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雪が降る前に

翌日。

早朝から宿を出たイスラは、吐く息が白くなるのを感じながら、街の中心にある街道馬車組合の詰所へと足を運んだ。


窓口で声をかける。


「バルナバ行きの馬車について聞きたいのだけど」

「はい、承ります」


職員は帳簿を手に取り、淡々と答えた。


「本日、十字が上を差す頃、バルナバ行きが三台続けて出発いたします。護衛の冒険者パーティも手配済みですので、道中の安全は確保されています」

「三台も…?」


思わずイスラは聞き返した。


「ええ。冬が本格化する前に移動を済ませたい方が多いのです。それに、先日までスパールからバルナバまでの街道を騒がせていた賊も討伐されたと聞いております。皆、今こそ移動の好機だと考えているのでしょう」

「…好機、ね」


イスラは小さく息を吐いた。


(犠牲の上に成り立つ“好機”。…リズとアイオンを連れてこなかったのは正解だった)


「ご利用をご希望でしたら、お早めに。間もなく締め切りとなります」

「護衛は何人?」

「二組八名です。追加募集はしておりませんが、十分でしょう」


職員は淡々と告げた。


(…どうせ『もう賊はいない』と高をくくっているんでしょうね。でも、いいわ。自分の身は自分で守れる)


「わかったわ。それにお願いするわ。私はイスラ。Dランク冒険者よ」


ランクカードを差し出すと、職員は一礼して受け取った。


「確かに。では、出発には遅れずにお願いします」


軽く会釈して詰所を後にすると、冷たい風が頬をかすめた。


(…最後になるかもしれない。リズたちと食事でもしよう。せっかく慣れてくれたのに、やっぱり寂しいな)


