淡々と
王都は、変わらず静かだった。
通りを行く人々は少なく、荷車や見回りの兵士が無言で行き交うだけ。
生活の気配はあるのに、どこか温度がない。
全てが機械仕掛けのように、ただ決められた時間をなぞっていた。
大通りに入った時、リズがアイオンの袖を軽く引いた。
「……寒いね」
その声は小さく、冬の風に消えそうだった。
「そうだね。暖かくして出てきてよかった」
アイオンは足を止めて微笑んだ。
白い息が二人の間を流れていく。
「……ずっと兵隊さんだらけだね?」
「ここに来た時からこんな感じだったよ。王都の日常なんだ」
「……変なの」
リズは唇を結ぶ。
彼女からしたら、意味もなく歩いている人たちが、純粋に疑問なんだろう。
自分だって、同じ気持ちだった。
「冒険者ギルドに行って、その後は?」
「周りを見て回りたい? 俺は……嫌なんだけど」
その言葉に、リズは小さく笑った。
手袋越しの手が、ぎゅっとアイオンの袖を掴む。
「じゃあ、早く帰って、セレナさんと遊ぶ。アイオンの事も、気にしてたよ。……まだ会えないって言ってたけど」
「そっか。……次にこの街に来る頃には、会えるといいな」
「……私、頑張る。セレナさんも私も、辛い事を忘れられないけど……頑張る」
「……行こっか」
「うん」
二人は並んで歩き出した。
冷たい石畳を踏む足音だけが、通りに響く。
「……でも王都って、嫌なところだね」
「どうして?」
「ずっと、息苦しい」
「……それは同感」
アイオンは短く答え、遠くの尖塔を見上げた。
歪に見える女神像の影が、朝の光を受けて灰色に沈んでいる。
#
やがて、二人は冒険者ギルドの前に立った。
石造りの建物は重く、まるで眠っているように静かだった。
中に入ると、冷えた空気が肌を刺す。
机の並ぶ広間に、冒険者の姿は一人もない。
物音といえば、書類を仕分ける紙の音だけ。
リズが不安そうに手を握る。
「なにもないね」
「ここは、他とは違うんだって。前に来た時に言われた。……二度と来る気はなかったんだけどね」
「平気?」
アイオンは答えなかった。
ただその手を引き、受付の方へ歩く。
そこで――メリッサが、彼を見つけた。
「おはようございます、アイオンさん、リズさん」
柔らかな笑み。
だが、その奥にあるものを、アイオンは読み取れない。
「なんだかお久しぶりですね。前に来た時は別の受付の人でしたけど、今日から仕事ですか?」
「そういうわけではないですよ。それに、ここの受付に仕事なんてほぼありません。ひたすら書類整備の毎日ですよ」
メリッサはさらりと答える。
そして、目の前に資料を広げ、一枚の依頼書を差し出した。
そこには、赤い薔薇の印章――ローズレッド王家の紋があった。
朝の光がそれを照らし、冷たく輝く。
「これが昨日の夜、申請されました。第三王女からあなたへの指名依頼ですよ」
「……どうも」
アイオンは差し出された依頼書を受け取り、ゆっくりと目を通した。
王立学園実地試験――その護衛任務。
依頼主は、第三王女ジーナ・ローズレッド。
聞いていた通りの内容だった。
表情は変わらない。
その沈黙が、かえって重く響いた。
「……では受けますね」
「そうですか。王族の依頼ですから、ギルドとしても最優先になりますし、断られたとしても、どうにかして受けさせてましたが…」
メリッサは形式的に告げたが、その目は冷静に彼を観察していた。
「――しかし、不思議ですね」
「なにがです?」
「第三王女から直々に指名されるなんて。どこかで交流があったんですか?」
「……以前、村に来られた時に色々あって。その時に覚えていてくれたんでしょう。それで、仕事をくれた。それだけですよ」
アイオンは軽く答えると、依頼状を折り畳み、静かに懐へしまった。
淡々とした動作の裏に、わずかな疲れが滲む。
メリッサは机越しに頬杖をつき、軽く息を吐く。
その顔には、かすかな笑みが浮かんでいた。
「それだけで、あんな騒ぎを起こすかしら?」
「なんです?」
「学園での件はもう広まっています。うちの上層部でも話題ですよ?……あなたに気づいたのは、私だけですけどね」
その言葉に、アイオンは何も返さず、視線を落とした。
リズが小さく首を傾げて見上げる。
「……大分面倒な依頼になりそう、とだけ答えます。行こうか、リズ」
短く言って、彼は踵を返す。
リズも静かに頷き、その後に続いた。
二人の足音が遠ざかり、ギルドの扉が閉まる。
残されたメリッサは、書類の上で指を組み、目を細めた。
(……あの反応は、間違いないわね。さて、どう動くべきか――)
窓から射す光が、机の上の封蝋を照らす。
その赤が、まるで血のように濃く見えた。
#
フォスター邸に戻ったあと、アイオンは外出を控える事にした。
