。……貧民の事を気遣う必要がなくなり、どこか上の空でした」
「彼がこの場にいれば、また違っていたのだろうな。……そして、重大な問題がある」
フォスターは去っていくジーナを見つめ、ため息をつく。
「彼女は……彼を操ろうとしている。その危険性を、判断できていない」
「曲がりなりに手を貸した旦那様も、危ういのでは?悪感情を抱かれるかも……」
「そのリスクをとっても、彼を砦に行かせたかったのだ。さて、吉と出るか凶と出るか――女神のみぞ知るかな?」
天を一瞬仰ぎ、思考を切り替え、移送の指示を出す。
フォスターはジーナの背を最後まで見なかった。
だから気づけなかった。
馬車に乗り込む前に、彼女に接触する者がいた事に。
#
雪の中を早足で進むジーナの背を、ひとりの女が静かに追った。
メリアとは違う足音――。
その人物は、ドックの陰からゆっくりと現れる。
灰色の外套に黒の手袋、フードの奥にのぞく金の髪。
メリッサだった。
「少し、よろしいでしょうか?」
ジーナは足を止めた。
振り返りざま、眉をひそめる。
メリアがジーナとメリッサの間に立ち、警戒する。
「どなたか知りませんが、お引き取りを」
「私の身分は、こちらで証明いたします」
メリッサは懐から、冒険者ギルド員のカードを出す。
そのカードには、特別ギルド員のマークがしっかりと刻まれていた。
ジーナの表情がわずかに険しくなる。
「……特別ギルド員がなんのよう?指名依頼なら、通ったと報告は受けてるけど」
「そこまで警戒なさらずとも。私は、ジーナ王女殿下に有益な情報を持っています。信用しろとは言いませんが――」
メリッサは挑発的に笑う。
「お話があります。アイオンさんの件で」
その一言で、ジーナの顔色は変わった。
「どういう意味?なぜ、特別ギルド員が彼の事を?」
「少し前までバルナバにいました。彼の登録をしたのは、私なんですよ」
「……だから?」
明らかに敵意を見せる。
しかしメリッサは余裕の表情を崩さない。
「――どうでしょう?外は寒いので、中でゆっくりとお話させていただけませんか?」
ジーナは返事をせずに乗り込む。
メリアも乗るが――扉は閉まらない。
了承を得たと判断して、メリッサも乗り込んだ。
「……で、なに?有益な情報って」
「その前にひとつ。そちらの方は信用されてますか?」
メリッサはメリアに目を向ける。
王女の傍付きに対して、あまりに不遜な言い様に、メリアは思わず口を出そうとするが――
「勿論よ。私の唯一の理解者と言って良い。彼女に裏切られるなら、本望よ」
「ジーナ様……」
ジーナの言葉に感動を覚えるメリア。
あの誘拐事件以来、二人の関係は強固になっていたが、こうして言葉で言われるのはあの日以来だった。
「そうですか。では、お話しましょう」
メリッサの声は穏やかだった。
だがその言葉には、どこか冷たい諦観が混ざっている。
「バルナバで彼を見つけた時から、考えていた事があります。そしてそれは、ジーナ王女にも関係する事ですので、協力して欲しいのです」
「私に関係する事?……私と彼に接点はあまり無いわよ。誘拐事件の時に、助けてくれた村人の一人ってだけ。今回の指名依頼も、その縁で仕事を紹介しただけよ。この街のギルドは、秘匿依頼か指名依頼しか受け付けないでしょ?」
「ただの一人に、公衆の面前で抱きつかれたと?一国の王女であるあなたが、平民に?」
「……感謝の意を伝えたくてよ。あの時はすぐに村からバルナバに戻って、すぐに王都に帰ったから、お礼も言えず終いだったの」
「では、救出に関わった村人全員に、感謝の意を伝えたんですか?」
ジーナは言葉を失った。
吐息が白く揺れ、呼吸が早まる。
しかし、平静を装う事に努めるしかなかった。
「……そうよ。あの場にいなかったあなたには、わからないでしょうけど」
「嘘ですね」
即答だった。
「特別な感情がなければ、私にあんな敵意を出しませんよ。……確かに、あなたがいない間のアイオンさんの動向はわかっていますし、どんな人なのかも、おそらくあなた以上に知ってますが」
メリッサは小さく微笑む。
その微笑みには、言いしれぬ妖艶さを感じさせた。
「……あなた、私に協力してほしいのよね?喧嘩を売りに来たのなら、今すぐここを出て、街を出た方がいいわよ」
「素直になってくださらないからですよ」
