抱える重さ
髪を乱暴に掴まれ、顔を無理やり持ち上げられる。
そこにいたのは、まだ幼い子どもだった。
血に染まった地面の上で、ただ―笑っている。
背後には、家族の亡骸。
泣きも叫びもせず、頬に涙すらなく、ただ口元だけが無邪気に歪んでいた。
あまりに異様な光景に、視線を逸らそうとする。
だが、頭を押さえつける力は容赦なく、無理やり瞼を開かされる。
耳の奥に、甲高い笑い声が焼きついて離れない。
それは絶望か、狂気か。
あるいは―希望を奪われた果てに残る、ただの虚ろなのか。
女は息を止め、身体を固くした。
(私のせいじゃない……! 私は、ただ生きたかっただけ!)
そう言い訳する心を見透かすように、アイオンは静かに口を開く。
「命惜しさに賊の一味に加わっただけで、自分は無関係だとでも? ……お前がこれからやるはずだったことだぞ?」
声は怒号ではない。ただ冷たく、濁っている。
その分だけ、言葉は重く胸の奥へ沈み込んでいく。
「次は何を言い訳にする? 依頼を任せた冒険者ギルドか? 馬車組合か? 賊を野放しにした領主か? それとも国そのものか? ……それで、この家族が納得するとでも?」
髪を掴む手がさらに強く締まり、頭皮が悲鳴を上げる。
逃げ場を失った視界に映るのは、血に濡れた小さな笑顔だけ。
「目を背けるな。これは―お前が背負っていく罪だ」
その言葉と同時に、子どもの笑い声が広がった。
甲高く、空虚で、世界を嘲笑うかのように。
笑いは止まらない。
いつまでも、いつまでも―。
そして、記憶が剥がれ落ちていくように、女の頭の中で過去の映像が流れはじめた。
#
あの日の夜。
街道で、震える体ごと土にへばりついた。
泥と雨に顔を揉まれ、声が震える。
「私のことは、見逃して!」
必死の叫びに返ってきたのは、薄ら笑い混じりの提案だった。
条件は簡潔で、そして残酷だ。
――魔法使いか……生かしてやるよ。仲間になりな。
藁にもすがる思いで、その言葉に縋りついた自分を、仲間たちは止めようとした。
「立ち向かえば、なんとかなるはずだ!」
彼らの声は強かった。
だが、自分の秤は戻らなかった。
前衛を務めていた者が真っ先に倒れた。
指示を出す者を失い、急ごしらえのパーティはたちまち秩序を失った。
指示者が消えれば、小さな流れは即座に乱れ、死が眼前に迫る。
それだけは、どうしても受け入れられなかった。
自分がしたことは―正確に言えば、選んだこと。
生き残るための道を、自分で決めた。
それだけのことだった。
仲間たちがおもちゃにされ、次々と倒れていく中で、私は自分を誤魔化した。
言葉を並べ、理屈をこね、選択を正当化した。
「違うの、悪いのは……早々に死んだ前衛のクズよ。あいつが生きていたら、私だって戦ったはずよ」
「あなたたちだって、私をかばってくれなかった! 賊は私を狙ってた! 次に死ぬのは私だった!」
「いつかあいつらには罰が下る! 私はその時、証人になるわ! あなたたちの死が報われた証人に!」
叫びにも似た自己弁護は、やがて空気の中でかき消えた。
耳に残るのは、仲間たちの断末魔ではなく、心の奥で反芻される薄い言い訳だけ。
私は目をそらし、事の全容を直視することから逃げた。
―乗客の家族がどうなったかにすら、目を向ける余裕はなかった。
けれど、今こうして向き合わされる時、選んだことの重さが一つずつ剥げ落ちていく。
生き延びるための取引は、自分以外の誰かの命を秤にかけることだったと、ようやく理解した。
#
ここにいる子どもの小さな笑いは、まるで私を嘲るようだった。
そしてアイオンは、心の奥を見透かしたように言葉を重ね、一つずつ突き崩していく。
鋭く、無慈悲に。
その眼差しに、怒りが込み上げた。
「……そうに……」
口から呪詛のように言葉が零れる。
「偉そうに! あなたは力があったからねじ伏せただけじゃない! 私にはできなかった! だから生き残るために頭を下げた! それの何が悪いっていうの!?」
髪を掴まれた手を振り払い、そのまま立ち上がる。
「そうよ! 私が弱いから悪かったのよ! でも―生きてる!
なら、私の選択が正しかったってことじゃない! 違う!?
仲間も、あの子の家族も死んだ! 歯向かったからよ!
未来を見て動いた私だけが、生き残った! この事実は変わらない!」
声が洞窟に響く。
彼女の中では、生きることがすべての優先だった。
その姿を、アイオンはただ呆れたように見て、問いかける。
「なんで命の危険がある冒険者になった?」
「……体外魔法が使えて、誘われて……」
「いくらでも辞めるチャンスはあったろ。
オルド支部長の評価試験で解散したって言ってたな?
