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生き方

フォスター公爵邸の応接間は、冬の陽を静かに受けていた。

白い壁に掲げられた翼と剣の紋章が、柔らかな光を返す。息をすれば、澄んだ空気の香りが胸に落ちた。


フォスターは椅子の背に手を置き、ゆるやかな動作でアイオンたちへと視線を向ける。


「ようこそ、フォスター家へ。――そして、よく無事でいてくれたな」


その声音は低く穏やかだったが、言葉の端々に確かな威厳が滲む。彼の目はまっすぐにリズを捉えていた。


リズは怯えたように息をのむ。だが、隣にいるアイオンの手の温もりを感じ、わずかに前へ出た。


「……はじめまして」


「さすがに覚えていないか。小さい頃は、ここに住んでいたんだがな。オリビアの兄――レオだ」


リズの指先が小さく震えた。フォスターはその様子に穏やかに微笑んだが、抱き締めることはしなかった。ただ、片膝をつき、視線の高さを合わせる。


「無理に思い出さなくていい。だが、ここは確かにきみの家になる。二人の代わりにはなれないが……我々はきみを歓迎する」


フォスターの言葉に、使用人やカストルが静かに頭を下げた。リズは恐る恐る頷き、そしてぽつりと呟く。


「……おじさん」


フォスターの表情に、かすかな安堵が差した。



しばしの静寂が落ちる。フォスターはゆっくりと立ち上がり、アイオンの方へ向き直った。


「――さて。きみがリズを守ってくれたと聞いた。感謝する」


「ただの偶然です。それと、これを……」


アイオンは、亡くなったリズの両親の遺髪を取り出し、恭しく差し出す。


「亡骸は、その場で供養しました。これしか残せず、申し訳ありません」


「いや――十分だ」


フォスターの灰色の瞳が、わずかに柔らいだ光を宿す。


少し間を置いて、メリッサが一歩進み出る。手にした特別ギルド員のカードを掲げ、丁寧に頭を下げた。


「王都ギルド特別職、メリッサです。この度は誠に申し訳ありません。まずは謝罪を申し上げます」


「……そちらの責任ではないだろう?」


「いえ。それも、これからお話しする内容次第です。お聞きになれば、公爵様のご判断も変わるかもしれません」


フォスターはわずかに目を細めた。警戒というより、静かな興味を湛えた眼差しだった。


「――こちらをどうぞ」


カストルが飲み物を運び入れる。いつの間にか、他の使用人たちの姿は消えていた。残されたのは、フォスター、カストル、アイオン、リズ、そしてメリッサ。五人だけの静かな空間だった。


フォスターは椅子に腰を下ろし、卓上の茶器に目をやる。湯気がゆるやかに立ちのぼり、淡い香りが室内に溶けていった。


「まずは、少し話をしようか」


その低く落ち着いた声だけで、場の空気が自然と静まり返る。


「“彼女”から、きみのことは聞いている」


フォスターの視線が、まっすぐアイオンへと向けられた。射抜くような鋭さではない。だが、目を逸らせば礼を欠く――そう感じさせる確かな力があった。


「“例の事件”で、きみの手助けがなければ、恐らくは――」


「公爵様」


その言葉を、アイオンが静かに遮った。その瞬間、カストルの肩がわずかに動いたが――黙して見守る。


彼は知っていた。この少年は礼節を重んじる。

それゆえに、公爵の言葉を遮る行為に“意味”があると。


(旦那様の言葉を止めるなら……きっと、必要なことなのだろう)


カストルはそう考え、視線を伏せた。そしてフォスターも、同じ理解を示したようだった。


「……なんだね?」


低く、空気をわずかに締める声。それは威圧ではなく、貴族としての“威厳”そのものだった。


だが、その圧にも怯まず、アイオンは淡々と口を開いた。


「勘違いしないでほしいことがあります」


「……勘違い、とは?」


「俺は、俺のできることをやってきただけです。今までも、そしてこれからも」


アイオンは落ち着いた動作で茶を一口含み、続けた。


「だからこそ、不必要な話を広めてもらっては困るんですよ。――今この場には、“事情を知らない人”が一人いる。“彼女”があなたにどんな思惑で“真実の一部”を話したのかは知りませんが……それは、“事実”ではない」


メリッサがわずかに息を呑む。


(な、なんの話をしているの? “彼女”って――?)


