リズ
馬車は川沿いの開けた場所で一度止まった。
乗客たちは交代で水を汲み、少しずつ食料を口にする。
張りつめていた空気がようやく和らぎかけた、そのとき――
馬車の中で眠っていた子どもが目を覚ました。
幼く、怯えを映した瞳がきょろきょろと揺れ、やがて堰を切ったように泣き声を上げる。
「大丈夫、大丈夫だからね」
乗客の女性が抱き寄せようと手を伸ばすが、子どもは首を振り、必死に拒んだ。
御者や年老いた乗客が声を掛けても、かえって怯えが募るばかりだった。
「任せてください……」
仮眠をとっていたアイオンが静かに起き上がり、声を掛ける。
膝をつき、子どもと同じ高さで目を合わせた。
「もう大丈夫だよ」
その一言に、震えていた肩がわずかに止まる。
涙に濡れた瞳がアイオンを見つめ、次の瞬間、外套にしがみついた。
小さな体をしっかりと抱きとめ、アイオンは黙って背を撫で続ける。
その様子に、周囲の者たちは息をのんだ。
イスラは安堵のような吐息を漏らし、メリッサは静かに目を細める。
(……子どもには優しいのね。敵意を持っていないから?)
やがて泣き疲れたのか、子どもの呼吸は次第に静まっていった。
けれど細い指は、なおもアイオンの外套をしっかりと握りしめている。
「随分と慣れてるようですね?」
メリッサが小さく微笑み、囁くように言った。
「妹がいるんで」
アイオンは無愛想に答える。
「暫くは、あなたがついていた方が良さそうですね」
「責任重大ね」
川辺で水を飲んでいたイスラが、からかうように言葉を足す。
アイオンは答えず、ただ子どもの頭にそっと手を置いた。
その瞳にはまだ怯えが残る。けれど、かすかな安らぎも混じりはじめていた。
「……わし、怖いかね?」
年老いた乗客がぽつりと呟く。
御者は静かに頷き、張りつめていた空気が少しだけ和らいでいく。
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出発の準備が整いはじめたころ、若い女性の乗客がそっと口を開いた。
「その子、着替えさせてあげましょう。服が血で……このままじゃ、つらいでしょう」
アイオンは腕に抱いた子どもを見る。
裂けた布、赤黒い染み。
それは少女自身の血ではなく、彼女を守ろうとした家族のものだった。
「そうですね。手伝ってもらえますか?」
「勿論よ」
子どもを降ろそうとすると、小さな手が外套をぎゅっと掴んで離さない。
わずかに首を振り、必死にしがみついてくる。
「……一人でできる?」
女性の言葉に、アイオンは静かに頷いた。
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川辺にしゃがみこみ、膝に座らせたまま、ゆっくりと汚れた衣を脱がせていく。
怯えるように震える肩を、片手で支えながら。
賊の略奪品保管所にあったバッグの中を確認すると、 この子に合うサイズの服が入っていた。
この子の家族の持ち物で合ってたようだ。
血に染まった服を取り払い、顔の汚れも丁寧に拭う。
そこで、アイオンは気づいた。
(……この子、女の子だったのか)
乱れた髪がかかる幼い頬。
まだ5、6歳で見分けはつかなかったが、ようやく判明する。
薄い紫色の髪をした、可憐な少女だった。
その目はアイオンと、血で汚れた服を見つめていた。
彼女を守った家族の血――何かを感じ取っているのだろう。
「持っていこうか?」
少女は黙って頷く。
アイオンは素材を入れるための袋を取り出し、服を丁寧にしまった。
そしてバッグに戻し、口を閉じる。
「じゃあ、行こう。みんな待ってる」
抱きかかえて歩き出す。
小刻みに揺れる小さな体は、まだ恐怖を拭いきれずにいた。
(……自分で立ち直るしかない。俺にできるのは、守ってやることだけだ)
