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示す光

長い雑談を終え、王立学園を出ると、夕暮れの空が赤く染まっていた。

冷たい風が吹き抜け、街のざわめきがどこか遠くに聞こえる。


足を進めながら、アイオンは無言で息を吐く。

頭の中では、再会の場面が何度も再生されていた。


(……面倒な事になるな)


あの抱擁。

王都で、王女と平民が抱き合う――。

それがどれほどの波紋を生むか、わかっていないわけではなかった。


「見たか?」「あいつが?」「平民のくせに」


通りを行く人々が、ひそひそと声を交わす。

視線が突き刺さる。

笑い混じりの言葉が、風に乗って届く。


(ゴシップ好きはどの世界でも一緒か……)


歩調を乱さずに進む。

だが、その冷たい視線は消えない。


角を曲がると、兵士服を着た三人組が立っていた。

鎧の金具を鳴らしながら、ひとりがニヤついた笑みを浮かべる。


「おい、お前が例の平民か? 王女殿下に“抱きついた”って噂の」


「……正確に事実も把握できていないようですね」


「ははっ、随分余裕だな。どんな手を使ったんだ? 色目でも使ったか?」


通り抜けようとした瞬間、腕を掴まれる。

鉄の指が皮膚に食い込み、鈍い痛みが走った。


アイオンは一度だけ息を吸う。

その瞬間、空気が震えた。


風が一筋、通りを抜ける。

兵士たちの外套がはためき、掴んだ腕がわずかに緩む。


「触らないでください」


静かな声。

それだけで、相手の目の奥に警戒が走った。


「……なんだ、こいつ……」

「言葉でしか威張れない人に、興味はありません」


淡々とした声に、兵士たちは顔を見合わせ、吐き捨てるように笑う。


「気味の悪い平民だ」

「もう行けよ。二度と殿下に近づくな」


返事はせず、アイオンはそのまま歩き出す。


沈みゆく陽が石畳を朱く染め、影を長く伸ばしていた。

その影の先に、フォスター家の白い外壁が見える。


門の前に立つと、兵士がすぐに姿勢を正した。


「お帰りなさいませ。フォスター公爵より伝言がございます。――部屋に来るように、とのことです」


アイオンは一瞬だけ眉を動かし、静かに頷いた。


「……わかりました」


門をくぐる足取りは静かで、夜の冷たさが胸に沈んだ。



中庭の噴水は音を潜め、廊下に並ぶ燭台が淡い灯を揺らす。


書斎の扉を叩くと、中からフォスターの声が返った。


「入りたまえ」


扉を開くと、机の上に数枚の文書が並んでいた。

その一番上に置かれていたのは――王立学園の印章が押された報告書。


「やっぱり。早かったですね」

「王都での噂の伝達速度は風より速い。すぐに私の耳に届いていたよ」


フォスターはグラスを置き、深く息を吐いた。


「きみを非難するつもりはない。ジーナ王女殿下の感情の深さを理解できなかった、こちらの落ち度だ」


「……そうですか」


アイオンはそっけなく答えた。

ジーナの想いに気づかないほど子どもではない。


しかし、ただの吊り橋効果的なものだと、アイオンは思っていた。

時間が経てば薄れる気持ち。

なら、気づかない振りをして対応したほうがいい。


短い沈黙のあと、思考を切り替えるように口を開く。


「今後の予定は、あなたの中では決まってるんですか?」


「もちろん。おそらく三日後には王都にも雪が降る。その前に、貧民をスパールに移送する。人数次第だが、数度に分けての移送になるな」


「フィギル子爵には?」


「既に伝えてある。領地が広がる事に驚いていたよ。デオールにもしっかりと伝えてある。彼についていく領民は、近隣の村にすぐに移動したそうだ。残るのは僅かな数だな。」


フォスターは視線を窓の外に向ける。

月明かりが庭を淡く照らし、影がゆらゆらと揺れていた。


「……フィギルはオリビアとグリルの事を詫びていたが、責任はない。……あやつの手腕なら少なくとも、あの付近で賊がでかい顔をする事は、もうないだろう」


アイオンの目がわずかに鋭くなる。


「……しかし、デオール子爵の領土はまだあります。被害の場所が変わるだけでは?」


「……全てを取り上げ、首を街の外に置きたかったさ。だが、代わりにその場所を任せられる者は今はいない。別の俗物が収まるだけだ」


短い沈黙。

外の風が古い窓をかすかに鳴らす。


フォスターは再び視線を戻し、静かに言った。


「ならば、私に大きな貸しのある者を据えたまま、フィギルとの融和を進め、治安維持に力を入れさせた方がいい。……私の心情より、政治的な判断を優先する」


その言葉に、アイオンはゆっくりと頷いた。

理解と、わずかな敬意がそこにあった。


(誰もが理想で動けるわけじゃない。この人もまた、自分の戦場で戦っている――)


