番外編 雷轟
ククルス自由経済国家。
それは大陸の海と陸をつなぐ交通の要衝に生まれた、交易と自由の国である。
もとは周辺大国の支配を嫌った小国と、各ギルドが手を組み――
王や貴族を排した「商業の同盟」として始まった。
国を治めるのは王でも領主でもない。
都市の代表、巨大商会の長、そして各ギルドのトップたちが集う「商業連合議会」。
金と影響力を持つ者ほど発言力が強く、豪商たちはいつしか「経済貴族」と呼ばれるようになった。
国という形を捨てたはずなのに、貴族という概念が再び支配する――歪な国。
自由経済を掲げるこの国は、大陸中の商人や冒険者を惹きつける。
港湾都市には異国の文化があふれ、銀行や保険、傭兵契約の仕組みまで整えられている。
その仕組みが他国にも伝わり、今日の冒険者ギルドなどの繁栄を支えている。
だがその一方で、賭博場や奴隷市場、密輸を生業とする闇の組織もまた栄えていた。
各国の王族や貴族もどっぷりと浸かる――その沼の大本が、この国に巣食っている。
軍事力は傭兵に依存するが、海軍だけは例外だ。
他国との交易路を守るため、港湾都市には強力な艦隊が常駐している。
ゆえに周辺諸国は、この国を「必要悪」と呼ぶ。
経済的に依存せざるを得ず、手を出せば自国も痛む――そんな存在である。
理念は自由。
しかし、富を持たぬ者にとってこの国は決して優しくない。
貧富の差は極端で、煌びやかな広場の裏には飢えにあえぐ路地裏が広がっている。
それでもなお、商人はここに集う。
誰もが夢を見る。
「成功する者は己の才覚によってのみ選ばれる」
――そう信じさせる力が、この国にはあった。
#
そんな国の北方にそびえるのが、ヘルケイル山である。
切り立つ断崖と岩肌の峰は古来より人を寄せつけず、山頂は常に黒雲に覆われ、雷鳴が空を裂いていた。
この山は、ワイバーンの群れの棲み処として知られている。
鋭い翼音が空を切るたびに、周囲の村々は怯え、旅人は街道を避けて通る。
ときに麓へ降り立った個体が家畜をさらい、人を襲うこともある。
ゆえにこの山は、冒険者にとって試練の地であり、同時に死地でもあった。
“禁足地”のような明確な境界はない。
腕が立てば踏み入ることもできる。
だが山中には、いまだ誰も足を踏み入れぬ谷が数多く残されていた。
雷に焼かれた焦土、風に削られた巨岩の迷路、そしてワイバーンの巣が点在する空白地帯。
一方でそこには、希少な鉱石や薬草が眠っており、命を賭けて挑む者が後を絶たない。
ヘルケイル山は、自由経済国家の繁栄を支える「恐怖」と「富」の象徴。
人々はその稲光を畏れながらも、稲妻に照らされた峰を見上げるたび、いつの日かそこに挑まんとする野心を掻き立てられるのだった。
そのヘルケイル山に、ひとりの女がいた。
赤毛の双剣使い――ライア。
雷鳴と竜翼が交錯する嶮しい道を、彼女は迷いなく進んでいく。
(相変わらずクソみたいな環境ね……もう少し下で暮らしなさいっての)
内心悪態を吐きながらも歩みは止まらない。
途中、ワイバーンに襲われたが、彼女にとっては障害にもならなかった。
目指すは“雷轟”の住処。
かつて「最強」と呼ばれた冒険者にして、ライアの師。
大槌を振れば地を裂き、笑えば酒場を揺らす豪放磊落な男。
今は人里を離れ、この危険な山を住処としている。
人々にとっては畏怖の存在だが、ライアにとっては唯一無二の師だった。
今回ここを訪れたのは、ただ旧交を温めるためではない。
彼女には一人の弟子がいる――アイオンという少年だ。
その名を師に伝え、こう告げるために。
――いつか、この山に私の弟子が来る。その時は、どうかよろしく。
たったそれだけのこと。
だが、大事なことだった。
なんせ豪快な師と、他人に無関心な弟子だ。
確実に、面倒な出会いになる。
見える困難を回避させるのも、師の役目だと思った。
(笑えるわね……少しも合う気がしない)
いずれ訪れるであろう師と弟子の出会いを想像し、思わず笑ってしまった。
#
稲光が峰を裂き、轟音が大地を揺らす。
その只中、ライアは険しい岩道を一歩ずつ登っていく。
空を舞うワイバーンの影が頭上をかすめたが、眉ひとつ動かさず、ただ前を見据えていた。
既に何度か襲われたが、問題なく倒した。
それにより、彼らに敵と見なされることもない。
――狩られる方が悪い。
上級の魔物によくある本能だった。
やがて、岩壁を抜けた先に広い平地が開ける。
その中にポツンと立つ丸太小屋が見えた。
