闇に紛れて
女を引きずりながら森を進む。
月明かりが差し込むのはわずかで、鬱蒼とした枝葉が音を吸い込んでいた。
「――なんで、戦わなかった?」
「……え?」
「あの程度の賊、普通の冒険者ならどうにでもできただろ? ゴブリンと変わらない動きだったぞ?」
問いかけに口ごもる女を見て、ため息をつく。
「ランクは?」
「……Dです。私たちは……パーティといっても長く組んでたわけじゃなくて。オルド支部長のランク評価でCから落ちて、元のパーティが解散して……仕方なく組んで依頼をこなしてただけなんです。……だから、結束感はなくて、急な事に対処できなくて……」
「それで、前衛がやられて命乞い……か。他のメンバーは?」
「遊ばれて……死にました。私は、魔法使いだから仲間になるならと、生きる事を許されました……」
その一言で場が凍ったのを感じた。
(こ、怖い……! なんでこんな……。いくら才能があっても、こんな子どもが出す空気じゃない……!)
空気は徐々に戻っていく。
しかし、二人の間の空気が変わる事はなかった。
時折行き先を教え、また黙り進む。
――そして。
「……あそこです」
女が小さくつぶやく。
震える指先が示す先には、木々に隠れるように建てられた粗末な小屋があった。
丸太を組み合わせただけの、粗悪な住処。
だが煙突からは煙がかすかに上がり、賊が中に潜んでいるのは明らかだった。
アイオンは女の肩を掴み、低く言った。
「中は何人いる?」
「……たぶん四人?」
「ふざけてるのか?」
「見張りは二人だけです! 中は……わからない」
答え方が曖昧だ。
だがその怯えた目に、嘘を混ぜている様子はない。
アイオンは女の口を布で縛り、木の幹に縛り付けた。
「逃げたところでどうにもならないだろうが、大人しくしてろ」
そう言い残し、小屋へと身を沈めていく。
近づけば、軋む床板を踏む音と、酒をあおる笑い声が夜気に漏れていた。
(……油断してるな)
当然だろう。
襲われるなんて少しも思ってない。
小屋の前には焚き火があり、その脇に二人の賊が座り込んでいた。
槍を抱えたまま眠りかけている。
アイオンは深く息を吸い、影のように地を滑る。
一歩、二歩。
背後に回り込むと、ためらいなく剣を抜き、一人の喉を斬り裂いた。
血飛沫が炎に散るより早く、もう一人の口を塞ぎ、腹に刃を突き立てる。
呻き声が途切れる。
焚き火の赤だけが揺れていた。
(中は……?)
耳を澄ます。
だが賊たちは、まだ酒盛りに夢中らしい。
アイオンは焚き火を蹴り消すと、闇の中に身を潜めた。
月明かりの下、静かな殺気だけが広がっていく。
小屋の戸口に手をかける。
軋む音と共に扉を蹴り破ると、酒臭い空気が弾け飛んだ。
「なんだぁ!?」「外か――!」
驚く声。立ち上がる椅子の音。
だが賊たちが武器を抜くより速く、アイオンはすでに踏み込んでいた。
消える身体強化。
影が走り抜け、最も近い男の首が飛んだ。
鮮血が卓上の酒瓶を濡らす。
「な、なんだぁっ!?」
短剣を構えた男が叫ぶが、返す間もなく剣閃が閃き、肩から胸を深々と裂かれた。
残る二人のうち、一人は狼狽えて後退し、もう一人――体格の良い、鎧をまとった男だけが動じなかった。
「ちっ。……まともな冒険者か?」
低い声。
腰の曲刀を抜き放つと、鋭い踏み込みで斬りかかってくる。
ギリ、と火花。
アイオンは片手で受け流し、その勢いを利用して身体をひねる。
相手の腕に力が籠った瞬間、逆に足を払った。
「ぐっ!」
鎧ごと床に叩きつけられる。
ボス格は苦悶の声を上げながらも即座に反撃し、寝転んだまま曲刀を振り上げた。
だが――空を裂くだけだった。