「……立派です」


そう呟いたとき、廊下の方から足音が近づいてくる。

侍従が扉を開け、静かに頭を下げた。


「旦那様。ジーナ王女殿下がお見えです」


フォスターは軽く頷き、立ち上がった。


「来たようだな。……行こうか、アイオン」


灯の落ちた廊下を二人が進む。

夜風が微かに吹き込み、燭の炎が揺らめく。


廊下の先――扉の向こうには、彼女がいた。


昼の奔放さは影を潜め、王女としての威厳がそこにあった。

その瞳に宿る決意と微笑みが、夜の静けさを切り裂いていた。



フォスター邸の応接室には、夜の冷気が静かに満ちていた。

外は雪こそ降っていないが、風が重く、月明かりが白い庭をぼんやりと照らしている。


ジーナは公爵の前に座り、姿勢を正した。

その横には、控えるようにアイオンの姿。

昼間の騒動を思えば、まさか同じ空間で落ち着いて話すとは思いもしなかった。


「……妹さんが。随分、辛かったでしょうね」


「悔やみきれない部分もありますが、姪が無事に我が家にいる。それだけでも、救いです」


フォスターは静かに微笑みながらも、その目は試すように細められている。


「賊被害は避けられる事。それを怠ったデオール子爵の罪は重いわ」


「デオールだけの罪ではありません。我が国の根深い問題が起こした事なのです。……責は負ってもらいましたがね」


フォスターの言葉に、ジーナは小さく頷いた。


短い間を置いて、話題は王都の現状へと移っていく。


「新女神教の増長は、もう止められないわ。次期国王争いで更に激しさを増した。……王はまだ健在だというのに、第一王子と第二王子は乗せられて、各地で支持者集めに奔走しているの」


「どちらが上になっても、女神教の支配は続く。……べゼブかルドバかの差でしかないですな」


「どっちの毒が良いか、って聞かれているだけよ。……でも、第一王女が第二王子と結託しているという噂もある。私とリアラは置いてけぼりね。継承順位最下層だし」


やれやれ、といったようにお茶を飲む。

そして、真面目な顔でフォスターを見る。


「……そんな中で、あなたの助力を得るのは非常に大きいわ。女神教に貸しを作らず、移送できる」


「彼への恩をあなたに使うだけです。それに、女神教からも王族からも諸手を上げて喜ばれるでしょう。貧民はお布施を払えません。そんな者たちに土地を与えるより、排除する方が得策――それがあいつらの考えです」


ジーナの瞳は真っすぐフォスターを見据えていた。

言葉ではなく、そのまなざしが本気を伝えていた。


「……だからこそ、そうなる前に新天地へ送る。彼らも、働けるなら働き、家族を得たい、守りたいと思っているわ。そのための場所を、フィギル子爵が用意してくれた」


「……すぐにでも始めましょう。明日、彼らに説明を。明後日から移送を始めます。飛行艇の用意も、明日済ませます。数回の往復で終わるはずです。寝床は悪いですが、我慢してもらう」


「ありがとう、フォスター公爵」


フォスターの目がわずかに細められ、やがて笑みを浮かべる。


「本当に、変わられましたな」


「……あの日の経験が、私に力をくれたの。できる事をする事が大事だって教えられたから」


そう言って、ジーナは横に視線を送った。

アイオンは一瞬だけ目を見開くが、すぐに姿勢を正した。


フォスターはその言葉に静かに頷いた。


「できる事をするのは、実に難しい。この国では尚更……」


「そう。それをずっとやっていたリアラは本当に凄いわ。あの子を知れば知るほど、嫉妬していたのがバカバカしくなったわ」


ジーナの声が静かに響く。

その言葉に、フォスターはゆっくりと立ち上がり、窓の外へ視線を向けた。


「……あの方の母君は、くだらない権力争いの犠牲になった。それ以来、ずっと孤独に戦っていたのでしょう。しかし、その想いも報われた」


ジーナの目がわずかに潤む。

それを拭い、涙を落とさないように上を向いた。


「……兄達も、知るべきなのよ。信念を持って行動する者こそ、人を惹きつける光を放つと。誰かに与えられた器を、自分の物だと誤解してる」


「……それが人の弱さであり、新女神教の闇なのですよ」


「ええ。――でも、いずれ世界は思い知るわ」


ジーナはアイオンを見て微笑んだ。


「真に人を導くのは、甘く囁く戯言ではなく、その背で示す生き様なのだと」


静かな笑みとともに、夜の空気が少しだけ和らいだ。

フォスターはゆっくりと振り返り、アイオンに視線を向ける。


「――同感ですな」


「……誰に向かって言ってるか知りませんが、やるべき事をやるっていうのは同意しますよ」


蝋燭の炎がわずかに揺れ、部屋の空気が穏やかに沈んでいく。

そして夜の静寂の中で――新たな決意だけが、静かに息づいていた。



しばしの沈黙ののち、フォスターが口を開いた。


「……さて。きみは、明日には王都を発つつもりなのだろう?」


「ええ。これ以上は、する事もないですし。冒険者としての依頼もなにもないので、体が鈍ります」


淡々と告げたアイオンの言葉に、ジーナがゆっくりと顔を上げる。

その瞳が驚きに揺れた。


「……もう行くの?」


「ええ。今ここにいるのは、イレギュラーな事なんですよ。本来はもっと遅く到着していたはずですし」


「そんなのどうでもいいわ!」


勢いよく立ち上がるジーナ。

その声には、怒りというより焦りが混じっていた。


「今日会って、明日にはお別れって、そんなの受け入れられないわ!」


「と言われても……あまり滞在を延ばしても、雪が降れば移動しづらくなって、雪解けまで出れなくなる。予定があるというわけではないですが、この街に長居したくはないんですよ」


