55章:選んだのは、沈むことだった
ホテルの部屋――。隣室の音すら聞こえない静寂。
出張の最後の夜、会食も終わり、残るのは二人きりの空間と空気だけだった。
「主任、ソファで寝る気ですか?」
「……落ち着くんだよ、こっちの方が」
逃げ口上だと、真琴自身も気づいていた。
でもそれでも、踏み込まれたら戻れないと、何度も分かっていた。
弓弦はソファの前にゆっくり膝をつき、視線を合わせる。
その手が、真琴の頬に触れる直前で止まった。
「……僕のこと、怖いんですか?」
「怖いに決まってるだろ。お前と関わると、どんどん……俺がおかしくなる」
「じゃあ、どうします? 抗いますか。逃げますか。それとも、沈みますか」
低く、静かで、優しい声。
選択肢を提示してくるいつもの口調なのに、そこにあったのは明確な“誘惑”だった。
真琴は、ゆっくりと手を伸ばし、弓弦の襟元を掴む。
「……俺が溺れたら、お前は……全部、引き受ける覚悟があるんだな?」
「ありますよ。あなたの理性も不安も過去も、全部まとめて、ね」
それは、“支配”ではなく“選択”だった。
そして、真琴はそれを――選んだ。
ソファに沈むように身を倒し、弓弦の唇に自分から、触れた。




