再会は突然に
(どうしてこうなった?)
金髪の美少女に抱きつかれたまま、アイオンは思考する。
周囲には人が多く、逃げる手段もなかった。
「おい、あれ……」「どこの貴族だ?」「学園で見たこともないけど……」「あの格好、平民じゃないか?」
ざわめく声が広がる。
視線が一斉に集まり、冷たい好奇心が肌に刺さる。
だが、少女はまったく気にする様子がなかった。
抱きついたまま、まるで久しぶりに見つけた玩具を離したくない子どものように。
どう考えても……まずかった。
「すみませんが、離れてくれませんか?」
「誰に言っているのか、わからないわね」
少女はアイオンの胸に顔を埋めたまま、くぐもった声で答える。
その金の髪が光を受けて、宝石のように輝いた。
ため息をつき、アイオンはもう一度言う。
「……離れてくれると助かるんですが。第三王女殿下」
「少し会わなかっただけで、私の名前を忘れてしまったのかしら?それじゃあ、聞く耳を持てないわ」
「お願いですから、離れてください。……ジーナ」
名を呼ぶ。
その瞬間、少女の肩がわずかに震えた。
名残惜しそうに離れ、綺麗な顔で笑顔を浮かべる。
「やっと呼んでくれたわね、アイオン」
そして再び胸に飛び込む。
周囲のざわめきも視線も気にせずに。
自分の居場所はここだと、見せつけるように。
##
「いつ王都を発つ?」
フォスターは手元の書類から目を離さずに言った。
その声音には、わずかに惜別の響きがあった。
「すぐにでも。雪がこちらにも降る前に、別の街へ向かいたくて」
「急だな。もう少し滞在していくと思っていたのだが」
「リズの生活も落ち着いたようですし、俺が長くここにいる理由もありません。それに、どうもこの街は落ち着かなくて」
フォスターは小さく笑い、書類を閉じた。
「君らしい答えだ。だが――行く前に頼みがある」
そう言って、机の引き出しから一通の封書を取り出す。
深い青の封蝋には、翼と剣の紋章が刻まれていた。
「これは?」
「王立学園に通うジーナ王女殿下宛ての手紙だ。彼女には、私から正式に伝えねばならないことがある。今後の話のために必要な内容だ」
「……俺に届けろと?」
「そうだ。君に対する恩を、彼女のために使う。そのために必要なことを君に任せるのは本末転倒な気もするが……まあ、これも一つの縁だ」
「……変な話ですね」
アイオンは苦笑し、封書を手に取った。
指先に伝わる蝋の感触が、妙に重く感じられる。
「何が書かれているんです?」
「王都に残っている難民を、フィギル領へ送る。その相談をしたいので、後日私の元へ来てほしい――というだけの手紙だ」
「……その程度の内容なら、俺じゃなくてもいいんじゃ?」
フォスターはわずかに口角を上げた。
「君が渡すことに意味があるんだよ」
アイオンは静かに頷く。
「よくわかりませんが、わかりました」
「頼んだ」
フォスターはそう言って、椅子の背にもたれた。
その表情には、どこか安堵にも似た光があった。
「君と出会ってから、少しだけ――希望というものを思い出したよ」
「買いかぶりすぎです」
「そうかもしれん。だが、希望というのは得てして、そういうものだ」
フォスターは再び視線を窓へと向けた。
王都の風は、静かに、どこまでも冷たかった。
##
二度と歩きたくもなかった王都を進む。
たった一日の探索で全てを知った気になったわけではないが、居心地の悪さは消えなかった。
空気が重い。
人の笑い声はなく、兵士の足音が石畳を軋ませる音が目立つ。
前回、教会方面に進んだのとは逆の方向へ足を向ける。
貴族の屋敷が並ぶ街路を抜けた先に、王立学園があるという。
(貴族の子供たちが通う学校……平民も何人かいるって話だけど、その子らも大商会やギルド関係者の子どもらしい)
事前にカストルから聞いていた学園の概要を思い出しながら、門前へと続く大通りを進む。
通りの両脇には、兵士が一定間隔で立っていた。
視線が鋭く、通る者の身なりをひとりずつ確認している。
(子どもを守るためか……それでも多すぎるだろ……)
吐く息が白い。
王都の風は冷たく、どこまでも張り詰めている。
学園の外壁が見えてきた。
白い石造りの高い塀が、まるで神殿のように整然と続いている。
(……さっさと終わらせて、ここを出る準備をしよう)
アイオンは小さく息を吐き、懐の中にしまった封書の重みを確かめながら歩き出した。
##
学園の正門前には、黒鉄の門と二体の石像が並び立っていた。
門の内側には広い庭園が見え、整えられた樹木の影が静かに揺れている。
門番の兵士が二人、槍を手に無言で立っていた。
一人がアイオンの姿に気づき、警戒を露わに声をかける。
「止まれ。ここは学園。関係者以外は立入禁止だ」
「手紙を届けに来ました。自分はアイオンといいます。フォスター公爵から、ジーナ王女殿下宛てです」
名を出した瞬間、兵士たちの目の色が変わった。
互いに視線を交わし、小声で何かを確認する。
「……公爵閣下からだと?」
「はい。封書はこちらに。あと、これを」
手紙と、渡されていた小冊子を見せる。
刻まれた翼と剣の紋章を見て、兵士の一人が眉を上げた。
「たしかにフォスター公爵家の印だ。だが、相手が相手だ。念のため確認を取る。待っていろ」
そう言って一人が学園内へと消える。
残った兵士が、わずかに警戒を解かぬまま立っている。
気まずい時間が進む。
――暫くして。
沈黙を破るように、学園の奥から一人の少女が走って見えた。
こちらに気づき、なお速度を上げる。
後ろからは護衛や教師だろうか?
