9章:支配と安堵の境界で
その日は、取引先との調整が難航し、真琴は少し苛立っていた。
社内に戻ると、すでに弓弦は会議室で一人、淡々と資料をまとめていた。
「……何でお前がやってんだ」
「あなたが苛立って帰ってくる気がしたので、先に整理しておきました」
彼は振り返らず、端正な横顔のまま淡々と答えた。
「……エスパーかよ」
「あなたの習性なら、ある程度パターンで読めます。さっきの取引先、口調が早口になったでしょう? その時点で“情報を整理したがっている”状態です。なら、先回りすればいい」
まるで天気を予測するように、人の感情を分析して当てにくるその精密さに、背筋がうっすらと震えた。
「お前、いつからそんなに……俺のこと、見てた?」
思わず問いかけたその声には、自分でも気づかないほどの微かな揺れがあった。
「最初からですよ。あなたの判断と選択が、ずっと気になっていた。観察対象としても、……それ以上としても」
後半の言葉は、囁くように静かだった。
ふいに、胸の奥が妙にざわついた。
腹が立つわけでも、拒絶したいわけでもない。だがこの感情は、明らかに仕事の枠ではない。
安心したような、でも、足を取られるような。
これが——「惹かれる」という感情のはじまりなのか?
不意に、弓弦がこちらへ歩み寄ってくる。
目の前に立ち、真琴の手元のタブレットを、そっと指先で閉じた。
「今は、資料よりも、あなたの目を見ていたい」
その言葉に、息が詰まった。
視線をそらそうとしたのに、できない。
まるで、支配ではなく、包囲されているような——そんな不思議な安堵感に飲み込まれていく。