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「可愛くなったわね」
乗客の女性がぽつりと呟く。
アイオンは静かに頷き、バッグをそっと馬車に置いた。
「女の子だって、わかってたんですか?」
「……わからなかったの?」
女性は「嘘でしょ?」といった目でアイオンを見る。
御者も年老いた男性も、イスラまでもが呆れたように眉を上げた。
ただ一人、メリッサだけは驚きを隠し、すぐに澄ました顔へと戻していた。
少女は言葉を発さない。
怯えながら、アイオンの胸に顔を埋めている。
「行きましょうか。スパールまでは、あとどれくらいです?」
「あと少しだけど――野営を挟むわね」
イスラは小声で答えた。
女の子に配慮してのことだろう。
「そうですか。じゃあ、行きましょうか!」
アイオンはあえて明るく笑った。
――自分たちがいれば何の問題もない。
そう、少女に思ってもらえるように。
「――そうね! 行きましょう!」
イスラもそれを察して続ける。
御者は気を利かせて、出発の鐘を高らかに鳴らした。
(それは魔物を呼ぶかもしれないから、やめてほしいんだけど)
アイオンとイスラの心の声は、見事に重なっていた。
#
やがて馬車は再び川沿いの街道を進み始めた。
冬の冷気が流れ込み、吐く息が白く揺れる。
「すっかり冷えてきたわね。そろそろ雪が降るかも。わかる? アイオン」
イスラは明るく話しかける。
しかし、外への警戒は決して緩めていなかった。
この辺りの賊は、おそらくアイオンが駆逐したはずだ。
それでも油断していい理由にはならない。
とはいえ、馬車の中にそんな空気を持ち込むこともできなかった。
馬車の中では、少女がアイオンの隣にちょこんと座っている。
外套に包まれた小さな肩はまだ震えていたが、もう泣きはしなかった。
「田舎の村育ちではありますけど、天候までは読めませんね」
「私もそうだけど、この地方の近くに住んでたんでしょ? 予測できそうだけど」
「無理です。水魔法使いなら読めそうですけど」
「あの人たちは“水がある場所”はわかるけど、“雨が降るか”までは読めないんじゃない? 雪なんてもっとでしょ」
そんな他愛もない会話を続けながら、子どもの震えが止まったのを確認して、アイオンは優しく話しかけた。
「そういえば、名前、教えてなかったね。俺はアイオン」
そのまま視線をイスラへ向ける。
「私はイスラよ」
「きみは?」
そう尋ねると、少女は視線を泳がせながら、恐る恐る口を開いた。
「……リズ」
「リズ。リズか。いい名前だね。何歳?」
「……6つ」
「そうか、6歳か。俺の妹より年下だ」
少しずつ、緊張が解けていく。
けれど家族の話題は、まだ早い。
アイオンはそう考え、ゆっくり自己紹介を続けた。
他の乗客とも言葉を交わしたが、リズはすぐに泣きそうな顔になり、アイオンの腰に顔を埋めてしまう。
イスラも、長くは話しかけられなかった。
その様子を、メリッサは静かに観察していた。
(……面倒なものを背負い込んだわね。今後どうするつもりかしら。何か手を打たなければ)
同情がないわけではない。
だが、彼女はそんな感情に流されるほど甘くはなかった。
顔には出さず、ただ冷静に思考を巡らせていた。
#
川沿いの草地に馬車を止め、簡単な野営の支度を整える。
焚き火の炎が闇に揺れ、乗客たちの顔を赤く照らしていた。
リズはアイオンの外套に包まれ、静かな寝息を立てている。
小さな手は、彼の袖をしっかりと握りしめたままだ。
御者が低く呟く。
「スパールまで、あと半日だな」
「……予定の馬車が着いていなくても、捜索隊は出さないんですね」
アイオンの問いに、メリッサが答える。
「恐らく認識はしているでしょう。ですが、被害を軽く見ているのだと思います。
