火を灯す
フォスター邸に戻る頃には、日はすでに沈みかけていた。
門を抜けると、執事のカストルが静かに頭を下げる。
「お帰りなさいませ。パルキノンはいかがでしたか?」
「想像以上でした」
アイオンは苦笑しながら靴の泥を拭う。
白い街の匂いとは違い、屋敷の空気にはどこか温かみがあった。
灯りが柔らかく揺れ、廊下に伸びる影までも穏やかに見える。
食堂に案内されると、長いテーブルの中央に一人分だけの食事が整えられていた。
リズの姿はない。
「リズは?」
尋ねると、カストルはわずかに視線を伏せる。
「セレナ様と共に過ごしておられます。……あの方はまだ部屋から出られませんが、長くお一人で食事をされていると知ったリズ様が、自ら『一緒にいたい』と」
その言葉に、アイオンは小さく息をついた。
「そうですか。……良かった。
ここの人たちが味方だと伝えても、あの子自身が信じられるとは限りません。
でも、自分から何かをしたいと思えたなら――もう、大丈夫ですね」
「……肩の荷が下りましたか?」
「ええ。あなたのおかげで」
「いつ、旅立たれますか?」
カストルの問いに、迷いはなかった。
彼は分かっていたのだ。
アイオンが、いつまでもここにはいられないことを。
「すぐにでも。……この街には、本来十日以上かけて来る予定でした。
その道中で街や村に立ち寄って、女神教や貴族のことを少しでも知っていれば――
もう少し、理解した上で入って来られたかもしれません。
ですが……この街の腐臭は、酷すぎた。
俺には、耐えきれないほどに」
「……女神信仰者であればあるほど、そう感じるでしょうね」
「間違っても、俺は信者じゃありませんよ。
でも――こんな街なら、見せたくなかったと思ってしまったんです」
「リズ様に、ですか?」
「いえ。……こちらの事情です」
カストルは不思議そうに顎に指を添え、少し思案する。
「旦那様は今夜、お戻りになります。
改めてお話をしたいとのことでした」
「わかりました。
いろいろと気を遣ってくれて、ありがとうございます。……カストルさん」
カストルは微笑み姿を消した。
一人残された部屋で、食事をする。
(長テーブルに一人は……寂しいな)
少し笑えた。
寂しさを想うほど、他人と関わってたんだと改めて思い知ったから。
#
割り当てられた部屋に戻る。
フォスターが戻るまで、少し時間が空いてしまった。
しかし、やることはない。
なにかないかと部屋を眺めてみるが――
都合よく見つかるものなど、あるはずもない。
夕食後の屋敷は静まり返り、 人の気配も、暖炉の火の音も遠い。
(……カストルさんに本でも借りようか)
そんなことを考えて立ち上がりかけた時、ノックもなく扉がそっと開いた。
そこに立っていたのは、リズだった。
小さな手でドアの取っ手を握りしめ、少しだけ首を傾けてこちらを見ている。
「ただいま、リズ」
声をかけると、リズは小さく唇を結んだ。
「……ごめんなさい」
「え?」
リズは小さくうつむいて、か細い声で続けた。
「……セレナさんとごはん食べてたの。アイオンを……ひとりにしちゃった」
その言葉の幼さが、あまりに真っ直ぐで、
アイオンは思わず笑ってしまう。
「怒ってないよ」
穏やかに言いながら、彼は軽く膝を折ってリズと目線を合わせた。
「リズがいてくれて、セレナさんも嬉しかったと思う」
「ほんとに?」
「ほんとだよ。リズにしかできないことだ」
リズはほっとしたように息をつく。
その肩がわずかに緩むのを見て、アイオンは心の奥に温かいものを感じた。
――この子は、もう“守られるだけ”の存在じゃない。
そう思った瞬間だった。
「……ねぇ、アイオン」
「ん?」
「……どっか行っちゃうの?」
その問いは、まるで息をするように自然で、それゆえに逃げ場がなかった。
アイオンは少しだけ言葉を失い、やがて小さく息を吐いた。
「……そうだね。旅に出るよ」
リズの瞳が揺れる。
幼い光が不安に染まる。
「やだ」
リズは小さく首を振る。
その仕草が切なくて、アイオンは彼女の頭に手を置いた。
「やだ、か」
「ずっと、ここにいればいいのに」
「それはできないんだ。俺には、やりたいことがあるから」
「……やらなきゃいけないの?」
「うん。俺は、そのために村を出たからね」
リズはしばらく黙って、小さな唇をぎゅっと結んだ。
部屋の空気が静まる。
窓の外では夜風がカーテンをわずかに揺らし、ランプの灯りが影を揺らしていた。
「……リズは、強い子だよ」
その言葉に、リズは顔を上げた。
瞳が涙で滲み、光を受けて小さく震えている。
アイオンはやさしく微笑んだ。
その笑みには、少しの哀しさと誇りが混ざっていた。
「俺ができるのは、ここまで。 でも――これで終わりじゃない。きっと、また会える」
「……ほんとに?」
「本当だよ。だから、約束」
アイオンは指を立ててみせる。
リズは少し戸惑ったように――でも決心したように、小さな手を重ね、そっと指切りをした。
「……うん。やくそく」