アイオンの姿は掻き消えている。
「ど、どこだ……!?」
闇の中に震える声。
背後から、冷たい息がかかった。
「――残念でした」
次の瞬間、鋭い一撃が首筋を断ち切った。
鎧ごと男の身体が傾き、床を赤に染める。
残された最後の一人は、目の前の惨状に声も出せない。
必死に出口へ逃げようとした瞬間、風が走り抜けた。
その背に刃が突き立ち、呻き声も短く絶えた。
小屋の中は、静寂を取り戻した。
血と酒と煙の匂いだけが充満する。
アイオンは床に転がる死体を見下ろし、短く息を吐いた。
(……こいつらだけじゃないな。少なすぎるし、家族は別の場所か)
剣を払って鞘に納め、無造作に扉を蹴り開ける。
夜気が流れ込み、血臭を薄めていく。
「わかってるだろ? 案内の続きをしてもらう」
木に縛ったままの女に視線を向ける。
怯えた目が、炎に照らされた彼の影を見つめ返していた。
そんな様子を気にもとめず、アイオンは続ける。
「どこにいる?」
女は震える唇を噛みしめ、うつむいたまま答えた。
「……洞窟の中で……遊ばれているのを……最後に見た」
アイオンは言葉を返さなかった。
ただ無言のまま女の腕を掴み、引き上げる。
「ひっ……」
女が怯えても、歩みを止める気配はない。
アイオンの瞳は暗闇に釘付けになっていた。
燃えさしの松明がまだいくつか残っている。
足跡も、血の染みも、奥へと続いていた。
「前を歩け。案内しろ」
低く、短く告げられる。
女は拒めなかった。
肩を震わせながらも、洞窟へと進む。
アイオンはその背を睨むように見据え、片手で剣を緩やかに下げたまま、静かに後に続いた。
#
洞窟の空気は湿り気を帯び、奥からは男たちの笑い声が響いていた。
その声の元へ、足音を殺しながら、一歩、また一歩と進んでいく。
「へっ、長く持ったが、さすがに死んだみたいだな」
「女は残しとけって言われてたろ。ガキ一匹じゃ値はつかねぇぞ?」
「うるせぇな……。どこまで耐えられるか試したかったんだよ。『この子だけは〜』なんて言うからよ」
「人でなしのろくでなしだよお前は!」
笑い声が岩肌に反響し、洞窟そのものが薄汚れた欲望を吐き出しているかのようだった。
女は顔を覆い、肩を震わせる。
血の気が抜け、今にも崩れ落ちそうになる。
アイオンは無言でその腕を掴み、壁際に押しやった。
そして静かに囁く。
「ここで大人しくしてろ。いいな?」
女は頷く事しかできなかった。
剣を握る手に、冷たい殺意が宿る。
一切の迷いも、ためらいもない。
――あんな連中、生かしておく理由はない。
奥から響く下卑た笑いが、なおも続いていた。
腐った欲望に塗れた声が、闇に響き渡り、なおも獲物を弄ぶ獣のように。
アイオンは奥へと進んだ。
松明が遠くで揺れ、賊たちの下卑た笑いがまだ残響としてぶら下がっている。
だがその笑いは、やがて不穏な沈黙へと飲まれていった。
アイオンは音を立てず、影に紛れて動いた。
岩の冷たさが手のひらに伝わる。
息は速くない。だが確かに、胸の奥では何かが静かに鎮まっている。
最初に声を上げたのは、奥の方で酒瓶を抱えていた男だった。
「おい、なんだ――?」
返事はない。代わりに、闇の側から低い音が聞こえた。
足音ではない。空気が押しつぶされる、重い気配だ。
男の笑いは途切れ、喉から出たのはかすれた息だけだった。
アイオンは、振り向くことを許さなかった。
ゆっくりと、確実に相手の視界を奪うように移動し、男の背後へ回り込む。
手のひらが、柄の感覚を確かめる。刃先に力を乗せ、闇に沈む。
「なんだ……っ? なにが……!?」
慌てた声が洞窟にこだまする。