困惑の色を隠せないまま、彼女は言葉を失った。だが、アイオンは気にする様子もなく、フォスターの目をまっすぐに見据えた。


「お互いに、意味のある話をしませんか?少なくとも――今は雑談であっても、その話は相応しくない」


その眼差しには、確かな意志が宿っていた。まるで言葉の奥で、『余計なことを言うな』と告げるように。


沈黙が落ちる。暖炉の火のはぜる音だけが響いた。誰もが息を潜めたその瞬間――


フォスターが、低く笑い始めた。


最初は喉の奥で小さく。だが、すぐにそれは抑えきれぬような豪快な笑いへと変わっていった。


「――ははははっ!」


静まり返った応接間に、よく響く声が広がる。それは威圧ではなく、重みを持った笑いだった。むしろその響きが、場の緊張を溶かしていく。


「はははっ!おもしろい!想像以上におもしろい少年だ!!」


フォスターは笑いを収め、深く息を吐いた。その瞳には、明確な光――信頼と興味が宿っている。


「人の顔色ばかり伺う者が多いこの街で、貴族相手に言葉を返す者など、そうはいない。ましてや、私に向かってなどな」


「冒険者が貴族や王族を畏れる必要はない、と師に習っているので」


「はははっ!その通りだ!」


フォスターは椅子の背に身を預け、口元にわずかな笑みを残す。


「いいな。“彼女”の話していた通りじゃないか!」


「……どんな内容か知りませんが、過大評価ですよ、それ」


「いやいや、確かにそうだと思ったよ。だがやはり、会って話さねば人となりは分からんものだな。なぁ、カストル!」


フォスターの言葉に、カストルが微笑を浮かべて頷く。しばし笑いが続いた後――フォスターは表情を引き締めた。


「アイオン。私はきみのような者を軽んじたりはしない。むしろ、己の言葉を持つ人間こそ、今の国に必要だと思っている」


「……大げさですよ。俺はただの無礼なガキです」


「そうは思えんよ。力があるから増長しているわけでも、後先を考えずに発しているわけでもない。――ただ、決めているのだな。己の生き方を」


アイオンは静かに頷いた。フォスターは満足げに目を細め、茶を一口含む。


「いいだろう。本題に入ろうか。リズをどういう経緯で救ったのか――それを、きみの口から聞かせてほしい」


部屋の空気は、先ほどとは違っていた。冷たく張りつめていたものが、今は静かに燃えるような温度を帯びている。


「……リズ様」


カストルの穏やかな声が割り込む。その視線の先で、リズは小さく首を傾け、静かな寝息を立てていた。


アイオンは一瞬、言葉を失う。フォスターもまた、目を細めて娘のようなその姿を見つめた。


「……いつの間に?」


「先ほどの茶に、少しだけ眠り薬を」


カストルは手にしたカップを静かに置き、恭しく頭を下げた。


「この先は、この子に聞かせるべき話ではありません。親の死に目など――思い出さないほうがいい」


「……そうか。さすがだな、カストル」


フォスターの声は柔らかかった。彼はゆっくりと立ち上がり、暖炉の前まで歩く。燃える炎が、白髪を淡く照らした。


アイオンはリズの肩にそっと毛布をかけ、ほんの少しだけ微笑んだ。


「……この子は強い子ですよ。助けた時には、もう現実を受け入れていましたから」


短い沈黙。暖炉の火が、ぱち、と音を立てる。


フォスターは静かに頷いた。


「――では、改めて聞こうか。何があったのかを」


その言葉と同時に、部屋の空気が再び引き締まる。リズの静かな寝息だけが、冬の空気の中で穏やかに響いていた。



フォスターは深く息を吐き、椅子の背に掌を添えた。しばし沈黙が落ちる。暖炉の火が小さくはぜ、橙の光が壁に揺らいだ。


「……なるほどな」


その言葉は、理解というよりも、胸の底からこぼれた痛みの吐息だった。フォスターは視線を落とし、指先で茶器の縁をゆっくりと撫でる。わずかに震えるその手が、彼の感情の深さを物語っていた。