(やっと着いた。お腹減ったわ)
呼吸を整えながら歩を進める。
良い鍛錬にはなるが、やはり面倒な道のりには違いない。
近づいていくと、小屋のそばに人影があった。
息災なのはわかっていた。殺しても死なない男だ。
声が届く距離に近づくと、山と同じほどの存在感を放つ男が立っていた。
厚い胸板、荒々しく伸びた髭、そして雷鳴にも負けぬ豪快な笑み。
(いつから気づいてたのかしら。相変わらずの化け物っぷりね)
「おう、ライア! こんな天気に山まで遊びに来るとはよ。――相変わらずだな!」
“雷轟”。
かつて「最強」と呼ばれた冒険者にして、ライアの師。
世を離れて久しい今も、その眼光は衰えず、笑声は山を震わせていた。
ライアは胸に手を当て、深く息を整える。
そして真っ直ぐに師を見上げた。
「久しぶりね。元気――なのはわかってたけど、相変わらず衰えてないみたいで安心したわ」
焚き火の向こうにあるのは巨大な肉の塊。
山頂付近に棲むワイバーンの肉だろう。
「ちょうどよかったわ。私の分も用意してくれる? お腹減っちゃって」
「おいおい! ルールを忘れたのか?」
「そんなわけないでしょ、はい」
ライアは腰のバッグから肉を取り出す。
道中戦ったワイバーンの肉だ。
「かぁー! 小ぶりじゃねえか! 腕落ちたか?」
「山中で襲ってくるのなんて大した脅威じゃないわよ」
「にしてもこれって。まぁ、上物は山頂近くまで行かなきゃ出ねぇか」
「……これでもB級の肉でしょ。ここより上なんて疲れるだけだわ」
「Bなんざ鼻くそと同じだっての! まぁいい、座れ」
焚き火の傍の丸太に腰を下ろす。
雷轟に合わせてライアもため息をつきながら座った。
#
「お酒は?」
「生意気な客だな……」
雷轟は丸太小屋に入り、酒瓶を数本抱えて戻ってくる。
一本をライアに放り投げた。
「コップは?」
「いらねぇだろ! 文句あんなら自分で持って来い!」
雷轟は肉を切り出し、豪快に頬張る。
毎日食べているはずなのに、まるで初めて味わうかのようだ。
ライアは自分の肉を炙り、一口。
調味料ひとつ使っていないのに、驚くほど旨い。
彼の自作の酒を流し込み、満足げに頷いた。
「相変わらず、最高ね」
「へっへっへ! そりゃあこのためにここにいるんだからな!」
「毎日食べてて飽きないなんて、よっぽどね」
「たま〜に雷鳥なんかもいるし、果実も合わせて食ってる! だが、やっぱり何もなしのこれに勝る味はねぇ!」
酒をあおり、肉を食らう。
狩ってきたのはA級のワイバーン。
その旨味を存分に楽しむ彼の姿に、ライアは苦笑を漏らした。
「――で? なんの用だよ?」
「用がなければ、弟子が師に会いに来ちゃいけないのかしら?」
「んなことはねぇけどよ! ……お前、どっかで再起を図ってたんじゃなかったか?」
「あら、覚えてたの? フィギル地方よ」
「……ああそうだ! ローズレッド王国の外れの、“禁断の森”がある場所だな?」
「――そうよ。そのおかげで、Bランクまで戻れた」
雷轟の眉がわずかに動く。
「Bランクだぁ? 堕ちた冒険者が這い上がるには、何年かかると思ってる」
雷轟の声が低く響く。
「ましてお前がAからDに落ちたのは、王国絡みの依頼のせいだろ。まともに考えりゃ再起なんざ――」
「――不可能、でしょ?」
ライアが言葉を継いだ。
「そうね。普通なら無理。でも、私は運が良かったのよ」
「――なにをした?」
雷轟の目が鋭く光る。
それは、弟子を案じる師の顔ではない。
狩人のような、警戒と疑念の眼差しだった。
「取引でもしたのか? ギルドか? 王族か? それとも――女神教か?」
その声に、空気が揺れた。
雷鳴の轟きよりも重く、怒気を含んでいる。
冒険者ギルドは、かつて彼の誇りを奪った。
王族は、いざこざに弟子を巻き込み、すべてを失わせた。 女神教に至っては――その全てを腐らせた。
彼は、消えることのない怒りを抱えていた。
ライアはそんな師の顔を見て、ふっと笑った。
「なにがおかしい?」
「別に」
軽く酒をあおり、静かに息をつく。
「安心して。フィギル子爵からの、難易度S級の緊急依頼を受けたの。それをクリアしただけ」
「S級? あんな地で? お前、まさか――!」
「流石の勘の良さね。そう。“禁断の森”に入って、“赤い薬草”を採取する依頼よ」
「――馬鹿野郎!!」
雷轟の怒声が大地を震わせた。
稲妻が走り、空が割れる。
「昔から言ってただろ! あの地には関わるなって! どれだけ腕があっても入っちゃならねぇ!