メリッサは笑みを崩さない。
その姿に、ジーナは更に苛立ちを重ねる。
「なにがあったのかを話す事はないわ。でも、彼の事はこの世界で一番信じている。……これでいい?さっさと話しなさい。碌でもない話なら、必ず首を飛ばすわ」
「おふざけはここまで――という事ですね。では話しましょう」
メリッサは指先で封書を押し戻し、低く続けた。
「結論から。アイオンさんを“ギルド専属冒険者”にします。それに協力してほしいのです」
「……それが私になんの関係が?」
ジーナの声は冷えた。
どうでもいい話だった。
「彼は王都で暮らす事になる。あなたの傍で――それだけで、十分有益では?」
メリッサの声は、雪の静けさに溶けるように柔らかかった。
しかしジーナはどこまでも冷たかった。
「時間の無駄だったわね。あの人はなにかに縛られたりはしない。立場にも、名誉にも興味はない。――私より知ってるですって?とんだ思い上がりだったわね」
呆れ、手を払う。
もう用はない、さっさと消えろ。
しかし、メリッサの次の言葉がジーナの核心を突く。
「――ですが、あなたはそれを望んでる」
「……は?」
メリッサは低く告げた。
「わざわざ公衆の面前で抱きつき、自分はアイオンさんのモノだと見せつけた。……彼の気持ちはおそらくあなたにはない。だけど、世間はそうは見ない。王女に手を出した平民と、印象付けた」
ジーナは困惑の表情を浮かべる。
「……何を言ってるの?」
「あなたは誘拐事件の時にアイオンさんの力を知り、彼がただの村人で終わる存在ではないと知ったのでは?いずれなにかをして、爵位を得る存在になるのでは?と」
ジーナの額に汗が浮かぶ。
そんな様子を、メリッサは薄ら笑いながら続ける。
「平民が王女の愛に応えるために奮闘し、爵位を得て結婚する――劇によくあるラブロマンスですね。ですが、肝心の部分……アイオンさんの気持ちが入っていない」
メリッサの言葉は侮辱へと変わった。
「……あなたは彼の事をなにも知りませんよね?ただ、恋に夢見てるだけです」
「黙れ!!!!」
ジーナの怒鳴り声が響く。
しかしメリッサは気にもとめず笑顔を続ける。
「私はね、私の目的のために、あなたに協力してほしいんです。その代わり、あなたのためになる事をします」
ジーナが荒い息をしながらメリッサを睨む。
「こうやって怒らせる事が、私のため?」
「いいえ、とんでもない。――もっと有益なものですよ」
メリッサは懐から紙を取り出し、ジーナに渡す。
それを黙って開くと――ジーナの怒気は更に強くなった。
「……どういうつもり?」
「アイオンさんは、まだ見ていません。送られてる事を知りもしません」
メリッサの言葉は淡々としていた。
「彼が専属冒険者になれば、私が専属担当官になります。そうすれば、余計な情報を入れる事はないですし、出す事もない。完全に、コントロールできます」
ジーナの瞳が震えた。
「……あちらから訪ねてきたら?」
「どこの街の馬車組合やギルドを通しても、必ず私に連絡が入るようになってます。そのタイミングさえ分かれば、依頼で引き離す事なんて容易い。私の権限で、"彼女達"に依頼を任せ、一生会わずに済ませる事もできます。――実力に合わない依頼をさせて、命を落とす"失敗"を引き起こす事も」
「……っ」
ジーナは思わず拳を握った。
「……でも、いつかはオルババ村に帰ると彼は言っていたわ」
「その時まで王女殿下に振り向きもしなかったのなら、それはもうあなた自身の問題ですよ。私には関係ない」
「……なにを私にさせたいの?」
「彼をなにがなんでも繋ぎ止めて欲しいんですよ。この王都に。――なにをしてもね。私がやってもいいですけど、あなたの方が彼に信頼されてるでしょう?」
ジーナはしばし沈黙し、やがて低く呟いた。
「……決して、“あの子”の情報を彼の耳に入れないで」
メリッサは微笑んだ。
「了承していただけて嬉しいです」
ジーナは手の中の紙を握り潰す。
そこにはこう記されていた。
「アイオン!15歳の誕生日おめでとう!どうだ?祝ってもらえて嬉しいか?…私のも祝えよ!知ってるよな?私の誕生日!待ってるからな!!――カーラより」
冒険者ギルドの伝令魔法を通じて出されたメッセージ。
なんの邪気もない、純粋な祝の言葉。
それが届く事はなかった。