「……そうやって、あの子たちは死んだのか」


低く抑えられた声が、静まり返った空気に沈む。怒りでも、涙でもない。ただ、理性という薄氷の上に押し込められた慟哭だった。


「賊に殺された、か……。だが、本当に罪があるのは奴らだけではない」


フォスターはゆっくりと顔を上げる。その瞳に宿るのは憎悪ではなく、確かな覚悟だった。


「賊が生まれたのは、この国の腐敗が生んだ果てだ。領主は寄進に溺れ、王家は女神の名を飾りに使う。民を守る意志も誇りも捨てた。……その報いがこれだ。」


拳が膝の上で静かに鳴った。だが彼は声を荒げない。押し殺された怒りほど、言葉の一つひとつが鋭く響いた。


「妹は――オリビア達は、そんな国の中で命を落とした。殺したのは賊でも――そうさせたのは国の怠慢だな」


暖炉の火がぱちりと弾ける音が、誰の胸にも響いた。


メリッサは目を伏せて話を聞いていた。そして静かに口を開く。


「おっしゃる通りです。本来、冒険者が賊に屈し、略奪に加担するなど――あってはならないことです。ですが、“被害者が命を落としていなかったから”と軽視し、何の手も打たなかったのは、領主としての責任を放棄したに等しい行為です」


その声音は、感情を交えず、ただ淡々と事実だけを伝えるものだった。


「しかし……フィギル領地側も、背景を見れば単純ではありません。発展の過程で人手が足りず、中途半端な腕の冒険者をも現場に出さねばならなかった。結果、監督の目が行き届かず、判断が歪んだ。責めを負うべきは、デオール子爵と冒険者ギルドかと思います」


言葉を締めくくったメリッサは、静かに頭を下げた。そこに弁解の色はなく、現実を直視する者の冷徹な誠意だけがあった。


フォスターはその言葉を黙って聞き、ゆっくりと目を閉じた。沈黙が、言葉以上に重く部屋を満たす。


やがて彼は目を開き、再び静かな声で呟いた。


「――デオールには責任をとってもらう。スパール付近の現状を知っていながら、対策を講じなかったのは余りにも罪深い。冒険者ギルドにも苦言を呈す。それでフィギル領地の冒険者ギルド責任者の評価が下がるかもしれぬが…いいな?」


メリッサは静かに頷く。


(オルドの評価が下がるのは痛いけど…実務能力の低さは本部も理解してるはず。冒険者思考で物事を決めるから、足らない者を切り捨てることができなかった。身から出た錆ね)


内心は打算で溢れていたが、一切表には出さずに。



フォスターは短く息を吐き、茶器をそっと置いた。しばし考えるように目を伏せ、それから穏やかな声で言う。


「よくやってくれた。あの子を無事に連れ帰ってくれただけで十分だ」


「できる事をやっただけです」


「そう言える者は少ない。――感謝する」


暖炉の火がゆらりと揺れ、沈黙が落ちる。フォスターは椅子の背にもたれ、静かに言葉を続けた。


「きみは、これからどうするんだ?」


「用事が済んだら、また旅に出るつもりです」


「用事? それはなんだ? 私ができることなら協力しよう」


「いえ、そんな大層なものではないです。……新女神教に用があって」


その一言に、フォスターとカストルの表情がわずかに変わった。静まり返った空気の中、メリッサだけが目を細める。


「……どのような用件か、伺っても?」


しかしアイオンはそれを気にする素振りもなく、淡々と答えた。後ろめたい理由など何ひとつないという自信が、言葉の端々に滲む。


「俺は旧女神教のことしか知らないんです。ク――女神が、どうしてこの世界を見限ったのか。そもそも、なぜ“新旧”の分類が生まれたのか。そして……なぜ未だに“女神教”を名乗っているのか。それを知りたいだけです。」


フォスターは静かに目を閉じ、深く息を吐いた。暖炉の火が、灰色の瞳に柔らかく映える。


「なるほど……。だが、答えは得られぬかもしれんぞ。そこまで熱心に教義を知る者がいるとは思えないからな」


「それならそれでいいんです。聞けなければ、別の国で探します。世界を見ながら、少しずつ」


「旅をすることが目的――なのか?」


フォスターの問いに、アイオンはわずかに笑みを浮かべた。


「そうですね。女神のことを知りながら、世界のことを知っていくのが目的です」


「きみは旧女神教の信徒ではないと聞いた。なのになぜ――そこまで?」


アイオンは少し目を伏せ、静かに答える。


「……彼女は、存外にお喋りなようで。それが、俺の生きる理由でもあるから……ですかね?」


フォスターは眉をわずかに上げたが、追及はしなかった。代わりに、低く穏やかに言葉を紡ぐ。


「なるほどな……女神が何をきっかけに世界を見限ったのか――気にしたこともなかったよ」


沈黙が落ちる。だがその沈黙は、気まずさではなく、互いの心に残る余韻だった。


「――よく来てくれた、アイオン」


フォスターはそう言って立ち上がる。その背に、燃える炎が柔らかく映えた。静寂の中、その言葉だけが冬の陽よりも温かく残った。

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