「いいじゃない!気楽な一人旅で、少しくらい長居したって迷惑はかからないわよ!そうでしょ?フォスター公爵?」


ジーナの言葉が夜の空気を震わせる。

フォスターは静かに二人を見つめ、何も言わずにグラスを置いた。


「――なら」


絞り出すような声。

ジーナの手がテーブルの端をぎゅっと掴んでいた。


「あなたの依頼があれば、ここに残るのよね?」


アイオンは考えて答える。


「……受けるか受けないかの自由は、俺にあります」


「……あなたが本来着く頃には、丁度いい時期だった。あなたを立ち止まらせてしまう事になるけど……」


ジーナの言葉にフォスターが反応する。


「まさか王女殿下……あの試験の護衛役に彼を雇おうと?」


ジーナはゆっくりと頷いた。


「……もうすぐ、王立学園の実地試験があるの」


ジーナはまっすぐアイオンを見据えて言った。

その瞳の奥には、決意と焦りが混ざっている。


「今回の行き先は、パルキノンから少し離れた防衛拠点――バザーム砦よ」


フォスターの眉がわずかに動いた。


「あそこか。直ぐ側に山岳地帯があり、小規模の異民族との最前線。そんな所を選ぶとは……」


「大規模な戦闘はないけど、小規模な戦闘は幾度となくある。将来、人を率いる貴族のいい経験になるだろうって、先生達が決めたみたいなのよ」


フォスターのグラスが静かに揺れる。


「……なるほどな。真っ当な理由だが……行くのは何人です?」


「私を含めて5人。それぞれが護衛を連れてくるわ。……私は、あなたを雇いたいの」


ジーナはアイオンへ視線を向けた。


「その、実地試験っていうのを詳しく教えてください」


「言葉の通り、試験よ。学園の成績上位者が受ける試験。毎年どこかの街や砦に行って、そこで兵士や領主の仕事の手伝いをする。最も優秀な者には、不自由しない進路が与えられるわ」


「ジーナにも必要ですか?それ」


「て、手が届きそうなら掴みたいのよ!」


なぜか焦るジーナ。


(……本気とは思えないな)


アイオンは怪しむ。

面倒な仕事を受けるつもりもなければ、足止めされるのもごめんだった。


「……申し訳ないですが――」


断ろうとした時、突然フォスターの声が遮った。


「――待ちなさい、アイオン」


フォスターの低い声が部屋を制した。

その声音には、単なる助言ではなく“判断”の重みがあった。


「今それを断るのは、得策ではない」

「どういう意味です?」


「今回の実地試験はおそらくだが、王立学園と王家が絡んでる。表向きは教育の一環だが、実際には“王族が前線の兵士を気遣う姿”を示すためのもの。……つまり、王族の宣伝行事だな」


フォスターはグラスを傾け、琥珀色の液体を揺らした。


「実地試験には監察官が同行する。だが、現地の治安は悪い。しかし護衛の名目で軍を動かす事はできん。部族や敵国を刺激するからな。だからこそ――外部の冒険者を使う事を許されている」


「……それで?」


「そういった存在を近くに置くなら、信頼できる者を置きたい。それが、ジーナ王女の本音だろう」


フォスターは視線で合図を送る。

ジーナはその視線に合わせる。


「そ、そうよ!あなたが私の傍にいてくれるなら、安心して試験に臨めるわ!」


「……なるほど。前の"遊行"と似たような物ですか」


フォスターはわずかに笑みを浮かべる。


「悪い話ではないと思うがね。王都を出たいと言っていた君にとっても丁度いい。三日後には雪が降ると言ったが、近隣の街はここと居心地の悪さは変わらん。なら、少し遠出して私見を広めるのもいいと思うが」


「……異民族との争いに加われとでも?」


「それはきみの役目ではない。しかし、なにをするかは、きみの自由さ」


その言葉に、アイオンは息を吐き、椅子の背にもたれた。


「……わかりました。指名依頼としてギルドに出してください。受けに行きますので」


ジーナは嬉しそうに身を乗り出す。


「決まりね! 帰る前にギルドに届けを出すわ!それから移送準備を進めて、暫く往復を終えたら、ゆっくり準備をしましょう!」


「……その砦まで、歩いて行くんですか?」


「まさか!学園の小型飛空艇よ!楽しみね!あなたとの空の旅!」


ジーナは力強く微笑んだ。

そのやりとりを、フォスターは静かに見つめていた。


(……前線への実地試験にそういった思惑があるかはわからんが、彼にそれを知る術はない。結局、納得できる屁理屈が大事なのだよ)


ジーナはアイオンにバレないように、フォスターに親指を立てる。

フォスターもそれに応じる。


――彼には彼の思惑があるのだが、わかるのは少し後。

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