狙われた馬車
朝靄の中、馬車は静かに街道を進んでいた。
吐く息は白く、冬の冷気が肌を刺す。
やがて境界を示す木標が現れる。
ここから先はデオール領だ。
「ここからは気を引き締めてくれよ」
御者が手綱を握りながら短く声をかける。
領を越える瞬間、自然と背筋が伸びるのだろう。
護衛を任されているのは2人。
腰に剣を差したアイオンと、外套を羽織ったイスラだ。
2人はパーティではなく、同じ依頼を受けただけの同行者にすぎない。
「アイオン、右側を警戒して。林が深い、何か潜んでいてもおかしくない」
イスラは淡々と指示を出す。
昇格依頼を兼ねた任務のため、指揮は彼女が握っていた。
アイオンもそれに納得している。
依頼にかける彼女の熱量は本物で、任せても問題ないと思えたからだ。
「承知しました、イスラさん」
応じたアイオンは視線を林の奥へ送り、剣に手を添える。
冬の冷気に身を引き締め、その姿には護衛としての覚悟が漂っていた。
馬車に乗るのは3人。
御者の背を見つめる年配の男、若い女。
そして、アイオンの隣に座るメリッサ。
彼女は冒険者ギルド員で、戦闘能力はない。
だが静かな眼差しは常に周囲を観察し、アイオンの動きを淡々と見極めていた。
(さて、魔物相手は問題ないけど…人を相手にしても、躊躇なく刃を振れるのかしら?)
"ギルド専属冒険者"となれば、契約魔法で縛られ、非道な依頼すら強制される事がある。
それに耐えられるか――精神性をメリッサは見たかった。
(オルババ村でも賊を相手にしたそうだけど、聞いた話よりも自分の目で確かめた情報が欲しいのよね。…スパールまでの道で賊被害は増加傾向にある。…とはいえ、私が巻き込まれては困るけど)
冷たい眼差しの奥では、すでに打算が巡っていた。
アイオンとイスラのやりとりに耳を澄まし、小さな情報からでも彼の評価を更新していく。
(現状は――"とてつもない素質を秘め、現段階でオルド支部長が認めるほどの身体強化を使えるが、他者に甘い子ども"。…修正できる部分は少しずつ矯正していくしかないわね)
メリッサにとって、彼は操るべき駒。
何が適して、何が相応しくないのかを誘導していくつもりだった。
だが――アイオンという人間は、そう簡単に操れる存在ではない。
それを知る者は、この場所にはいなかった。
#
道の両側には冬枯れの林が続き、枝の隙間から冷たい風が吹き込む。
雪はまだ降っていないが、霜の降りた地面や凍った落ち葉が、踏みしめるたびかすかに音を立てた。
フィギル領の穏やかな草原とは違い、この土地には不穏な気配が漂っている。
遠くで獣の声が響き、木々の影が揺れた。
やがて森林沿いの街道を抜け、草原を横切る道に出る。
アイオンは剣に手を添え、風の流れを感じながら慎重に周囲を見渡した。
小さな異変も見逃さず、即座に対応するために。
(…イスラさんの調べでは、この区間での被害率は高い。けど、命までは奪われず、金銭だけを狙っている。冒険者に返り討ちにされる例も多いし、精強な集団ってわけじゃない)
破滅的な被害を出せば、冒険者ギルドが本腰を入れて壊滅させに来る。
だからこそ、命は奪わず金だけを取る。
攫いもしない。
結果として、護衛を増やして防ぐ程度で済む。
御者席に目を向ける。
おっかなびっくり馬を操る背中は、とても熟練には見えなかった。
(あまり慣れてるようには見えないな…)
2人の乗客も身を強張らせながら、その背を見守っていた。
(…格安だったって話してたけど、雪が降ったら移動時間は延びるし…妥当かな)
視線を向かいに座るイスラへ移す。
彼女は警戒を崩さず、周囲を観察していたが、表情には不安の色があった。
(昇格依頼にしても、もっと安全なものはあったはずだ。調べてく内に危険な移動になるってわかってたろうけど)
それでも彼女はこの依頼を選び、襲われる場所に目安を立てて注意していた。
(それだけ昇格依頼は大事ってことか。…一人で挑んでたら大変だったろうな)
アイオンの中でイスラに対する評価が上がっていた。
(あの覚悟、俺も見習わないと!)