イスラは小走りで宿屋へ戻った。



宿の一室。

扉を開けて入ってきたイスラに、剣の手入れをしていたアイオンが顔を上げた。

リズはその隣で、小さな寝息を立てている。


「どうでした?」

「ええ、ちょうど正午にバルナバ行きの馬車が出るそうよ。護衛パーティも揃ってるって」


イスラは賊の件を伏せて報告した。

リズを起こさぬよう、アイオンも声を潜める。


「護衛って、信用できそうですか? あの荒くれみたいなのが来たら心配ですけど」


「二組八人。馬車組合が正式に手配してるんだから安心よ。まとめて三台も出すんだもの、間違いなく安全な方だわ」


「…三台も。そんなに人が移動するんですね」


アイオンは小さく呟き、何かを察して眠るリズを見た。


「そうか…賊がいなくなったから、みんな今ならって―」

「違うわよ!」


イスラは慌てて遮った。


「冬が本格化する前にバルナバ方面に行きたい人が多いだけ。バルナバから帝国方面へ抜ける人もいるし、例年通りよ」


それは嘘だった。

だが、別れの時まで暗い気持ちを抱かせたくはない。


「あなた、人の負の部分を気にしすぎ! もう少し楽観的に生きないと疲れちゃうわ。まだ14歳なんだから!」


イスラは少し息を整え、言葉を続けた。


「暗いことばかり気にしてたら、明るいことを見落としちゃう。あなたがそんなふうじゃ、リズが心配になるわ」


「…そうですね」


アイオンは視線を落としたが、すぐに顔を上げた。


「それじゃ、別れの前に食事でもしましょうか。スパールの名物料理でも。…あるかはわかりませんけど」


「ふふっ、それいいわね! でもその前に、冒険者ギルドに寄りましょう。公爵から返事が来てるかもしれないし」


「そうですね。…でも、リズはまだ起きませんね」


小さな寝息を立てる少女は、夢の中にいた。

安心しきった顔は、まるでこの部屋だけが世界から切り離されたようだった。


「ふふ。まだ日が昇ったばかりだもの。じゃあリズが起きるまで、話でもしましょうよ。あなた、オルババ村出身なんでしょ? どんなところ?」

「ただの田舎ですよ」


「田舎の村って、どこも似たようなもんか! 妹さんがいるんでしょ? いくつ?」

「9歳です」


二人は声を抑えながらも笑い合い、オルババ村のことやイスラのかつての仲間、オリバーたちの話に花を咲かせた。

――もうすぐ来る別れを前に、短い安らぎの時間が流れていった。



やがてリズが目を覚まし、三人は簡単に身支度を整えると、街の大通りに面した冒険者ギルドへ向かった。

まだ午前の早い時間帯だというのに、ギルドの前は荷物を抱えた冒険者や依頼人で賑わっている。


中に入ると、昨日突っかかってきた荒くれた連中の姿が目に入った。

しかし、彼らはこちらに気づくと、すぐに慌てた様子でギルドから駆け出していった。


「…凄いビビっちゃってるじゃない」

「知りませんよ」


素知らぬ顔で受付へと向かうと、職員はアイオンを確認するや否や、すぐに裏手へ下がっていった。


「…こっちも?」

「本当に知りませんよ」


少しして、窓口の奥からメリッサが顔を出した。

アイオンに気づくと、表情を和らげて声をかける。


「おはようございます、アイオンさん、イスラさん、リズさん」


「おはよう。…あなた、ずっとここに?」


「フォスター公爵様からお返事をいただいたら、すぐに対応できるようにです。各冒険者ギルドの落ち度で起きた事件ですから、揉み消されては大変です」


メリッサは涼しい顔で答えた。

周りの職員たちは引きつった顔で彼女を見ているが、メリッサは気にもせず話を続ける。


「昨夜、公爵様側から連絡がありまして――本日の夜、伝令魔法で直接ギルドに連絡をされるとのことです」


「昨日の夜に…随分早いのね?」


「執事の方からの連絡でした。リズさんのことをとても気にしていました。公爵様も同じだと」


イスラは小さく息を呑んだ。

アイオンが不思議そうに尋ねる。


「伝令魔法って、俺たちも使っていいんですか? 仕組みもわからないんですが」


「どこの村にもあると思いますが、使おうとしなければ知らなくても当然です。仕組みは複雑ですが、使用自体は誰でもできますよ」


「へぇ」


アイオンはその仕組みも、おそらく“御使様”が残した前世知識を応用したものだろうと察した。

しかし自分には詳しいことはわからないので、細かい点は気にしないことにした。


メリッサは続ける。

「あまり気にせずとも、私が代弁する事ができるので安心してください」


「まぁ…お願いします」

「はい」


「私は今日の正午の便でバルナバに戻るわ。だから、あなたとはここでお別れね」


イスラが軽い口調で告げると、メリッサも柔らかく返す。


「そうですか。お気をつけて」

「…本当に嫌な大人ね、あなた。なんの興味もないって、顔に出てるわよ」


メリッサは微笑みを絶やさない。

イスラは呆れたようにため息をつき、不満げにギルドを後にした。


「では、俺たちもこれで。夜に来ればいいですか?」


「はい。時刻は十字が左を差す頃との事です。リズさんは寝ているかもしれませんが、目覚めた時にアイオンさんがいなければ不安になるでしょう。連れてきた方が安心だと思います」