その瞬間だけ、世界が静かに止まったように感じた。
リズの笑顔が灯りに揺れ、影が二つ、床に並んで伸びていく。
そして――
その笑みがやわらかく滲み、夜の静けさに溶けていった。
#
夜が更けるころ、邸の灯りは一層静かに沈んでいた。
廊下を照らす燭の光が、わずかに揺れては戻る。
その先にある応接間の扉が、控えめにノックされた。
「入れ」
フォスターの声は、低くも温かかった。
扉を開けると、彼は窓辺に立っていた。
外の闇を背に、グラスを片手にしている。
机の上には開かれた地図と数通の封書――政治の重みを感じさせる光景だった。
「遅い時間にすまないな。……座ってくれ」
「いえ。こちらこそ、お呼びいただきありがとうございます」
アイオンは一礼し、対面の椅子に腰を下ろす。
フォスターはしばらく沈黙したまま、窓の外に視線を向けていた。
やがて、静かに息を吐く。
「この街を見て、どう思った?」
アイオンはわずかに眉を寄せた。
――問われることは、わかっていた。
「……自分には、合わない街ですね。二度と来たくないです」
フォスターはわずかに笑みを浮かべ、ゆっくりと頷く。
「正直でいい。最近のこの街は――いや、この国は、以前よりも酷くなった。私が子どもの頃は、まだまともだったんだがな」
「原因があるんですか?」
「新女神教の増長だ。いや、正確には“権力争い”だな。教会の上層部で、次期国王をめぐって教皇と枢機卿が対立している」
フォスターは苦々しげにワインを飲んだ。
琥珀色の液が、蝋燭の光を受けてわずかに揺れる。
アイオンは察して問いを続ける。
「……つまり、互いに別の人物を王に立てようとしている?」
「察しがいいな。教皇ベゼブは第一王子を、枢機卿ルドバは第二王子を推している。人格的には第二王子の方がまだましだが、勢力は圧倒的に第一王子が優勢だ」
「その差を埋めるために、枢機卿派が金を集め始めた……そういうことですか?」
「その通りだ。お布施を増やすため、各地の教会に“強化命令”が出た。……他領から来る旅行者にも献金を求めるようになってな。それがこの街にも広がった結果、外から人が来なくなった」
「なるほど。商店に外の客がいない理由が、それですね。呼び込みも少なくて、街が死んで見えました」
「側に教会関係者がいたのを見ただろう? あれは“即座に献金を受け取るため”だ。信者の多くは元々女神教徒だが……干上がるのも当然だ」
フォスターは吐息を漏らし、ワイングラスを置いた。
その音が静かな部屋に小さく響く。
「次期国王争いで、王都が死ぬ。滑稽な話だよ」
「……貧民街にも入りました。あそこの方が、生きてる気配を感じましたよ」
フォスターは目を細める。
「ジーナ王女が相当数をフィギルの下に送ったが、まだ半数と言ったところだ。冬に入ってしまい、移送のコストが上がってな。彼らには気の毒だが……再開するのは春になってからだ」
「……それまでに、開拓村をもうひとつ作り終えられれば良いですけど」
「その心配はない。スパールの街は、フィギルの領地になることが決まった。あそこに住ませることになるだろう」
さらりととんでもない発言を聞いてしまった気がした。
「……デオール子爵では管理しきれない土地を、取り上げたんですね」
「既に王にも、ベゼブにも納得させた。奴らは私と争うことを良しとはしない。私の機嫌を取り続けなければ、他国に領地ごと寝返られると思っているからな」
フォスターは淡々と語るが、その裏に冷たい計算が見えた。
その静けさが、むしろ恐ろしいほどに。
アイオンは少し間を置いてから、低く問う。
「……ひとつ、疑問だったのですが。なぜ、この国に居続けるんですか?」
フォスターはゆっくりと視線を戻した。
その瞳には、夜の炎が揺れている。
「――簡単な話だ。この国を見捨てるのは、あまりに惜しい」
「惜しい、ですか?」
「私は生まれも育ちもこの国だ。腐った貴族や教会に腹は立つが……それでも、この土地の人間は悪くない。生きようとする者がいる限り、まだ終わってはいない」
フォスターは再びグラスを手に取り、ゆっくりと赤い液体を回す。
「国外へ出ることも考えた。だが、外の国々も同じだ。信仰が違うだけで、搾取の形が変わる。
ならば、私はここで抗う方を選ぶ」
「……命を懸けて、ですか」
「命など、とうに国に取られている。残っているのは、意地だよ」
アイオンは言葉を失った。
フォスターの声音は静かだが、その奥に確かな熱があった。
「国を変えることは、命を懸けるほどの価値がありますか?」
フォスターは少しだけ目を細め、まるで少年を見るような目でアイオンを見つめた。
「あるさ。少なくとも私は、そう信じたい。
それに……誰かがやらなければ、この国は“信仰”という名の牢獄に閉じ込められたままだ」
アイオンは深く息を吸い、胸の奥に渦巻くものを静めるように答える。
「……信仰が牢獄、ですか」