だが、アイオンは相手の恐怖が膨らむのを楽しんだりはしない。
じわり、じわりと、希望を削ぐように距離を詰める。
一閃。短く、鋭い音だけが走る。
男が崩れ落ちる。呻き声が切り裂かれ、洞窟の闇が再び取り込む。
だがその声も、すぐに細く消えていった。
残りの二人はようやく、事の重大さを理解したらしい。
火の光の揺らぎを頼りに、武器を振り上げる。
しかしアイオンは動じない。
彼は姿を見せず、存在だけを押しつける。
壁の影から影へ、音もなく現れては消え、確実に一人を追い詰める。
賊の叫ぶ声に、アイオンは答えない。
代わりに、彼らの背後で小さく何かを鳴らす。
――それは足音でも刃音でもない。
まるで氷が音もなく割れるような、静かな気配だ。
男たちの動揺は増し、呼吸は浅く速くなる。
息遣いだけがやけに大きく、洞窟の壁に反射して跳ね返る。
アイオンはその音を確認してから、確実に動いた。
刃は短く、逃げ場のない場所へと相手を追い込む。
一人、また一人。倒れるたび、賊たちの顔からは色が失せていった。
叫びはするが、そこに対峙する勇気はない。
アイオンは相手の目を直視し、殺意を見せつける。
だが同時に、それは何度も機を与えない冷徹さでもあった。
ゆっくりと、確実に。恐怖が彼らの体を蝕み、最後の抵抗を奪う。
最後に残ったのは、わずかに年長で体格の良い男だった。
彼はわずかに身を引き、曲刀をぎこちなく構えた。
挑発する余裕もなく、ただ必死に生き延びようとする目だ。
アイオンはその目を、しばらく見返した。
炎の光が彼の顔を赤く照らし、短く影を落とす。
唇は動かさない。次の瞬間、冷たい風のように彼は間合いを詰め、ためらいなく刃を振るった。
男の叫びは短く、思い切りの良い終わりを告げた。
洞窟は再び静寂に戻った。
下卑た笑いも、冷たい嘲りも、そこにはもうない。
床に転がる者たちの息は次第に弱まり、やがて止まる。
血の匂いが湿った土に混じり、洞窟の暗がりにゆっくりと溶けていく。
アイオンは一度だけ、周囲を見渡した。
死体の間に、無造作に落ちている酒瓶、裂けた布、狂気の跡。
だが彼の視線はすぐに先へ向かった。
遠くから、微かになにかが断続的に聞こえる。
助けを求める声か、あるいは囚われた者の泣き声かもしれない。
彼は無言で、女を引き寄せ、さらに洞窟の奥へ進む。
血溜まりを歩く音が反響する。
#
血の匂いが濃くなる。
賊の死体を踏み越え、アイオンはさらに奥へと進んだ。
薄暗い洞窟の一角――鉄格子で仕切られた小さな部屋。
そこに、血と汚物にまみれた人影が折り重なっていた。
「……っ」
女が喉を震わせる。
近づくにつれ、視界に映るものが鮮明になる。
大人たちはすでに事切れていた。
痛みと恐怖に歪んだ顔を晒し、力なく倒れている。
その傍らに、小さな体が一つ――。
アイオンは剣を収め、鉄格子を蹴り飛ばした。
錆びた金具が砕け、鈍い音を立てて転がる。
重い沈黙の中で、ただ一人、幼い子どもがこちらを見ていた。
血に濡れた体。暗い瞳。
その顔には涙も怯えもなく、口元だけが無邪気に歪んでいた。
「……子ども、か」
アイオンが低く呟く。
次の瞬間、女は吐き気を覚え、後ずさった。
子どもの瞳は虚ろで、何かを映しているようで何も映していない。
笑っている――。
家族の亡骸を背に、ただ、ひたすらに。
「や、やめて……見たくない……っ」
女が目を覆おうとしたその瞬間、アイオンの手が伸び、髪を乱暴に掴んだ。
「――よく見ろ。お前が選んだ事の結末を」
無理やり顔を持ち上げられ、女は子どもと目を合わせる。
その顔は張り付いた笑みを浮かべていた。