「そうですね。では、また後で」



ギルドを出ると、昼近い日差しが街路を照らし始めていた。

冷たい風はまだ肌を刺すが、石畳に差す光はどこか柔らかく、明るさを帯びている。


「じゃあ、出発まで時間はあるし…」


イスラは二人に振り返り、にっこり笑った。


「スパールの名物でも食べに行きましょうか。今しかできない思い出を作らないとね」


アイオンも微笑み返し、リズが小さく頷く。

少しずつリズが元気を取り戻せたのは、間違いなくイスラのおかげだった。


三人は肩を並べ、人々のざわめく昼の街へと歩みを進めた。

街は昼に向かうにつれて、さらに活気を増していた。


露店の呼び声、荷を担ぐ行商人の足音、子どもたちの笑い声。

寒さを忘れるほどの熱気に包まれ、石畳の通りには人々の往来が絶えなかった。


焼き串を売る香ばしい匂いが風に混じり、温かな湯気を立てる屋台の料理に人々が群がる。


イスラは二人を連れ、賑わいの中を歩きながら、この街の光景を心に刻もうとしていた。

短い滞在だったが、思い出は確かに残る――別れの寂しさを覆い隠すように。


リズは珍しげに屋台の食べ物を見つめ、アイオンは時折笑みを浮かべてそれに応じる。

その何気ないやり取りが、日常の一場面のように温かく、そして儚かった。


やがて昼が近づくにつれ、街の空気がせわしなくなっていく。

正午の馬車を目指す人々が荷を抱え、通りを急ぎ足で行き交うのが見えた。



正午を告げる鐘が街に響いた。

馬車組合の前には、大荷物を抱えた人々が集まり、三台並んだ馬車の周囲は活気と緊張に包まれていた。

御者の声が飛び交い、護衛の冒険者たちが装備を整えている。


イスラは振り返り、二人に笑みを見せる。


「じゃあ、ここでお別れね。元気でね」

「気をつけてください」


アイオンは短く、それだけを告げた。

同じパーティではない以上、これが今生の別れになる可能性の方が高い。

一期一会の関係の終わりだった。


リズもまた、別れを察して涙ぐむ。

イスラはしゃがみ込み、リズの肩にそっと手を置いた。


救出された時は、アイオン以外に触れられる事を拒んでいたのに、大人しくその手を受け入れていた。


「少し心配だけど…きっと大丈夫よ。次に会う時は、笑顔で会いましょう」


小さな頷きが返る。

イスラは立ち上がり、アイオンに向き直った。


「リズをお願いね」

「はい」


イスラは最後に二人をもう一度だけ見つめ、荷を抱えて馬車へと足を踏み入れた。


御者が扉を閉じる。

ゆっくりと車輪が回り、石畳を叩く音が遠ざかっていく。


街のざわめきの中に、別れの余韻だけが静かに残った。



遠ざかっていくスパールの城壁を、馬車の窓から見つめながら、イスラはふっと息をついた。


(あんなに敵対心を燃やしていたのに…いざ別れとなると、こんなに胸が締めつけられるなんてね。不思議な人)


少し前の自分からは、予測できない結果だった。


しかし短い時間を共に過ごすうちに、彼の真剣さや、不器用な優しさ、無邪気さに触れてしまった。

それが思いのほか深く、自分の心に残っている。


(リズの笑顔、見たかったな。アイオンのまっすぐな目も…もう少し、見ていたかったな)


城壁の輪郭はやがて霞み、冬の空気に溶けていく。

未練を乗せたまま、馬車はただ静かに、遠ざかっていった。



二人になったアイオンとリズは、ゆっくり宿屋へ戻ることにした。

石畳の道を歩いていると、散策の途中から気になっていた建物が目に入る。


(…あそこが入口か?)


古びた街並みの中で、そこだけが新しく、浮き上がるように見えた。

建物に近づくと、入口のアーチの上に蝶の飾りが掲げられているのが目に入る。


(…そうか。ここは、女神教の教会か)


アイオンは足を止め、しばし外観を見上げた。

旅に出た理由のひとつに、この女神教を――新女神教を知ることも含まれている。


なぜ女神はこの世界を見限ったのか。

それを知るために、大事な要素であるのは明らかだった。


バルナバにも教会はあったが、神父に覇気がなく、やる気も感じられず、すぐに扉を閉めた。

なので、初めて新女神教の関係者と話せるかもしれない。


(少し寄ってみるか…。教典くらいは手に入るかもしれない)


「リズ、ちょっと寄ってみてもいいかな?」


何気なく尋ねると、隣の少女の顔がきゅっと曇った。


「…やだ」


拒絶は即答だった。

アイオンは少女を見る。

リズは俯いたまま、小さく声を落とした。


「…ママが言ってたの。『関わっちゃ駄目』って」


それは救出されてから初めて、彼女が亡き母のことを口にした瞬間だった。

淡々とした声の奥に、まだ癒えきらない痛みがにじんでいる。


「そっか。わかった」


やわらかく答えると、リズは小さく首を振った。


「…ごめんなさい」

「いや、いいんだよ」


それでもリズは視線を落としたまま。

アイオンは軽く笑って言う。


「お母さんの言葉なら守ったほうがいい。大事なことだよ」


リズがちらりと彼を見上げる。

戸惑いと、少しの安堵が瞳に浮かんでいた。


「…ありがとう」

「礼を言うことじゃないよ」


短い沈黙が落ちる。

だがそれは重くなく、互いの気持ちを確かめるような静けさだった。


やがてアイオンは教会を一度だけ振り返り、未練を断つように踵を返す。


「じゃあ行こう。夜に出かけるし、それまでゆっくり休もう」

「…うん」


リズの返事は小さくても、確かな温度を帯びていた。


(確か他国じゃ御使様が神格を得て、それぞれ信仰の対象なんだっけ。リズのお母さんは別の教徒だったのかも。…残念だけど、また機会はある)


二人は肩を並べて歩き出す。

背後には蝶の飾りを掲げた教会の影が、石畳の上に長く伸びていた。

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