第三章最終話 ひとり
バルナバの門前。
外では移民たちが開拓村への移動準備を進めており、騒がしい朝だった。
木々の葉はほとんど落ち、冷たい風が吹き抜ける。
季節の終わり――別れの季節にも似ていた。
乗合馬車は出発の支度を整え、二人の乗客がそれぞれ乗り込もうとしている。
アイオンは御者に声をかけられ、軽く応じた。
「お前さんが護衛兼乗客の……アイオンだな? もう一人は?」
「知りません。一緒に行動している人ではありませんので」
そう答えたとき、一人の少女が姿を現した。
「時間通りね?」
「……お前さんがEランクの?」
「……そうよ。この依頼が昇級試験でもある。邪魔はしないでね、Cランクさん」
ぶっきらぼうにギルドカードを差し出し、そのまま馬車へ乗り込んでいく。
数日前、三馬鹿の店ですれ違った少女だと気づき、アイオンは少しだけ驚いた。
(奇妙な縁だな……)
「なんだあの態度は。……あと一人、乗ってくるはずだ。そいつが来たら出発するぞ」
「わかりました」
御者は腰を下ろし、馬の背を優しく撫でる。
アイオンとカーラは向かい合った。
少し後ろには、イザークとエリーも立っている。
「もう、行くんだよな」
カーラが口を開いた。
声は平静を装っていたが、微かに震えていた。
「はい。名残惜しいですが」
アイオンは小さく笑みを浮かべ、肩に荷を担ぐ。
「……お前らしいな」
カーラは肩をすくめたが、すぐにわずかに唇を噛む。
「……でも、やっぱり寂しい」
アイオンは黙って頷いた。
「俺も同じですよ。……なんだかんだで、楽しい時間でしたから」
「でも、永遠の別れじゃないしな!」
カーラの口元が少し緩む。
「お前のためにも、私のためにも……絶対に追いつく! それまで、お互いの道を進む。それだけだ!」
「そうですね。不安はありますが……イザークさんたちにお任せします」
アイオンは後ろの二人へ視線を送った。
「わかってるよ! 次に会うときは、お互いAランクになってようぜ!」
「簡単にAなんてなれないよ。でも、カーラのことは、私がしっかり面倒を見るよ。約束する」
イザークはいつも通り陽気に、エリーは現実的に言葉を返す。
そんなやり取りも、もうしばらくできなくなるのだと実感が胸に迫った。
その時、フードを深くかぶった人物が現れ、御者に話しかける。
「お待たせしました」
最後の乗客だ。これで出発となる。
「よし、揃ったな! 兄ちゃん、乗りな!」
「はい。それでは……お元気で」
アイオンは深く頭を下げ、一人ひとりと握手を交わしていく。
「次に会うときは、奢ってくださいよ」
「俺がAランクでお前が下のランクだったらな!」
イザークは笑い飛ばす。気づけば、彼は頼れる兄貴分になっていた。
「カーラさんのこと、よろしくお願いしますね」
「任せて! 後悔させないよ。アイオンも、頑張ってね」
エリーの笑顔は優しく、確かな安心を与えてくれる。
そして最後に、カーラ。
握手を交わした瞬間、互いに言葉を失い、沈黙が落ちる。
「――なあ、アイオン」
カーラが真剣な目で見つめてくる。
「もう、言葉はいらないよな」
アイオンはまっすぐに彼女を見返し、ゆっくりと答えた。
「そうですね。――待っていますから」
「おう! 待ってろ!」
カーラは笑い、強気に装って見せる。
だが次の瞬間、衝動のようにアイオンを抱きしめた。
「……お前は、お前のままでいてくれよ。私は……そんなお前が、一番好きだから」
「……ありがとうございます」
名残惜しげに、二人はゆっくりと離れた。
御者が手綱を掲げる。出発の合図。
「それでは、皆さんお元気で」
アイオンは最後に振り返り、馬車へ乗り込む。
車輪が軋み、やがて街道へと進む。
カーラは笑顔のまま、大きく手を振り続けた。
――馬車が完全に見えなくなるまで。
#
静寂が戻った瞬間、笑顔は消え、頬にひとすじの涙が流れる。
「……偉いね、カーラ。泣かないで、笑顔で見送れた」
エリーがそっと肩を抱く。
「もっと熱烈に見送ってやりゃ良かったんじゃねーか? 次いつ会えるかわかんねぇんだぞ? あいつモテるしよ」
イザークはいつもの調子で冗談を言う。
だが、それは自分を慰めるためだと、カーラは理解していた。
カーラは涙を拭わず、ぽつりと呟く。
「――あいつ、言ったんだ。笑ってる方がいいって。……暫く会えないんだ。思い出すのは……笑った顔であってほしいじゃんか……」
秋の終わりの冷たい風が、その小さな声をさらっていった。
#
馬車の揺れが、まだ心に残る街の気配を少しずつ遠ざけていく。
見送ってくれたカーラの笑顔が、ふと瞼に浮かぶ。
――泣いてはいなかった。けれど、あのまなざしの奥に隠された想いには、気づかぬふりをするしかなかった。
(……俺は、うまく笑えていただろうか)
小さく息を吐く。
使命や目的を背負っているわけではない。
だが、女神に世界を見せたいという思いに嘘はない。
同時に、自分自身が世界を見たいという気持ちも確かにあった。
懐かしい匂いや、見慣れた景色。
それらはしばらく戻らない場所となり、寂しさが胸に広がる。
けれど、意外にも心は晴れやかだった。
「――あまり、感傷には浸らないんですね?」
フードを被った乗客が、静かに声をかけてきた。
その声に聞き覚えがある。
「名残惜しいとも、寂しいとも思いますが、永遠の別れではないので。なぜ、あなたがここに?」
アイオンは確信を持って問いかける。
フードを外す。
そこには、穏やかな微笑みを浮かべたメリッサがいた。
「移動の辞令が出たので。急でしたが、なんとかねじ込めました」
「――嘘でしょ」
同じ依頼を受けた少女が呟く。
「オルド支部長と一緒に赴任したばかりなのに、すぐ移動させられるなんて……そこまでギルドは人手不足なの?」
「はい。人材は常に不足してます。なので、私のような身軽な者は余計に自由に使われるんですよ。
……よければ、転職なさいませんか? 冒険者からギルド員になる方も多いですし、歓迎しますよ? イスラさん」
「お断りよ」
少女――イスラは短く答え、再び外の景色に目を向けた。
他の乗客は関心がない様子で、それぞれ好きなことをしている。
「それで、どちらまで?」
「さぁ? 詳しい場所は本部で決めるようなので、王都まで行くことになりますね」
「ずいぶん雑な辞令ですね」
「困ったものです。ですから、道中よろしくお願いします」
「王都まで一緒の馬車に乗るとは限らないですよ」
「そうですね。ですが、そうなる可能性は高いですよ?」
メリッサは穏やかに微笑んだ。
それを見て、アイオンは少しだけため息をつく。
(……なにを考えてるんだか)
暫く戻れない故郷を思いながら、外の景色を眺める。
秋の終わりを告げる冷たい風が頬を撫で、その冷たささえ新しい世界への招待状のように感じられた。
車輪の跡を見つめる。
進む分だけ、バルナバから――オルババ村から離れていく。
(――なんにせよ、ここからだ)
旅が始まった。