“禁足地”のことは、このアストライアのガキでも知ってる! なのにお前は――!」
「落ち着いて。――入ってはいないわ」
「――はぁ?」
気の抜けた声が漏れる。
雷轟の表情から怒気が抜け、ぽかんと口を開けた。
「Bランクになったんだろ? 依頼を達成したって言ってた。入ってないって、どういう意味だ」
「それを話すことはできない。契約を結んでるから」
「はぁ!? なんだそりゃ!」
「いろいろと複雑なの。――それに、これは本題じゃないの」
「ほ、本題じゃない……だと?」
雷轟が目を瞬かせる。
意味がわからない、という顔だ。
「こ、こんな話が本題じゃないって、じゃあなんだ? なんの話だ?」
そう言ってライアを急かす。
だが、ライアはゆっくりと肉を噛み、酒を飲むだけ。
“まずは落ち着け”とでも言いたげな仕草だった。
それを見て雷轟は息を吐き、同じように酒をあおった。
彼女が口を開くのを、ただ黙って待つ。
やがて、ライアは微笑み――告げた。
「――弟子をとったの」
「…………へ?」
「だから、弟子をとったの」
「……弟子?」
「そう。弟子」
「……お前が?」
「私が。それを伝えに来たの。……ランクが多少戻ったことなんて、どうでもいい話でしょ?」
酒瓶を傾ける。中身はもう少ない。
「おかわり、ある?」
「……弟子? ってことは、孫弟子ができたってことか?」
「そう。だからおかわりちょうだい」
「お前に弟子……?」
雷轟がぶつぶつと呟く。
まったく話が噛み合わない。
ライアはため息をつき、勝手に丸太小屋へ入った。
中は狭いが、整頓されている。
乱暴そうな印象の男にしては、驚くほど几帳面だった。
地下に続く階段を降り、酒瓶を数本抱えて戻る。
また焚き火の前に腰を下ろし、肉を食べながら酒をあおった。
「――弟子か。そうか。……ガッハッハ!」
雷轟が突然笑い出した。
先ほどまでの怒気はすっかり消え、山に笑い声が響く。
「そいつぁ確かに! ランクなんざどうでもいい話だ! ガッハッハ!」
酒瓶を一本、また一本と空ける。
そして丸太小屋からさらに持ち出し、陽気に尋ねた。
「で、どんな奴だ? 今日はいねぇのか?」
「いないわよ。ここに連れて来られるほどの力は、まだないわ」
「ほぉ? 年は?」
「15歳になるんだったかしら?」
「若ぇな。武器は?」
「もともとは片手剣。でも、賊が持ってた双剣の方が質が良かったからって、今はそっちを使ってるわ」
「どのくらいやる?」
「身体強化は速度重視ね。たぶんあなたより速いわ。殺気の消し方や意表の突き方、感覚での対処……それに、戦闘時の甘さを叩き直した」
「おぉ〜! ちゃんと師匠やってるじゃねぇか! だが、その年齢で俺以上は……盛ってんだろ?」
ライアは鼻で笑う。
「本当よ。しかも、私が教える前からそれはできてた。風の対外魔法も扱えるし、不思議な子なの」
「おいおい!さすがに嘘だろ? 見栄張ってねぇか?」
「私は必要のない嘘は言わないわ。知ってるでしょ?」
「そりゃそうだが」
「いずれここにも来るように伝えたわ。その時に確かめてみたら?」
「――名前は?」
ライアはにっこりと笑う。
「アイオン。オルババ村のアイオン」
「アイオン……しっかり覚えたぜ。――もっと話せよ! ほら、この肉も食え! オルババ村ってのはフィギル地方にあるんだよな?」
雷轟は興味津々に聞きながら、肉を譲る。
出会った頃以来のことだった。
彼は嬉しかったのだ。
自分に“孫弟子”ができたことが。
ライアが弟子をとるなど、夢にも思っていなかった。
それだけに、胸の奥が熱くなる。
自身が密かに憧れていた“師のさらに上”――
“大師匠”という存在になれたのだ。
その喜びを噛みしめながら、雷轟は杯を重ねた。
ライアもまた、オルババ村での日々を語る。
弟子や友と過ごした時間を思い出しながら、穏やかに笑っていた。
――そんなライアを見ていることが、雷轟は何よりも嬉しかった。
山頂を揺らす雷鳴の下、二人の笑い声が夜空に溶けていった。




