番外編 イスラ②
夜の街を歩きながら、イスラは足を止めた。
石畳に灯る油の明かりが、長く伸びた影を揺らす。
頭の中には、ギルドで見た光景が何度もよみがえる。
(……どうして)
努力してきた。仲間を失っても諦めず、降格してもめげず、必死に剣を振ってきた。
なのに――「素人」が、いきなり自分の何倍もの評価を与えられる。
拳を握り締め、唇を噛む。
(私の何を見て、評価したのよ。オルド支部長は)
――だが同時に、うすら寒い予感が胸の底でささやく。
(もし、本当にあの人が“本物”だったら……?)
考えたくなかった。
それを認めることは、これまでの自分を否定することになる気がした。
「……負けない」
吐き捨てるように呟き、イスラは剣の柄に手をかけた。
誰に聞かせるわけでもない小さな誓い。
それでも、その小ささが彼女を支えていた。
――嫉妬は劣等感の裏返し。だが時にそれは、燃える執念となって少女を前へと駆り立てる。
イスラの瞳に、迷いはもうなかった。
(必ず証明してみせる。私の方が上だと!)
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翌朝。木製のカウンターの向こうで書類を束ねていたメリッサが顔を上げ、柔らかく微笑んだ。
「あら、イスラさん。今日はどうされました?」
「依頼を受けたい。一人で」
言い切ると、メリッサの手が止まる。小さく息をつき、慎重に言葉を選んだ。
「……まだ仲間と組んだ方が安全だと思いますよ。あなたは十分頑張っていますが、単独依頼は経験豊富な冒険者でも危険です」
「分かってる。だけど、早く昇格したいの」
真っ直ぐな視線に、メリッサは一瞬だけ眉をひそめ――やがて、わずかに笑みを漏らして棚から書類を抜き出した。
「では……ゴブリン討伐と、ストーンモール討伐。この二つが一人でも受けられる依頼です。
ただし、ゴブリンは群れやすい。ストーンモールは地中から不意を突きます。過信は禁物ですよ」
「やるわ」
迷いなく用紙を指す。メリッサは肩を落とすように小さく笑い、手続きを進めた。
「報告は必ず今日中に。討伐部位も忘れずに」
「どうも」
依頼書を握った瞬間、胸の奥に熱が広がる。
仲間なしで挑む初めての戦い。
その重みを手のひらで確かめるように、イスラは受付を後にした。
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(なにを焦っているやら……まあ、問題ないでしょうけど)
メリッサは別の束を手繰る。目当ては、そこではない。
(ここら辺ね。あのカーラって子が騒いでくれれば良いけれど)
初心者向け、しかし各種依頼の基礎が詰まった案件を、アイオンに向けて複数束ねる。
(階段はゆっくり上るべき――急いで転べば致命傷もあり得る。若い冒険者はそれを知らない。だけど、彼はどうかしらね?)
せっかく見つけた“金の卵”は、慎重に温める。
それがメリッサの仕事だった。
もう彼女の意識に、イスラの名はない。
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バルナバ近くの森の入口。
朝の光が木々の間から差し込み、湿った土の匂いが鼻をくすぐる。
(……絶対に負けない!)
剣の柄を握り、イスラは一歩を踏み出した。
期待と不安で胸は張り詰めている。だが後悔はない。
木陰の奥、不穏な気配が走る。――ゴブリンの群れだ。
小柄で俊敏、鋭い牙を剥き出しにして威嚇する。
「来たわね!」
言葉より先に剣が抜ける。刃が閃き、数体が同時に飛びかかる。
(落ち着け。相手は小物。数に惑わされない)
小さく跳ね、間合いを抜け、手数で刻む。
切っ先が腕や脚を的確に裂き、一体、また一体と崩れる。
背からの気配――反射で身を翻し、迎え打つ。鉄の手応えが掌に響いた。
(くっ……まだ余裕はある)
呼吸をひとつ置き、群れの中心を見極めて一気に踏み込む。
隙に斬撃をまとめ、動きを断つ。
――最後の一体が倒れ、森に静寂が戻った。
額の汗を拭い、耳を澄ます。地の底で、かすかな「土の鳴り」。
(……いるわね。ストーンモール)
少し先の地面が、細い線となって盛り上がる。
草の根が揺れ、土が微かに息をする。
イスラは足運びを浅くし、靴裏で土を軽く二度叩いた。誘いの合図。
次の瞬間、土が割れ、茶色の毛並みが弾ける。
――ストーンモール。
人の腰ほどの体躯、扇状に開く硬い前爪、土に慣れた小さな目。鼻先の皮膚は厚く、動きは素早い。
(右前脚が強い。初手は爪で横払う!)
予感どおり、地表を掻く一撃。
イスラは半歩外へ滑り、爪の終端へ刃を当てて力を殺す。
逆手へ返し、前脚の付け根を浅く裂いた。
「っ、硬い……」
毛皮と筋が想像以上に粘る。深追いは禁物。
イスラは土に耳を落とすように腰を落とし、線の走りを追う。
土がまた盛り上がる――潜っては出る、潜っては出る。モグラの常套。
彼女は一拍遅らせて小石を投げた。弧を描く小石に反応して、狙いがズレる。
そこへ踏み込み、鼻先のやわい皮を一閃で裂く。
甲高い鳴き。怒りで突き上げてくる体当たり。
イスラは体を斜めに開き、肩で流し、脇腹へ二の太刀。
土煙が舞い、視界が曇る。吸い込まぬよう薄く息をし、気配だけを掴む。
(次で落とす!)
