その名は
時間は移ろい、十字の針が左を差す前。
アイオンとリズは街の大通りを抜け、冒険者ギルドの建物の前に立った。
重たい木扉の前で、リズは少し目を細める。
歩き疲れたのか、瞼の動きがゆるやかだった。
アイオンはその様子を横目に、穏やかな声で言う。
「眠いよね。早く済ませて、宿に戻ろう」
リズは言葉の代わりに小さく頷き、アイオンの袖を指先でつまんだ。
それだけで、気持ちは十分に伝わっていた。
「よし、入ろうか」
アイオンが扉を押すと、夜の冷気を遮るように灯りが目に入った。
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昼の喧騒が嘘のように、ギルドの中は静けさに包まれていた。
机に広がっていた依頼書も片付けられ、わずかに紙の匂いだけが残っている。
カウンターから顔を上げたメリッサが、小さく笑みを浮かべた。
「こんばんは」
「…赴任したわけでもないのに、仕事を?」
「諸々の確認ですよ。公爵様に伝える内容を明確にしなければ、ギルド全体の落ち度になりかねませんから」
その言葉に、隣の職員が顔を伏せる。
(この人たちに処罰が下るのは確実なのか…。デオール領地の問題だと思っていたけど、そう単純じゃない?)
そんな空気を和らげるように、メリッサは職員へ微笑んだ。
「心配しなくても、フォスター公爵は理解されるはずです。これは誰の問題で、誰が起こした結果なのかを」
「は、はい…」
「改善されるかはわかりませんけどね。結局これは、国の問題ですから」
そう言って、メリッサはギルドの奥へ手を向けた。
「では参りましょう。こちらです」
彼女に従い、アイオンとリズは歩き出す。
通路を進む背に、アイオンは小声で尋ねた。
「…あの、“国の問題”って?」
「まだご存じないのですね。でしたら、自分で調べる方がいいかと」
「はぁ…」
「もしくは、フォスター公爵様から教えていただけるかもしれません。あの方は、この国では非常に貴重なお方ですから」
「貴重?」
「ええ。――着きました」
地下へ下りた先に、ひとつの扉があった。
あれが伝令魔法を使う部屋なのだろう。
扉の前には、腕を組んだ見慣れぬ男が立っていた。
神経質そうな視線が、メリッサに向けられる。
「これは支部長。お疲れ様です」
その一言で、彼がスパール冒険者ギルド支部の責任者だとアイオンは察した。
支部長は舌打ちをし、苛立ちを隠さず囁く。
「…あまり余計なことは伝えないでくれよ」
「隠し事が通用するお方だと? ずいぶんとフォスター公爵様を過小評価されていますね」
「…そうではない。今後のギルド運営に関わる話はするなと言っている」
「代わりはいくらでもいるでしょう? 領主も、支部長も」
男は怒りをあらわにしたが、すぐに冷静を装い、通路へと去っていった。
その背を見送りながら、アイオンは恐る恐る尋ねる。
「…わざわざ敵を作るタイプですか?」
「あら、心外ですね。相手は選びますよ」
逆に恐ろしい笑みを浮かべ、彼女は扉を開いた。
「さあ、こちらです。パルキノンからの連絡を待ちましょう」
#
部屋の中に入ると、テーブルの上にひとつの水晶玉が置かれていた。
「これが装置、ですか?」
アイオンの問いに、メリッサは水晶玉へ軽く手を翳し、説明を始めた。
「はい。触れて宛先を思い浮かべれば、対象の水晶に文字が伝わります。
声ではなく文字で届くので、意味の取り違えが起きにくい。短い確認や正式な通達、緊急連絡に適しています」
水晶の内部を淡い光が走り、文字がふわりと浮かび上がる。
「ただし装置には階層があります。ギルドの水晶はギルド間での連絡専用で、自由に繋げます。記録は各ギルドに残りますが、比較的柔軟に使えるんです」
「貴族用は互いを認めた者同士のみ。記録は厳重に保管されます。王族の回線はさらに上位にあり、すべての装置へ指示を下せる国家の命令系統として機能します」
アイオンは水晶をじっと見つめる。
メリッサは声を落とし、付け加えた。
「ただし万能ではありません。表の回線は記録や監査の制約がありますが、裏で流通する“闇の水晶”はログを残さず繋がるため、犯罪や密談に利用されることもあるのです」
淡い光が三人の影を映し出す。
アイオンは表面に指先をかざし、そこに走る光を見つめた。
(勝手に声でやり取りするものだと思ってたけど…チャットみたいな仕組みか)
「…思ったより実用的なんですね」
「でしょう? 派手さはありませんが、確実に届くのです。それが一番大事です」
メリッサは肩をすくめ、どこか楽しげに答えた。
その間、リズは椅子に腰を下ろし、両手を膝に置いたまま小さく欠伸をする。
目を擦る仕草のあと、頭がかくんと揺れ、瞼が重そうに閉じていった。
「…眠そうだ」
アイオンが呟くと、メリッサも視線を向け、ふっと笑う。
「子どもなんてこんなものです。安心できている証拠ですよ」
「そうならいいですけど」
アイオンは椅子に背を預け、指先でテーブルを軽く叩いた。
「こうして待つの、落ち着かないですね。フォスター公爵って、どんな方なんですか?」
「そうですね…“見極める目”を何より重んじる方。甘い言葉に流されず、状況を冷静に掴む。
それでいて、必要なら徹底的に動く。――敵に回したくない典型です」
淡々と語る声の奥に、僅かな緊張が混じっているのをアイオンは感じ取った。