懐かしい、ジーナの従者の顔も見えた。
しかし本人は、後を追う者たちを振り向きもせず、走ってくる。
「待ってくださいー!」「と、止まってー!」
大声が響き、学園の窓から生徒が顔を出す。
入り口付近にいた生徒たちも、少女が向かう先に視線を送っていた。
金の髪を光に揺らし、懸命に走る姿は見る者すべての視線を奪う。
「ジ、ジーナ王女殿下――!」
兵士が慌てて膝をつく。
だが彼女は構わず、真っすぐアイオンの方へ駆ける。
そして――ためらいもなく、彼の胸に飛び込んだ。
「ちょ、ちょっと!ジーナ様!」
慌てて走ってきた従者のメリアがたしなめるも、声は届いていないようだった。
一斉に波紋が広がる。
その中心に――アイオンとジーナがいる。
(……どうしてこうなった?)
周囲の視線が一斉に集まる。
呆然と立ち尽くすアイオンの耳に、ざわめきと驚きが渦巻いた。
#
「……離れてくれませんか、ジーナ」
「いいじゃない。私が困ることじゃないわ」
ジーナは顔を上げることなく、彼の胸に頬を寄せたまま言う。
その小さな声は、どこか嬉しそうで――そして、少し震えていた。
「この状況は、俺が困ります」
「……私に会うの、嫌だった?」
「そういう話じゃありません」
困り果てたアイオンを、周囲の生徒たちが遠巻きに見ている。
好奇の視線、子どもたちの冷笑、そして――兵士の焦り。
(不敬罪になったら終わる……!)
「王女殿下。これでは誤解を与えます。離れてください!」
アイオンの強い口調にようやく顔を上げたジーナは、わずかに微笑む。
その瞳には、かつてよりも強い光が宿っていた。
「なら、移動しましょう。まだ足りないもの」
「え、いや、ちょっと――」
彼の言葉を遮るように、ジーナはアイオンの手を取った。
驚くほど、その手は力強かった。
「私の客人として入れるよう手配して。文句は受け付けないわ。部屋も借りるから」
教師らしき人に命じ、そのままアイオンを引っ張るようにして歩き出す。
人々は道を開け、生徒たちは息を呑んでその光景を見守った。
「……入っていいんですか?部外者ですよ?」
「王女が招いたのよ。誰も文句は言えないわ」
「強引すぎる……」
「王族は強引なの。知らなかったようね?」
ジーナは振り返り笑った。
その笑顔に、アイオンは何も言えなくなる。
(……半年くらい会わなかっただけで、別人みたいだ)
その成長が、ほんの少し怖くもあった。
金の髪が冬の光を反射して揺れる。
かつての“守られる少女”ではなく、今ここにいるのは――強い少女だった。
#
学園の応接室は、外の喧騒が嘘のように静かだった。
窓から射す冬の光が、白いテーブルの上に淡く伸びている。
ジーナは椅子に腰を下ろし、飲み物を出した侍女メリアに一言だけ告げる。
「下がっていいわ。二人にしてくれる?」
「……ジーナ様、くれぐれも節度ある行動をとってくださいね?アイオンさんに迷惑がかかりますから」
「わかってるわ!私が襲うみたいに言わないでよ!」
「あれを見た後ですから。――では、失礼します」
メリアは頭を下げ、静かに部屋を出る。
扉が閉じられる音だけが残り、室内に二人きりとなった。
沈黙の中で、アイオンが先に口を開く。
「仲が良さそうでなによりです」
「……あなたのおかげよ。この国で、私の傍にずっといてくれた、大事な人に気づけたのは」
「視野を広げたのはあなたの意思です。俺はなにもしていませんよ」
アイオンは懐から封書を取り出し、テーブルの上に置く。
封蝋の紋章を見て、ジーナの目がかすかに揺れた。
「フォスター公爵からって話よね?」
「はい。直接お渡しするように、と」
ジーナは頷き、慎重に封を切った。
中から一枚の書簡を取り出し、目を通す。
彼女の表情が徐々に変わっていく。
驚きから、思索へ。
そして――決意。
「……これも、あなたが?」
「詳しい内容は知りませんけど、あの人が選んだことですよ」
「どうだか。『アイオンへの恩に報いて、ジーナ様の手助けをする』って書いてあるけど?なにをしたの?」
「いろいろあったんですよ。それで過度に恩を果たそうとしてくれてたんで、なら貧民を助けてるジーナの手助けをしてくれって言ったんです」
ジーナは深く息を吐く。
「……私だけの力じゃないわ。妹が昔からやってたの。炊き出しや生活の手助けを。私は手伝って……土地が余ってるフィギル領地に送っただけ」