低く踏み直し、突き上げの直前――爪の起こりで刃を差し込み、喉元へ短く突いた。
呻きがほどけ、ストーンモールは土に崩れた。
「ふぅ……」
荒い息が、ようやく細く整う。E級だが、油断すれば爪の一撃で骨がいく。
イスラは前爪を二本、証拠部位として外し、ゴブリンの耳とまとめて革袋へ収めた。
(やれる……E級に敵はいない!)
剣を拭い、鞘に納める。森の静けさが、戦いの余韻を吸い込んだ。
(余裕はある。もう少し狩れる……早く昇格するためにも)
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夕暮れ。街路が橙に染まり、イスラはギルドの扉を押し開けた。
「おかえりなさい、イスラさん。どうでした?」
受付のギルド員の声を遮るように、イスラは袋を差し出す。
「ゴブリンとストーンモール、討伐完了よ」
中身を確かめ、ギルド員は素直に頷いた。
「さすがですね。一人でここまで」
「E級が何体いようと、手こずらないわ」
(だから早く昇格させなさい)
遠回しの意思表示。ギルド員は慎重に言葉を選ぶ。
「では次は、ハーピーやアーススパイダーを目標に。討伐できれば昇格は近いです。ただし、魔法や糸を使う相手です。無理は禁物ですよ」
イスラは小さくため息をついた。
「所詮、その二つもD級でしょ。対処するわよ」
ギルド員は苦笑し、書類を記す。
「心得ていますね。ギルドカードを」
不満を押し殺しながらカードを渡す。作業を終えたギルド員が、それを返した。
「今日はゆっくり休んでください」
「……どうも」
イスラは「Eランク」と刻まれたカードを握りしめる。
(……この評価を覆す。必ず)
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イスラが出ていった後、カウンターの奥で事務員同士のぼやきが続いた。
「平均ランク、上がってたのにな」
「な。曲がりなりにもCランクが多いと楽だった。依頼達成率も良かったし」
「でも増長してた面もあったろ。……今は実力過信のやつが多すぎて、別の意味で面倒だが」
「前は平和だったよな。ゴブリン、ホーンラビットばっかで……オークが出たら大騒ぎ! イザークらに任せてな!」
そんな会話を横目に、メリッサは黙々と帳簿を進める。
「メリッサさーん! この後、飲みに行きません? “特別ギルド員”の武勇伝、聞きたいんですけど!」
「結構よ」
冷ややかに言い放つ。視線も冷たい。
「あなた達と話すメリットを感じないわ。冒険者の質を上げたいなら、適した依頼を組んで成長を支援しなさい」
「な……!」
「――都落ちに舐められる程度のギルド員しかいなかったから、私とオルド支部長が呼ばれたの。自覚してほしいわね」
一言残して席を立つ。
取り残された二人は、ただその背に舌打ちを飲み込むしかなかった。
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その頃、飲食街の外れ。オリバーの店は開店準備の真っ最中だ。
内装はまだ半ば。だが、夜遅くまでメニューと値段を練り、インキーの家具が形を帯び、トビーが帳面に数字を走らせる。
少し離れて、その光景を見つめるイスラ。
(……頑張って。私も頑張る)
胸に灯る温かさと、微かな寂しさ。
秋の夜風は冷たいのに、しばらくその場を離れられなかった。
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それからもイスラは、がむしゃらに依頼をこなし続けた。
与えられるのはE級の討伐依頼ばかり――だが、全て一人でやり抜く。
そしてついに、昇格依頼に手が届く。
【乗合馬車の護衛】
野盗や魔物から馬車を守る、定番にして重要な依頼。イスラは迷わず引き受けた。
だが、街道馬車組合は難色を示したそうだ。
「Eランク一人では不安だと。同行者が決まらなければ、依頼自体を取りやめます」
「つまり、私では不足しているって判断したのね?」
「率直に申し上げれば。現在の乗客は二人ですが、日を改めても良いとのこと。明日までに決まらなければ、依頼は中止です」
「……明日、また来るわ」
納得するしかなかった。
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翌日。簡単な依頼を終え、ギルドに戻る。
イスラが口を開くより早く、受付が弾む声で告げた。
「良かったですね! 無事にスパール行きの護衛が決まりました!」
「そう。誰が一緒に?」
「期待の新人冒険者ですよ!」
手渡された依頼書。その名を見て、イスラの表情が固まった。
「……アイオン」
「この前すごい戦果を上げたんです! ゴブリンやボブゴブリンを大量討伐、さらにオーガを二体も!」
「オーガ!? そんな化け物が?」
「ええ。前回の調査の範囲外だったようで……ギルドの落ち度ですね。でも、魔石は立派、素材も上等。イザークパーティと一緒だったそうですが、分配に不満はなかったとか。つまり、同等に働いたのでしょう」
誇らしげに語る受付の横で、イスラは唇を噛む。
(ふざけないで。イザークさん達に寄生しただけよ……でなきゃ――!)
「イスラさんの方が先輩ですし、道中のリードはお任せします。Dランクになれば新人のフォローも仕事ですから。ランクは向こうが上ですけどね!」
「……わかったわよ」
足早に踵を返す。昇格の機会は逃せない。
(アイオン――思い知らせてやる! 私の方が上だって。オルド支部長の判断は間違いだって)
イスラはまだ知らない。
アイオンとオルドの手合わせも、彼の本当の実力も。
そして、自分自身の、正確な実力も。