……命まで奪われることがなかった。その“慣れ”が、今回の油断を招いたのでしょうね」
「……そうですか」
アイオンは眠るリズを見やる。
不安はまだ強く、自分から離れようとしない。
時折、涙を流しながら眠るその顔を、彼は起こさぬよう指先でそっと拭った。
「……これから、この子どうなるんだろ」
イスラがぽつりと呟く。
家族のことも、どこに向かっていたのかも、まだ聞けずにいた。
「普通に考えれば、孤児院に預けるしかないだろ。
兄ちゃんがずっと面倒を見るわけにもいかねぇ。
馬車の乗客名簿に親の名はあるだろうが、バルナバに住んでなかったらお手上げだ」
御者の言葉は冷静で、現実的だった。
確かにその通りだ。
旅に連れて歩くことはできない。
けれど今のリズは、離れればすぐ泣いてしまう。
そんな状態で放っておくことなど、できはしなかった。
「そうですね……すぐには無理でしょうけど」
「離れるにも時間が必要よ。助けられてまだ一日。
家族を失ったことを受け入れているだけでも、立派よ」
イスラが静かに言う。
「けれど、そうも言っていられないでしょう?」
場が一瞬、凍りついた。
イスラが眉をひそめ、声の主――メリッサを見る。
「どういう意味よ」
「変な意味ではありません。 ただ、まずは目的地や住んでいた場所を確認すべきでは?
家族以外に、彼女を待つ人がいるかもしれません」
「なっ……! まだ時間が必要でしょ!」
「ですから、提案があります」
メリッサは服の内から一枚のカードを取り出した。
「ギルド職員用のカードです。
冒険者カードと同じように、銀行ギルドと連携されています」
「で? それがどうしたの」
「このカードには一つ、特別な機能があるんです。
私には縁がないですが……それを使えば、家族の居住地がわかるかもしれません。
親族の記録が残っている可能性もあります」
「……なにそれ? どういうの?」
「遺産相続人認定制度です」
その言葉に、アイオンは小さく反応した。
(……ずいぶん前世的だな)
思考を読んだように口を開く。
「リズがその制度に登録されていれば、血で照合できるってことですか?」
「理解が早いですね。
子どもが生まれたら真っ先に登録する、と言われるほど一般的なんですよ。
登録している可能性は高いです」
メリッサはカードをしまいながら続けた。
「さらに、親が誰かの制度上の受取人になっていれば、親族の生存確認もできます。
そうなれば孤児院に預ける必要もありません」
「なるほど……親の名前がわかれば、バルナバから足取りを追えるわけですね」
「ええ。移動には必ず乗合馬車を使うはずです。
その際、護衛依頼を通じて乗客の名前が残っています。 もし記録がなければ、バルナバ在住だった可能性が高いでしょう」
「スパールにも各ギルドはありますよね?」
「もちろん。街ならどんなに小さくても、必ずあります」
「……ありがとうございます。助かります」
「いえ、お気になさらず」
メリッサは穏やかに微笑む。
(……これで少しは、信用を取り戻せたかしら。
あの時、救出を止めたせいで距離を置かれていたもの)
その打算を、彼女は決して表には出さなかった。
#
夜は更け、乗客たちは次々に眠りについた。
今、焚き火の傍らで目を開けているのは、アイオンだけだ。
(……どうにかなりそうだ。駄目ならオルババに戻るつもりだったけど)
レアたちがいれば、リズを任せられる。
家族もいる。時間はかかっても、彼女は孤独にはならないだろう。
(……いや、まだ楽観はできないな)
血の繋がりがすべてではないことを、自分がいちばん知っている。
リズを本当に想ってくれる人かどうか――それはまた別の話だ。
眠るリズの髪をそっと撫でる。
(……助けた責任は果たすさ)
そう、胸の内で静かに誓った夜だった。