「…そんな人と、これから話すんですか」
「ええ。ですが気にせずとも大丈夫ですよ。私が対応しますので」
部屋に静けさが戻る。
リズのかすかな寝息が、その静けさを柔らかく包み込む。
その時――
水晶玉が淡く光を帯び、波紋のように広がった。
浮かび上がった文字列には、名が記されていた。
『こちらレオ・フォスター公爵。スパールの者、応答願う』
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二人の視線が、水晶玉へと注がれた。
メリッサがすぐに手をかざし、短く返す。
『初めまして。メリッサと申します。お待ちしておりました』
続いて、淡々と文字が浮かび上がる。
『長くやり取りをする気はない。既に迎えを出した。明日にはそちらに着く。それに乗り、パルキノンまで来てほしい。もちろん、リズを連れて』
「…早いですね」
アイオンが小さく呟く。だが水晶は、もう次の言葉を刻んでいた。
『ひとつ確認する。リズを保護した冒険者もその場にいるのか?』
メリッサがちらりとアイオンを見る。
『はい。同席しております』
『そうか。どのような経緯があったのかはここで話さなくていい。その者もパルキノンまで来てほしい』
再び視線を向けられたアイオンは、小さく頷いた。
『もちろんです。というより、彼が行かなければリズは動かないでしょう』
『彼? 名を聞いていなかった。不都合がなければ教えてくれるか?』
『アイオンと申します』
その瞬間、光の揺らぎが止まり、しばし沈黙が落ちる。
アイオンは思わず喉を鳴らし、固唾をのんだ。
やがて、再び文字が浮かぶ。
『オルババ村の少年か?』
予想外の言葉に、メリッサは思わず尋ねた。
「…フォスター公爵とお知り合いですか?」
「まさか。貴族はフィギル子爵以外とは面識はありません」
「…返事をします」
アイオンは黙って頷く。
『そうです。ご存じなのですか?』
『それについても明言を避ける。ではよろしく頼む』
光がひときわ瞬き、やがて水晶は静かに暗さを取り戻した。
「…なんだったんでしょうね」
「フィギル子爵が活躍を伝えていた、とかでしょうか? 親密な関係だと聞いています。
ただ、魔物の巣での働きはイザークさんたちと共同でしたし、わざわざ名を挙げるほどではないはずですが。それ以外に心当たりはありますか?」
メリッサの問いに、アイオンは少し考え込む。
(ジーナのことか? …でも、あれは隠せたって話だったはず。ここで迂闊に言えば迷惑をかけるかもしれないな…)
「わかりません。まぁ、気にしなくていいでしょう。 それより、明日着く迎えって、馬車じゃないですよね? 早すぎますし」
「おそらく飛空艇でしょう」
「飛空艇?」
「はい。簡単に言えば空飛ぶ船です。魔道具の一種で、御使ゲンゲ様の最高傑作です。
王族専用は別ですが、公爵クラスなら個人所有していますから、それでしょうね」
アイオンは改めて御使の凄さを思い知らされつつ、新たな疑問を抱いた。
(空飛ぶ船…? 車や機関車の方が簡単じゃないか? 最高傑作ってことは、そっちは思いつかなかった? …いや、そんなはずないだろ)
怪訝な顔をしたのを見て、メリッサが問いかける。
「どうしました?」
「いえ。明日またここに来ればいいですか?」
「そうですね。…と、言いたいところですが」
メリッサはちらりとリズを見やった。
彼女はすっかり夢の中にいた。
「この子を宿まで連れて帰るより、職員用の部屋を借りましょう。一泊していくのがいいかと」
「いいんですか?」
「問題ないかと。ギルドとしても、少しでも心象を良くしたい思惑があるでしょうし」
「…助かります」
「では、少々お待ちください」
メリッサは部屋を出ていく。
残されたのは、リズの穏やかな寝息と、胸に残る重い余韻だけだった。
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水晶玉の光が消え、静寂が戻る。
フォスター公爵はしばし、指先に残る余韻を見つめていた。
「…あの少年が、リズを救ったか」
低く漏れた声には、驚きとわずかな笑みが混じる。
ジーナ王女を守り、窮地にあったフィギル子爵を助けたという名は、すでに耳にしていた。
ジーナ王女が幾度も語った、夢物語のような活躍。
フィギルと共に聞かされた時には、幻を見せられたのでは? と疑ったほどだ。
(未成熟とはいえヒュドラを退け、その後は手練れの三人組を打倒する…。どさくさ紛れではない、英雄的働きだ)
そして今度は――自らの姪までも。
「…ただの巡り合わせで済む話ではあるまいな」
椅子に身を沈め、瞳を細める。
まだ若い少年にすぎない。
聞けば、年齢は14歳。
ジーナ王女と同い年だという。
だが、ジーナ王女を救い、その心をも救った。
ただの村の少年として片づけられる存在ではない。
しかも特別ギルド員が付き纏う人材。
(専属冒険者として囲い込もうとしているのか…。それだけの逸材ということだろう)
オリビアの死の悲しみは癒えず、ローズレッド王国の腐敗は憤りを呼ぶ。
だが胸の奥底では、重く沈んだ熱が、静かにふつふつと膨らみ続けていた。
「アイオン、か」
短い独白は低く、抑え込まれた熱を滲ませながら、静かな部屋に落ちた。