「信仰そのものが悪ではない。だが、女神の名を掲げる者が己の欲に溺れれば、それはただの鎖になる。この国は、信仰に縛られ続けて思考を失った」
フォスターはグラスを置き、両手を組んだ。
蝋燭の炎がその手元を照らし、影が壁に滲む。
「だから私は、待っている。鎖を断ち切る者を。
――信仰にも、権力にも、縛られない人間を」
「……そんな人が、本当にいるんでしょうか」
「少なくとも、目の前には一人いるようだが?」
フォスターの口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
アイオンは短く息を止め、その真意を探るように彼を見返す。
「……俺は俺の基準で生きていたい。それだけです」
「そう言える者は、この国にはそういないよ。……旧女神教くらいのものだ」
静かな沈黙が落ちた。
遠くで風が窓を叩き、邸の中に微かな響きが広がっていく。
フォスターは立ち上がり、背を向けたまま窓の外を見やった。
「私は女神と違い、この国を見限ってはいない。
だが、希望を託せる人間がどれほど残っているか……それを確かめるために、生きているのかもしれん」
「――その答え、いつか見つかるといいですね」
フォスターは静かに笑った。
#
「さて……本題に入る。きみは何がほしい?」
フォスターの問いに、アイオンは少しだけ目を伏せた。
言葉を探すように、短い沈黙が落ちる。
「……何も、ありませんね」
「ない?」
「はい。あの子を大事に育ててくれる。それだけが望みでしたが……お願いするまでもないようなので」
フォスターは少し目を細めた。
その仕草は驚きではなく、どこか納得したようでもあった。
「金も地位も、名もいらないと?」
「いりませんね。欲しいものは自分で手に入れますし、地位や名は動きづらくなる」
蝋燭の炎が静かに揺れる。
フォスターはグラスを指先で転がしながら、その言葉を噛みしめるように聞いていた。
「……それでは私の気が済まないのだが」
「――なら、ジーナ王女の手助けをしてください。彼女は彼女なりに考えて、この街の民を救おうとしてる。……フィギル子爵は信念のある人です。あの人の領地が栄えれば、結果的に国のためになる。
王や女神教も黙らせるあなたがいれば、彼らもやりやすくなるはずです」
「……陰ながらフォローはしてきたが、表立ってするべきだと?」
「この国を憂いている人はあなただけではないはずです。しかし、手を貸してくれる人がいないから、声を上げられない。簡単に潰されてしまうのを恐れる。……あなたは敵だらけでも平気でしょうけどね」
フォスターの声は、わずかに低くなった。
後悔と寂しさが混じっている。
「……確かにな。私は、私と家族と領民を守るために、一人で戦ってきた。味方は多少いるが、仲間はいない」
フォスターはしばらく黙っていた。
蝋燭の光が揺れ、グラスの中で赤い液がゆるやかに波打つ。
「仲間、か……」
低くつぶやいたその声には、わずかな苦笑が混じっていた。
「忘れていた言葉だな。
かつてはそう呼べる者もいたが、今はいない。
立場が上がれば上がるほど、背を預ける相手は減っていく」
「けれど、立場が上がるほど、必要になるものですよ。味方ではなく、仲間が」
フォスターは少しだけ目を細めた。
その瞳に、一瞬だけ炎の色が映る。
「……立ち上がる時がいずれ来る。そう言って私は座り続けてきた」
「急に動くのは体に悪いですよ。ゆっくり立ち上がってください」
フォスターは短く息を吐き、笑った。
それは皮肉でも威圧でもなく、ほんの少し柔らかい笑みだった。
「……まったく、君のような人間は厄介だ」
フォスターは立ち上がり、グラスを手に取った。
窓の外を見ながら、ひと口だけ静かに飲む。
「だが、嫌いではない。
この国には、そういう厄介者がもっと必要だ。
……誰かの心に火を灯す者が」
アイオンは立ち上がる。
「責任は取りませんよ。決めるのは結局、あなた自身ですから」
「旧女神教は厳しいな。だが、それが正しい。人の世は、己の意思で決めるべきだ」
フォスターはそう言って、ワインを飲み干した。
「……きみの言葉、覚えておこう。ジーナ王女の件も、然るべき形で動かしておく。礼として、そう約束しよう」
「ありがとうございます」
「それと――」
フォスターはゆっくりと振り返る。
その表情は穏やかだが、言葉には確かな重みがあった。
「いつか、私が力を必要とする日が来たら、その時は手を貸してもらおう」
「その時まで、俺が生きていられたらいいですよ」
「死なんよ。……女神がそれを許さないだろう?」
「……どういう意味です?」
「そう思っただけだ。きみはおそらく――女神が遣わした者だろう、とな」
「……まさか。俺はただの人間ですよ」
フォスターは小さく息を呑み、静かに頷いた。
「そうだな。神託は降りていない。
しかし、私にとっては――そうだと言っておこう」
「……恥ずかしいので、他人には言わないでくださいね」
静かに部屋を出るアイオン。
フォスターはその背を見送り、満足げに笑った。




