アルテア
朝の光が、厚手のカーテンの隙間から細く差し込んでいた。
そんな中――。
「いかないで」
掴まれた袖が小さく震えている。
アイオンは苦笑して、しゃがみ込み、目線を合わせた。
「すぐ戻る。約束するよ」
「やだ。……アイオンがいないと、やだ」
幼い拗ね方ではない。
恐怖と記憶が絡んだ、切実な拒絶だった。
「でも、リズは教会には行けないだろ? それに、ここの人たちは怖くない。リズを傷つける人はいないよ」
「……でも……やだよ」
「リズ……」
どう言葉を続けるべきか迷う優しさが滲む。
リズの掴む指先が強まった。
「……こわい」
アイオンはゆっくりと、袖を掴む手の上に自分の手を重ねる。
「大丈夫。大丈夫だよリズ」
ノックがあり、扉の向こうからカストルの落ち着いた声。
「失礼いたします」
入ってきた彼は、二人の空気を一瞥し、静かに微笑む。リズの目線に合わせて、わずかに膝を折った。
「リズ様。良ければ、私たちのお手伝いをしていただけませんか?」
「……お手伝い?」
「ええ。おそらく……リズ様しかできない事なのです」
リズが首を傾げる。
カストルは少しだけ表情を和らげ、静かに語り出した。
「実は――この屋敷には、旦那様の娘であるセレナ様が共に住んでおられます」
「リズの従姉妹……ですか?」とアイオン。
「はい。けれど、心に深い傷を負い……他人に会うことも、屋敷から出ることも拒絶しておられます。ですから、お世話をするのはごく少数の、親しい者たちに限られています」
リズは黙って聞いていた。
「……セレナ様は、かつて奴隷商人に攫われ、他国へ売られるところでした。それを阻止し、救出したのがフィギル子爵です。その縁で、子爵と旦那様は懇意になる間柄になりました」
カストルの声には、安堵と哀惜が混ざっていた。
#
カストルの案内に続き、二人は歩く。
廊下の空気はひんやりとして、音が吸い込まれるように静かだった。
「……この先です。申し訳ありません。アイオンさんはここでお待ちください」
「……わかりました」
歩みを止める。
リズは不安そうにアイオンを見るが、カストルに優しく手を引かれ、恐る恐る進んだ。
離れた部屋の前でカストルが立ち止まり、軽く扉を叩く。
「セレナ様。カストルでございます」
返事はない。構わず続ける。
「オリビア様のお子様、リズ様が来られました。ぜひセレナ様を紹介したいと思いまして」
やはり返事はない。だが、扉の向こうに気配を感じた。カストルはリズの背中を押し、微笑む。
「……あの、こんにちは」
短い間のあと、かすかな声が返る。
「……リズ、なの?」
リズは少し驚いたように瞬きをし、静かに答えた。
「……リズです」
沈黙。ドアがそっと開く。覗き込むような視線が、リズを見る。
「……おっきくなったわね」
「……」
「覚えて…ないわよね」
セレナの声は震えていた。
カストルが自然に口を挟む。
「長い間、お会いできませんでしたから」
扉の隙間から淡い光が漏れていた。
薄い夜着姿のセレナが、わずかに顔を出す。
髪はリズと同じ薄紫色だが、光を失ったようにくすんで見えた。
その目が、まっすぐにリズを見つめる。
「……おっきくなったわね。良かったら――入る?」
リズは小さく頷く。
戸惑いを隠せないまま、それでも足を踏み入れた。
部屋の中は静かで、外の空気とはまるで別世界だった。
分厚いカーテンに遮られ、朝の光は一筋も届かない。
机の上には小さな花瓶と、花が一輪。
セレナはその花の前に立ち、そっと振り返る。
「この花ね、フィギル様から届いたの」
「フィギル……?」
リズが聞き返すと、セレナはかすかに笑う。
「そう。私を助けてくれた人――」
言葉の奥に、複雑な痛みが滲む。
セレナの瞳が少しだけ柔らいだ。
「……小さい頃のリズは、泣き虫だったのよ」
「そう……なの?」
「ええ。オリビア様の腕にしがみついて、誰が呼んでも離れなかった」
リズの唇がわずかに震える。
“母の記憶”が、形を持って迫ってくる。
途端に体が震え始めた。
父と母の最後の姿が、嫌でも胸を刺す。
セレナはゆっくり近づき、手を伸ばす。
震える指先が、リズの髪をそっと撫でた。
