58章:囲われているのは、どちらだ
東京に戻った翌週、社内はいつもの慌ただしさを取り戻していた。
――はずだった。
真琴が会議室に入ると、すでに弓弦はプロジェクターの調整を終えていて、
資料まできれいに配られていた。
「……早いな」
「主任が来る前に、整えておくのが当然でしょう?」
それはただの仕事。
けれど、彼が淹れていたのは真琴の好みのブラックコーヒー。
あの夜から、朝の飲み物は変わっていない。
「……別に、いちいち気を回さなくていい」
「気なんて、回していませんよ。“あなたの快適”が、僕の効率を上げるだけです」
どこまでも冷静に、しかしその実、
すべてが「真琴の基準」で動いているという事実が、じわじわと胸を締め付ける。
*
その日の昼、他部署の若手が真琴に話しかけてきた。
「長谷川主任って、柊木さんにずっとつきっきりですよね。あの人、長谷川チーム以外の案件、今月ゼロですよ?」
「……あいつの希望か?」
「いえ、あの人から“他の部署との兼務は避けたい”って言われました。
『自分の適正が最も活かせるのは、主任の元だけなので』って」
真琴は絶句した。
それはもう、“無自覚”というには周到すぎた。
*
その夜、オフィスの非常階段でタバコを吸いながら考える。
囲ってるのは、俺か。
それとも――囲われてるのは、俺か。
「……主任、体調崩したりしてませんよね?」
背後から聞き慣れた声。振り向けば、いつの間にか弓弦がいた。
手には、コンビニで買ったアイスコーヒーが2本。無言で1本、差し出してくる。
「甘いやつだな。俺、甘いの飲まないって――」
「今朝、ブラックばかり飲んでたから。そろそろ、糖分が必要な頃だと思って」
それは、観察と戦略による“判断”だった。
でも、まるで**“愛情”にしか見えない**やり方で。
真琴は、冷たい缶を受け取りながら、自嘲気味に笑う。
「……お前、気づいてないかもしれないけど、そういうのはもう“恋人の特権”っていうんだぞ」
弓弦は笑わなかった。ただ静かに、こう言った。
「じゃあ、僕にその特権があること――あなた自身が認めてくださいよ」
その言葉に、心がじわ、と熱くなる。