元の仲間は? ―力不足を突きつけられて、諦めたんじゃないのか?」
残酷なほど正確に。
見てもいないのに、まるで見てきたかのように。
少年の言葉は、突き刺さるように冷たかった。
「……魔法使いは限られてるのよ。
元のパーティが解散しても、引く手数多だった……」
「引く手数多でも、誰とも正式に組めなかった。
力不足だって、自分でわかるだろ」
「……それでも需要は―」
「もういい。無駄な時間だった」
言葉を断ち切る。
そしてアイオンは女に背を向け、子どもの前にしゃがみ込み、優しい声を掛けた。
「もう、平気だよ。怖かったね」
しかし子どもは笑い続ける。
「遅くなって、ごめんね」
頭をそっと撫でる。
それでも笑いは止まらない。
「……お別れ、しなくていいの?」
その言葉に、子どもの笑みが初めて止まった。
「もう、家族には会えない。見ればわかるよ。
……きみを守ったんだろ? お父さんも、お母さんも」
賊が何を強いたのかは分からない。
だが、この子どもには傷一つない。
血がこびり付いているが、それはすべて家族のものだろう。
彼らは最後まで、守り抜いたのだ。
「……そんな家族に、そんな笑顔で別れちゃ駄目だ。泣いてもいい、叫んでもいい。
きみの顔で、お別れをしなくちゃ」
「……」
子どもは、転がされたままの家族の亡骸を見つめる。
声も出さず、ただ、じっと。
そして―。
#
泣き疲れて眠った子どもを床に寝かせる。
この家族に、アイオンができることは、もう埋葬だけだった。
土は柔らかい。穴を二つ掘るのに、苦労はない。
苦痛に歪んだ亡骸の目を閉じ、丁寧に土へ還していく。
髪を一房ずつ切って、丁寧にまとめた。
「……そんなことしたって、あなたの自己満足でしょ」
女の声に目もくれず、埋葬を続ける。
やがて終わり、アイオンは手を合わせた。
そして、ぶつぶつと呟く女へと歩み寄る。
「この人たちの荷物は?」
「……知らないわよ」
「護衛対象だったんだろ。見覚えくらいあるはずだ。どこに置かれてる?」
「……この洞窟のどこかだと思うけど」
それだけ聞いて、歩き出す。
女は慌てて後を追う。
狭い洞窟の奥に、乱雑に積まれた荷物と武器。
散らばる金。略奪の痕跡。
(デオール領主も、冒険者ギルドも、馬車組合も……何もせずに放置した。
……だから調子に乗った。バルナバではこんなことはなかった。
恐らく、スパール付近での―)
「どれだ?」
「……たぶん、それ」
女が指差した二つのバッグを手に、子どものもとへ戻る。
その背に、女が慌てて呼び止める。
「ちょ、ちょっと待って! これ、どうするの? 大金よ!」
「どうでもいい」
「どうでもって……賊の所持品を得る権利は討伐者に―つまり、あなたにあるのよ?」
「尚更どうでもいい」
歩き去ろうとするアイオンを、女は必死に引き止める。
「バカなの!? 放って行くなんて! ……わかったわ。後で取りに来る気でしょ!?」
「そんな気はない。馴れ馴れしくするな」
アイオンは振り返り、冷たい目で女を見る。
「俺はお前をどうこうする気はない。
だが冒険者には戻れないだろ。
メリッサさんはギルド員で、お前の名を知っている。
賊に命乞いして仲間になった冒険者が、戻れるはずがない」
「……仕方なく……!」
「それが通じるか、よく考えろ。
……お前にもう、用はない。関わるだけ無駄だ。
覚えておけ。次に俺に火を向けたら、容赦しない」
女は足を止め、掠れた声で何度も呼びかけた。
「待ってよ! お願い、ちょっと―」
だが、アイオンは振り返らない。
歩幅を崩さず、子どもの側へ戻るために足を進めるだけだった。
その背中がゆっくりと洞窟の闇に溶けていくのを、女は茫然と見送る。
焦燥と怒りが混ざり合い、言葉が喉から荒々しくこぼれ落ちる。
「なんでもかんでも分かってるように! 偉そうに……!」
声が震え、唾が飛ぶ。
女は必死に食いつこうとするが、もはや届かない。
「私の何が……! 生きることを望んで、何が悪いっていうのよ!!」
その罵声は洞窟の壁に跳ね返り、短く、しかし切実に響いた。
やがて震えた息だけが残り、女は膝を落として、声を絞り出すように息を吐いた。
振り向かない背中は、もう見えなくなっていた。
#
アイオンは、泣き疲れて眠る子どものもとへ戻った。
そっと抱き上げ、その小さな体温を胸に抱きしめながら、静かに歩き出す。
イスラたちのいる場所へ向かう足取りは、ひどく穏やかで――それでいて、確かな重みを帯びていた。
(……笑える。死を望んでいたくせに……生にすがる人間の姿に苛立っているなんて)
吐き出した自嘲は、誰の耳にも届かず、冷たい夜気にかき消されていく。
(俺はなにを重ねた? あの女に。
……自分勝手に俺を産み落とし、ゴミ部屋に放り捨てた“本当の母親”か?
……尚更、笑える話だ)
今世の母セアラは、あまりにも真逆だ。
優しく、強く、温かく、手を差し伸べてくれる。
家族も皆、かけがえのない存在だ。
それでも、不意に蘇る。
前世の残滓が。
血だけが繋がっていた、あの母親が。
(自分の欲を優先する醜い女。……結局、どこまでいってもついてくる。
俺は一生、あいつらの影から逃げられない)
――それでも。
逃げられなくても、背負い続けても、歩くしかない。
消えることのない傷を抱え、それでも生きていくしかない。
やがて、東の空が淡く染まり始める。
闇は終わりを告げ、静かな朝が訪れる。
夜の底を越えてなお歩く者の背に、新しい光が差し始めていた。