「……大丈夫」
リズはその言葉に、息を詰める。
瞬きの間に、頬を一筋の涙が伝った。
「……」
「いいのよ」
セレナは微笑みながら、涙を拭ってやる。
扉の外。アイオンは静かに立ち尽くしていた。
部屋から漏れる微かな声と、笑いのような吐息。
それを聞いているうちに、胸の奥がじんわりと熱を帯びる。
#
(……大丈夫そうだな)
そのまま静かに廊下の窓へと歩き、差し込む光の中に目を細めた。
少し離れた場所からでも――確かに、あの部屋には“温もり”が戻っていた。
扉が静かに開き、カストルが姿を現す。
「互いに傷は深い――。ですが、互いにしか癒やせないものがある。後は二人に任せましょう」
「……そうですね」
カストルが胸ポケットから黒革の小冊子を取り出す。表紙には翼と剣の紋章――フォスター家の印章が箔押しされていた。
「王都中央区は常に兵士が見回っています。こちらをお持ちください。兵士や神官に提示すれば、フォスター家の客人だとわかるので。……神官には、逆効果ですが」
「助かります」
「ただしご注意を。長居は禁物です。用件は手早く、視線は下げすぎず、上げすぎず。……それでも危ういと感じたら、ためらわず退いてください」
カストルの瞳は穏やかだが、芯は硬い。
心の底から案じているのが伝わる。
「まるで戦場みたいに言うんですね」
アイオンは小さく笑った。
「行ってきます」
「……いってらっしゃいませ」
カストルは短く頭を下げた。その仕草には、敬意と祈りが込められていた。
#
玄関前の回廊を抜けると、朝の王都は冷たく澄んでいた。白い石畳は磨かれ、通りの両端には金の蝶をあしらった旗が掛かる。
人影は薄く、声すらも風に吸い込まれていく。
(……朝から不気味な街だ)
踏み出した靴音が、やけに響いた。すぐ近くで見回りの兵士が足を止める。
アイオンは慌てずに、小冊子を取り出した。
翼と剣の箔が、朝陽を受けて淡く光を返す。
兵士は一瞥しただけで無言のまま通り過ぎた。
(さっさと用件を済ませよう)
息を整え、中央区の街路へと足を進める。
建物はどれも整いすぎていて、同じ顔をしている。看板もなく、道案内の札もない。
(……女神の目か)
歩くたび、背後から視線を感じる。
振り返っても誰もいない――それでも確かに“見られている”気配。
やがて分かれ道に出た。
(くそ……どっちだ?)
近くの兵士に声をかける。
「すみません、教会は――」
言い終える前に、兵士は無言で踵を返した。
まるで“聞こえなかった”ふりをするように。
(……あからさまだな)
額を押さえてため息をつく。
もう一人、今度は別の通りを歩く兵士に近づく。
「教会への道を教えてほしいんですが」
男は眉ひとつ動かない。
「……あの建物だ」
ぶっきらぼうに指をさす。
それだけ言い残し、すぐに歩き去った。
(……教えてくれただけ、良い人に思える)
石畳に視線を落としながら、再び歩き出す。
遠くに見える尖塔の影――白い光の中で、空を突くように立っていた。
(あれが……教会か)
角を曲がると、正面に巨大な建造物。
純白の壁に柱、そして中央には金色の蝶。
近づくほどに空気が重くなる。
肌を撫でる風が、どこか冷たい。
(……やっと見つけた)
意を決して扉を押すと、香の匂いが押し寄せた。
甘く、けれどどこか鉄のような匂い――鼻の奥に刺さる。
視界が白く満ちる。
朝だというのに、礼拝堂の中は人で溢れていた。
整然と並ぶのは、絹や金糸を纏った貴族ばかり。
彼らは一心に祈りを捧げている。
けれど、その祈りの先にあるのは――女神像ではなかった。
祭壇の上に掲げられた、ひとりの女の肖像。
柔らかな微笑を浮かべるその女は、豪奢な冠と純白の衣を纏い、背後に光輪を背負っていた。
「教皇ベゼブ猊下に光の導きを」
「その御言葉こそ、女神の意志」
祈りの声が重なり合い、天井を震わせる。
その下で、金と宝石に飾られた女神像はただ沈黙していた。
まるで“従者”のように、肖像の影に隠れて。
アイオンは視線を逸らせずにいた。
紅玉をはめた瞳、金で縁取られた口元――それは神ではなく、虚飾そのもの。
(……これが、こいつらの中のクソ女神か?)
