番外編 故郷、最後の夜に
焚き火の赤が揺らめき、冷え込む夜気をわずかに追い払っていた。
ここはフィギル領とデオール領の境界にある最後の野営地。
バルナバからの馬車はここで夜を明かし、明日には再び道を進む。
野営地の周囲では、フィギルの私兵たちが警戒のために立っていた。
彼らが番をしている以上、大きな不安はない。
だが油断は禁物だった。
そのため、馬車の護衛役のアイオンとイスラは交代で見張りにつくことにしていた。
今はイスラの番で、外套を羽織り馬車の影で休んでいる。
アイオンが剣を腰に焚き火から少し離れた場所に立ち、夜の気配を探っていた。
焚き火の傍らでは、乗合馬車の御者と二人の乗客が談笑している。
メリッサはその少し離れた場所に腰を下ろし、外套に身を包みながら黙って休んでいた。
旅人の一人として、炎の温もりを静かに受け入れているようだった。
吐く息は白く、季節は秋の終わりから冬の始まりへと移り変わっていた。
雪はまだ降らないが、空気は凍えるほどに冷たい。
――できれば雪が降る前に、目的地のスパールへ辿り着きたい。
アイオンは夜気に揺れる草原を見渡し、指先を剣の柄に軽く添えた。
闇の奥を見据えるその瞳には、旅の終わりまで緩めぬ覚悟が映っていた。
焚き火のはぜる音が、夜気の中に小さく響く。
私兵の交代の声も、馬車の中から漏れる寝息も、すべてが静けさの一部となっていた。
アイオンはひとり、冷たい空気を胸いっぱいに吸い込む。
こうして立っていると、時折、前世の記憶がよみがえる。
誰とも関わらず、ただ生きていただけの日々。
施設の窓から見上げた灰色の空。
そこを飛び出して得た世界は、また別の孤独。
同じ食事、同じ会話、同じ繰り返し。
出口のない毎日を、ただ息をしてやり過ごしていた。
――けれど今は違う。
視線を落とすと、左手首に革紐のブレスレットが光を受けた。
妹ナリアが不器用な手つきで編んでくれたもの。
中指にはカーラから贈られた細い指輪がはまっている。
どちらもささやかな品だが、どんな宝石よりも重みを感じる。
(……俺はもう、あの頃の俺じゃない)
呟きは夜に溶け、焚き火の赤に照らされる。
守るべきものがあり、待ってくれる人がいる。
それだけで、この旅の寒さも、孤独も、恐怖も越えていける気がした。
過去の灰色を胸の奥底へ押し込み、確かに歩むべき未来を見据える。
――世界を見る。
恐れも迷いも抱えたまま、それでも必ず世界を見せる。
焚き火の光に照らされたその眼差しは、揺らめく炎よりも鋭く、確かな決意を宿していた。
そしてふと、夜空を仰ぐ。
無数の星々が、静かに瞬きながら見守っている。
まるで「行け」と背を押すように月明かりが白く道を照らしていた。
アイオンの故郷、オルババ村があるフィギル領地。
そこで過ごす最後の夜は、ゆっくりと過ぎていった。