気を引き締め、警戒を続ける。
しかし拍子抜けするほど何も起こらず、馬車は淡々と街道を進んでいった。
#
林の奥、薄闇の中に潜んでいた賊たちが馬車を睨んでいた。
「護衛は2人だけか。一人は女、もう片方…も女か? ちょろいな」
「夜になればどうせ馬車も止まる。いつも通り、そこでいただくとするか」
低い笑い声が漏れ、冬の冷気に混じって獣じみた気配が漂う。
その背後、木の根元に女がうずくまっていた。
ぼろ布同然の外套に包まれた痩せた顔には、消えぬ恐怖が張り付いている。
彼女は3日前、この付近で賊に襲われた乗合馬車の護衛パーティ、その生き残りの魔法使いだった。
仲間を売り、必死に命乞いをして、ただ一人、生かされた。
「…あ、あの子は危険です。異例のCランクスタートの――」
震える声を、賊の一人が鼻で笑った。
「うるせぇな。お前に話す権利はねぇ。黙って言う通りにしてりゃいいんだ」
もう一人も吐き捨てるように続ける。
「てめぇは使い道があるから置いてやってるだけだ。飯の世話と後始末。―体が貧相で良かったな! あいつらがいなきゃ、そっちも使ってたのに!」
女はうつむき、唇を噛んだ。
悔しさも惨めさも、とうに声にはできない。
ただ怯えた目で、街道を進む馬車を見つめるしかなかった。
吐く白い息と共に、その影は夕闇へと沈んでいく。
襲撃の刻は、確実に近づいていた。
#
街道を進んでいた馬車は、やがて開けた場所で止まった。
日はすでに西の森に沈みかけ、淡い紫の空に白い月が浮かび始めている。
「ここが野営に一番良いと思います」
イスラの声に頷く御者。
御者が息を白く吐き、馬を木につなぐ。
冬の冷気が一気に肌を刺し、吐息すら音に変わりそうな静けさが広がった。
野営の火がともると、揺らめく炎が人々の顔を赤く照らす。
イスラは剣を傍らに置きながら、短く言った。
「夜番を交代で立ちましょう。2人で見張りを続ければ、隙はできないはず」
「わかりました」
アイオンは即座にうなずき、火の向こうに広がる林を見た。
霜をかぶった落ち葉の奥、深い影の中で何かが動いている気がする。
気のせいだろうか?
だが胸の奥で、確かに警鐘が鳴っていた。
メリッサは焚き火から少し離れ、外套をかぶったまま腰を下ろしていた。
目を閉じているように見えたが、耳は僅かな物音を拾い、視線は常に護衛の2人を追っている。
(来るわね。おそらく今夜…)
炎に照らされた横顔には不安の色はなく、冷ややかな計算だけがあった。
2人の乗客――年配の男と若い女は、固く身を寄せ合っていた。
「大丈夫だろうか…」と男が呟けば、女は声も出せずにうなずくだけだ。
ただ夜明けを願うしかなかった。
アイオンは剣の柄に指をかけたまま、焚き火の向こうの闇を見据える。
白い息が、寒気に混じって細く揺れた。
(スパールまで残り2日ほど。過去被害が出ていた場所からは距離はあるけど、狙われてるんだとしたら、もう意味はない。守りきらないと)
その静かな決意とは裏腹に、林の奥では確実に影が蠢いていた。
獣じみた気配が、夜風に溶けて近づいてくる。
襲撃の刻が―もうそこまで迫っていた。
#
林の奥。冷えた土の上に膝をつき、女は焚き火の赤を遠くから見つめていた。
街道脇の開けた場所で、護衛たちが野営の準備を進めている。
(…私は生き残った)
あの日から、ずっと考えている。
なぜ自分だけが助かり、仲間は皆、あっさりと凌辱の果てに殺されたのか。
(私が魔法使いだから…それだけの理由。あの子たちにはない価値があったから…)
思い出すたび、胸の奥で罪悪感が膨らむ。
自分だけ助かったことを恥じ、惨めだと思う。
けれど結局―我が身のために頭を垂れ、賊に従うしかない。
罪悪感も悔しさも、すべて「生きたい」という欲に押し潰されてしまうのだ。
(私は生き残った。これからも生き抜く。そのためなら、何だってする…!)
それも全て、自分を正当化する言い訳なのだが。
背後で賊の一人が低く笑う。
「チャンスは今夜だ。護衛は女2人、どうとでもなる。雪が降れば俺たちを探すのも面倒だし、ギルドも動かねぇ」
「ま、待って! あの黒髪の子は危険よ! オルド支部長が認めた逸材なの! それに、男の子よ!」
女は必死に声を上げた。
次の瞬間、後頭部を乱暴に押さえつけられ、土に叩き伏せられる。
「うるせぇ、黙ってろ」
耳元で荒い声が吐き捨てる。
「ド田舎に飛ばされた奴が認めた程度だろ。たかが知れてる。お前は余計なこと考えず、火魔法で援護すりゃいい。…わかったな?」
女は唇を噛み、震える体を抱きしめた。
涙は零れそうで零れない。
ただ、恐怖だけが胸を支配していた。
(怖い…怖い…死にたくない…!)
林を抜ける風が頬を刺す。
焚き火の赤は、処刑台の灯火のように揺れていた。
その炎の向こう。黒髪の少年たちは、まだ何も知らない。