王都では、既に“王女と黒髪の平民”の噂が広がっている。
ギルドに行き、帰ってくるだけでも、好奇の目に晒されている気がして、更に居心地が悪くなった。
(しばらくは屋敷にいた方がいいな)
暖炉の火が静かに揺れている。
窓の外では雪が舞い、冬の曇天が広がっていた。
(カストルさんに本を借りよう。……前もこんな事考えた気がする)
立ち上がり、カストルを探すために部屋を出る。
他の使用人に話を聞くと、カストルは飛行艇の整備の確認に出ているようだ。
「本をご所望ですか?なら、ご案内します」
書斎へと案内される。
沢山の本が収められていた。
(これなら、実地試験とやらの日付まで暇を潰せそうだな)
アイオンは適当に本を抜く。
タイトルは――
(『無敵のセドリック』――確か御使だったっけ。イザークが話してた、実在した英雄の冒険譚。村にはなかったから読んだ事なかったけど……いい機会だ)
本をめくる。
ゆっくりとした時間を過ごす。
#
夜も更け、屋敷はしんと静まり返っていた。
カストルは廊下を抜け、扉を叩いた。
「――入れ」
低い声が返る。
中ではフォスター公爵が書類の束に目を通していた。
暖炉の炎が、その横顔を柔らかく照らしている。
「無事、整備は完了しています。明日からの移送に問題はないかと」
「そうか」
フォスターは手を止め、ゆるやかに椅子の背にもたれた。
机の上には王家の印が押された封書が数通あった。
「……圧力でも?」
「まさか。貧民問題に対する感謝状だ。……やはり貧民街の開発を強引に進める予定だったようだ。跡地は第一王子の管轄で、兵士訓練場になるとの事だ」
「街であれだけ兵士を無駄使いしてるのに、更に増やすつもりですか……愚策ですね」
フォスターはわずかに微笑み、ワインを口に運ぶ。
その仕草は優雅だが、どこか憂いを帯びていた。
「ならば貧民に兵職を与え、活用すればいいものを、ただ住む場所を奪い放置する予定だったそうだよ。……しかも働き手になる男達は既にフィギルの所に送っているから、今回の移送がなければ――」
「旦那様の英断に、ジーナ王女もリアラ王女も感謝している事でしょう」
「……大きな借りを作った相手が望んだ事だ。褒められる事ではない」
フォスターは軽く息を吐き、窓の外を見やった。
雨が降り始め、街の明かりがぼんやりと滲んでいる。
「しかし、これで最後の鎖を抜いたのかもしれん」
「……継承争いの、ですね」
フォスターは少しだけ考え、ゆっくりと首を縦に振る。
「継承争いに一石を投じる形になってしまった。……今後、ジーナ王女も選ばされる事になるかもしれん」
フォスターの目が静かに細まる。
「――どちらの兄につくのかをな」
カストルはため息をつく。
「……難儀な事ですね。どちらも民の事を考えてはいない者が後ろにいて、指示を出している。脈々と続いてきた――女神教の教皇を選ぶための代理戦争が、この国の王位継承争いですから」
「ルドバはなんとしても、ベゼブから教皇の座を奪いたいのだろうな。なりふり構わず、金と支持者を集めている。しかし、ベゼブは動じない。第一王子――それだけで継承順位は有利になる。奴らの下僕である上位貴族も揺るがない。下位貴族の支持を集めても、無意味だと私も見ている」
「……そこで、旦那様との関係構築を望んでるんですね?ルドバ枢機卿は」
フォスターはわずかに笑った。
カストルの考えは当たっていた。
「今回の事で、ジーナ王女の後ろ盾に私がなったと思っている。何が何でも――ジーナ王女を引き込むつもりだろうな」
「しかし、そう上手くもいかないでしょう。彼女は自分の意思で、民を見ています。……他の継承候補者とは違います」
二人の間に沈黙が落ちる。
暖炉の火が小さく弾け、灰が舞った。
「――いっそ、ジーナ様を担がれては?」
カストルがぽつりと呟く。
フォスターはグラスを傾け、考える。
「第三王女、継承順位六位の者を担ぐか……」
「無い話ではないでしょう。あなたの理想に近い王族です。『自分の足で立ち、新女神教とは決別する』。困難な道ですが……」
「――お前の目にはそう映るのか……少し残念だな」
フォスターは厳しい目つきで外を見る。
「あの王女は、まだ少女なのだよ。恋する乙女と言ってもいい。……フィギル地方に視察に行くための口実が欲しかった。そのために貧民を移送した。『自分が送った者たちの生活が心配だ』という、誰が聞いても立派な理由だ」
「……アイオンさんに会うため、ですか?」
「昨日の反応ではっきりとわかった。……彼女はいじけた娘から成長したのではない。依存先を見つけただけだった」
フォスターは軽く笑い、机の端に手を置いた。
ゆっくりと立ち上がり、窓辺に立つ。