オルババ村の女神像を思い出す。
レアとベティが毎日磨き、綺麗にしていた女神像は、質素で飾り気はない物だった。
それでも、微笑んでいた。
祈りを受け止めるように。
今、目の前にあるのは――見下ろす女神。
温もりも、慈悲も感じない。
ただ“権力の道具”を象徴する像。
祭壇の横に立つ神官が、詠唱を始めた。
「神は沈黙し、声は教皇に降る」
「光は選ばれし者のみに届く」
「疑う者は、闇と共に滅ぶ」
アイオンの手が、自然と拳を作っていた。
(……教義なんて聞かなくてもわかるな)
祈りの列の奥で、金の杯が回されていた。
香りは高価な葡萄酒そのもの。
貴婦人が笑い、男たちは互いの胸飾りを見比べている。
誰がどれほど多くの“献金”をしたか――それが、この場の敬虔さを決めるらしい。
(……なるほど。金で信仰を買うのか)
祭壇脇の布告板には、最近の“寄進者”の名が刻まれていた。
大半の名前は知らないが、わかる名が大きく刻まれている。
この王の名が、はっきりと。
「献金額により祈りの座を定める」
「光は順序正しく降る」
刻まれた文句に、アイオンの胸が冷たくなる。
ふと、祭壇の下で一人の老人が神官にすがっていた。
擦り切れた外套、震える手。何かを訴えている――だが、神官は薄く笑う。
「布施を持たぬ者は、神の家に入る資格がない」
老人を押しのける。
倒れた拍子に杯が割れ、金酒が床に散った。
だが誰も助けない。
むしろ、足元を汚された貴族が眉をひそめただけだった。
(……腐ってる)
呟きそうになり、唇を噛む。
ここでは、言葉ひとつが刃になる。
――それでも、胸の奥が焼けるように熱かった。
(確か、クソ女神が見捨ててから二百年だったか……。それだけあれば、こうなるか)
思いとは裏腹に、拳が震えていた。
その時――。
「そこの者」
唐突に声が飛んだ。
顔を上げると、祭壇脇に立つ神官の一人がこちらを見ていた。
白金の法衣に金糸の刺繍。瞳は冷たく、笑みだけが貼りついている。
「布施をお忘れですか?」
「……布施?」
「はい。女神の恩寵を受けるための奉納です」
神官は歩み寄り、掌を差し出す。
指先には金粉が塗られ、香の匂いが濃くまとわりついていた。
「あまりお持ちでない? では、いくらでもよろしい」
「……払う気はないですね」
淡々と返す。神官の笑みが、一瞬だけ固まった。
「どういう意味ですか?」
「祈ることが目的ではないので。それに、用はもう済みました。あなた方の手を煩わせることはないです」
周囲の空気がぴり、と張りつめる。
祈っていた貴族たちが振り向き、さざ波のようなざわめきが広がった。
神官は表情を歪め、声を低くする。
「ここは聖域です。布施なき者が踏み入るなど――」
言いかけたそのとき、アイオンが懐から小冊子を取り出した。
黒革の表紙、翼と剣の箔押し。
フォスター家の印章が、光を受けて微かに輝く。
神官の顔色が変わる。
先ほどまでの威圧は影も形もなく、汗が一筋こめかみを伝った。
「……失礼を。存じ上げず……」
「いえ、ご迷惑をお掛けしました」
アイオンは冊子を仕舞い、淡々と答える。
神官は深く頭を下げたまま動かない。
周囲の貴族たちも、空気を読むように目を逸らした。
(……権力の奴隷、か)
この国で本当に神とされているのは――金と権力。女神の名は、その隠れ蓑にすぎない。
「お布施は……不要でございます。どうぞ、どうぞ中へ。ゆっくりと」
「結構です。失礼します」
アイオンは軽く頭を下げ、反応を確認することなく出口へ向かう――その途中。
「――あなたには、どう見えますか?」
澄んだ声が背後から響いた。
足が止まる。
声は穏やかだが、空気を震わせるような響きを持っていた。
ゆっくりと振り返る。
祭壇の脇、帷の影に――少女が立っていた。