その声には、少しの皮肉と悔しさが混じっていた。
「貧民街は見た?あそこは確かに貧しい人で溢れてるけど……この街で唯一“生きている”の。人がね。でも、この街から出ていく術も、居場所もなかったのよ」
「バルナバの外には二百人以上いました。動ける男たちを抜いて、ですけど。あれだけの数が、ここにいたんですか?」
初めてバルナバに着いたときの光景を、アイオンは今も忘れられなかった。
オルババ村以上の人々が、ツギハギだらけのテントで身を寄せ、寒さと空腹に耐えていた。
「大半はそうよ。他領だと、貧民でも多少の仕事はある。でもここだとそれすらない。物乞いをして生きるしか術がない。『新天地まで移送する』って言えば、全員が行きたがったわ」
「それで、残りは何人くらいです?」
「……百人かしらね。でも先遣隊とは違う。ケガや病気で外に出られない人たちが多いの。開拓には役立たない人たちばかりだから、後回しにしたの」
ジーナは顔を背けた。
自分の決断を、知られたくないようだった。
「フィギル子爵と相談して、私が提案したの。動ける者を先に送った方がいいって。それで冬になる前に開拓村が整備できれば、後からすぐに送る予定だったんだけど……」
「……魔物の巣の騒ぎで、予定が遅れた。冬入り前までずれ込んで、移送コストが上がったんですね」
「あなたのことも聞いていたわ。近いうちに王都に来るだろうって。楽しみにしてたけど……会いたくない気持ちもあった。なにもかも、中途半端な状態だから」
肩が震える。
涙を堪えているのがわかった。
「私財を使ってできたのは、中途半端な移住だけ。まだ百人も待っている人たちがいるのに、それを叶えられない。雪が降れば、耐えられない人も出る。私は、彼らに夢を見せただけなのよ……」
「ジーナ……」
しかし、彼女は顔をぬぐい、笑った。
「でも!フォスター公爵からの手紙には、手助けしてくれるって書いてある!もしかしたら、全員生きて移住できるかもしれないの!公爵の飛空艇を使えれば、少しずつでも移動できる!」
そのまま立ち上がり、アイオンに飛びついた。
「あなたのおかげよ!なにをしたのかはわからないけど、またあなたが助けてくれたの!こんなに嬉しいことはないわ!」
「……ジーナの誠実さが伝わったんですよ。俺が多少なにか言ったところで、簡単に動く人じゃないでしょ?あの人」
「相変わらず、謙遜するのね。素直じゃない人……」
ジーナはそのままの勢いで笑い、泣き、そして小さく息をついた。
「……ありがとう。本当に、来てくれて」
「礼を言われるほどのことはしてませんよ。俺はただ、頼まれごとを果たしただけです」
「でも、あなたが運んでくれたのは“手紙”だけじゃないわ。――希望よ」
その言葉に、アイオンは小さく目を伏せた。
彼女の声は震えていたが、そこに迷いはなかった。
「それに……私へのご褒美みたいよ」
「……なにもプレゼントはないですけど」
ジーナは涙を拭き、アイオンの目をまっすぐに見つめる。
「あなた、私に会わずにどこかに行く気だったのよね?言ったわよね、“王都に来たら会いに来てね”って」
「……暇じゃなかったんですよ。それに、簡単に会える身分じゃないでしょ?」
アイオンは顔を背ける。
しかし、ジーナの両手がそれを許さない。
「会うわよ。あなたが来てくれるなら、絶対に」
「……賊の件、あなたが公爵と子爵に説明したって聞きましたよ。約束を破ったのはどちらですかね?」
ハッとして、ジーナは慌てて離れる。
「ち、違うわ!話したのはあなたに助けられたってことだけ!ヒュドラも賊も倒してくれたって!でも、それだけよ?あのことは誰にも言ってないわ!」
「そのことは言われませんでしたけど……それも黙っててほしかったですね」
「だって……」
ジーナは頬を膨らませる。
「誰かに、知ってほしかったのよ。私を助けたのはあなただって。フォスター家の人は信用できるし、フィギル子爵はあなたを疑ってたから許せなくて……悪い!?」
その顔に、思わず笑ってしまった。
アイオンは小さく笑い返す。
「なら、お互い様ということで」
「……それだけ?」
「それ以外になにかあります?」
「相変わらず、人の気持ちがわからない人ね!!」
ジーナは声を上げた。
その声に釣られるように、アイオンも笑う。
冬の光が窓辺を照らし、二人の笑顔を静かに包んでいた。