「今は全てが上手くいっている。リアラ王女との関係も、私との関係も。――だが、もしアイオンがジーナ王女を選ばなければ? 一方的な愛情を抱えたままになる。……夢から覚める事は、恐らくできないだろうな。それだけ、あの少年の光は強い」
「では、なぜ助け舟を出されたのです?旦那様がアイオンさんの説得に力を貸した理由は?」
その言葉に、フォスターはゆっくりと振り返る。
自分の考えをまとめ、カストルにわかるように伝える。
「――あの砦の“黒い噂”が真実か、知りたかった。もしも女神が彼を通して世界を見ているなら……必ず何かが起きる」
静かで、凍えるほどに冷えた夜だった。
#
同じ頃。
冒険者ギルド・王都本部の最上階。
夜の灯りを落とした会議室には、数本の燭台だけが並び、冷たい光を放っていた。
その中で、メリッサは静かに立っていた。
机の向こう側には、ギルド上層部の一人――ギレンが腰掛け、書類に目を通している。
「第三王女の実地試験の護衛任務。――お前のお気に入りの少年にご指名か」
その低い声に、メリッサは頷いた。
「はい。なぜ彼が選ばれたかは詳しくは知りませんが、学園の門前にてジーナ王女と抱擁していたとされる少年は、アイオンで間違いないかと」
「ふむ。確か、ライアの弟子だと言っていたな?なのに王族と関わるのか。……彼女は、“あの依頼の顛末”を弟子には話していないという事かな?」
「おそらくは。もしくは、彼女の中では大した事ではなくなってるのかも――」
「それはないな」
言葉を遮り、断言する。
「騙され、裏切られ、仲間を失い、役立たずだと後ろ指を指され――それでもまだ冒険者として生きている。その理由がなんであれ、薄れる事などありはしないさ…」
「なるほど」
メリッサは顔色一つ変えなかった。
その沈着さが、かえって場の空気を冷やす。
「……しかし今年の実地場所はバザーム砦か。――確実に、厄介な事になるな」
ギレンの視線が鋭く突き刺さる。
メリッサはわずかに口角を上げ、淡々と答えた。
「何故この場所になったのか、予想はついているようですね?」
「馬鹿にするなよ?これでもここで長い間立場を維持している。どこにでも耳はあるさ」
「……第二王子は動きますかね?」
「既に動いている。この場所が選ばれた事自体が、ルドバの狙いだろうよ」
「裏が、暴かれますかね?」
一瞬、沈黙。
燭台の炎が揺れ、壁に影が踊った。
ギレンはゆっくりと立ち上がり、背を向ける。
窓の外、雨が街を覆い始めていた。
「……たかが六日間の実地試験で、暴かれる事などないとは思うが……何故だ?」
「――ひとつ、賭けませんか?」
ギレンはメリッサを見る。
笑いともため息ともつかぬ声を漏らした。
「なにをだ?」
「決まってるでしょう?“裏が暴かれるか否か”」
「……アイオン少年が暴くと?クレイジーな思考だな」
ギレンの声は静かだったが、その奥に密かな興味が滲んでいた。
「なら、良いでしょう?私は当然、暴かれる方に賭けますよ」
メリッサは自信満々に答える。
ギレンは短く息を吐いた。
窓の外では、雨が降りしきっている。
「――逆ならいいぞ。私が“暴く”方に賭ける。賭ける物はなんでもいい。金でも、土地でも、出世でも。どうだ?乗るか?」
「……残念ながら、不成立ですね。忘れてください」
メリッサは丁寧に一礼し、机の上に置かれた報告書を軽く整えた。
燭台の火が彼女の指先を照らし、影が壁に伸びる。
「ただ一つだけ、確認を。――もし、彼が何かを暴いた場合は?」
「我々が関わる事ではない。関わったという記録もない。噂が真実であっても――“我々”にはどうでもいい話だ」
「……了解しました」
そう答え、彼女は踵を返す。
長い髪が揺れ、足音が静かに遠ざかっていく。
扉が閉まると同時に、室内の空気がさらに重く沈んだ。
ギレンは机の端に指を置き、低く呟く。
「――あの女があそこまで入れ込む存在か」
視線の先、机の上には一通の黒い封書が置かれていた。
封蝋には、女神教のシンボルである蝶が押されていた。
(……バザーム砦。噂が真実なら、上の席が確実に空く。しかし同時に、この国の闇が多少なりとも暴かれるという事。……一長一短だな)
炎が小さく揺れ、封書の縁が赤く照らされる。
ギレンは椅子に深く沈み、目を閉じた。
(誰が生き残り、誰が消えるか――その結果次第で、この国の権力争いに波紋が広がる。あるいは――)
#
外では雨が降りしきる。
これも明日には、雪に変わっているだろう。
王都の夜は、静かに息を潜めていた。
メリッサは階段を降りながら小さく笑った。
(第三王女とコンタクトをとらないと。彼女を私側に引き込む。全てはそこからね……)
雨の中、メリッサは外套の襟を正し、闇へと消えていった。