銀灰の髪が光を受けて揺れる。
瞳は淡い蒼。
まっすぐにこちらを見据えている。
そのまま少女は静かに近づいてくる。
一歩、また一歩。
――目が離せなかった。
白い衣がふわりと揺れるたび、空気が変わる。
それに呼応するように、礼拝堂の喧騒が遠のいていく。
気づけば――周囲の音が消えていた。
祈りの声も、足音も。
光だけが残り、すべての色が薄れていく。
「……これは?」
少女の声がかすれた。驚いている。
それは演技ではなく、心の底からの反応だった。
「……お前にも見えてるのか?」
「見えてる……というより、色が消えていく……」
彼女の瞳に、微かな恐れが宿る。
同時に、アイオンも胸の奥がざわつくのを感じた。
礼拝堂の柱が、床が、溶けるように白に染まっていく。
目を開けていても、何も見えない。
それでも――確かに“ここ”に誰かがいる」
「おい、何をした?」
「これは……呼ばれている?」
話は噛み合わない。
だが、同じ何かを見ている――そんな確信だけが残る。
(ここは……クソ女神の空間? なら、呼んだのは――)
次の瞬間、白の光が一層強まった。
視界を貫く閃光。
風も音もないのに、世界そのものが揺らぐ。
思わず手を伸ばす。
触れた先――少女の体温が、確かにあった。
「……っ」
少女が目を見開く。
その蒼の瞳に、何かが映る。
アイオンの背後に見える“異質な存在の気配”。
それを象徴する――白い蝶が。
「――まさか!」
言いかけた言葉が、光に呑まれて消える。
世界が崩れる音がして、次に瞬きをしたときには――そこはもう、元の礼拝堂だった。
祈りの声が戻り、人のざわめきが満ちる。
少女の息は荒く、地面に手をついている。
白い衣の裾が床に広がり、肩がかすかに震えていた。
アイオンは警戒を解かずに一歩近づく。
「大丈夫か?」
少女は顔を上げ、息を整えようとする。
その瞳には、恐れと混乱と、なにかが残っていた。
「……今の、あなたが?」
「違う。俺にもわけがわからない」
「そうなの……」
沈黙が流れる。
そんな空気でも、神官も信者たちも近寄っては来なかった。
すでに彼らは、アイオンがフォスター家の関係者だと知っている。
反女神教であるレオ・フォスター公爵の知り合いに、好き好んで関わる者はここにはいない。
神官たちも、少女の身を案じることはなかった。
なにもないかのように、祈りを“監視”している。
「――なぜ、そんなに魂が綺麗なのか、わかったわ」
少女が呟く。意味がわからず、アイオンは尋ねる。
「……どういう意味だ?」
「二百年ぶりに、現れたということなのね。――"御使様"が」
アイオンは言葉を返せなかった。
(こ、こいつ! クソ女神の存在に気づいた!?)
少女はゆっくりと立ち上がり、衣の裾を整える。
そして、再びまっすぐな目でアイオンを見る。
「あなた、名前は?」
「……アイオン」
誤魔化せなかった。
なぜかはわからないが、してはいけないと思った。
「アイオン……」
その名を一度、確かめるように口にしてから――少女はほんの僅かに微笑む。
「私は……アルテア」
「……アルテア」
互いに名前を知り、呟く。
まるで、魂に刻むかのように。
「――また、会いましょう。アイオン」
アルテアは微かに笑った。
それは人間らしい温度を持つ笑みだった。
白い光が、二人の間をやさしく包む。
触れようとすれば、届きそうで――届かない距離。
そのわずかな間に、確かなものが残った。
言葉でも、記憶でもない。
ただ“互いを知った”という実感だけが、胸に灯る。
「……ああ」
短く、息のように答える。
彼女は静かに背を向け、歩み去った。
ただ、温もりの残る空気が、名残惜しげに揺れていた。
(……また、会う)
その言葉が、胸の奥に静かに沈んでいく。
消えぬ余韻だけを残して――。




