53章:一線を越えない、でも戻れない
キスのあと、弓弦は何も言わなかった。
真琴も、それ以上なにもできなかった。
ただ、沈黙のまま夜が更けていく。
ソファに座ったままの二人の間には、数歩分の距離と、重たい余韻だけが残っていた。
「……もう寝ろよ。明日も早いだろ」
真琴がぽつりと呟く。声はひどく落ち着いているのに、指先が微かに震えていた。
弓弦はゆっくりと立ち上がり、真琴のすぐ横で小さく微笑む。
「じゃあ、おやすみなさい。主任」
そして、なぜかその言葉の最後だけが、やけに柔らかくて甘かった。
ドアの向こうに彼の姿が消えても、真琴の胸の内ではその声が何度も反響していた。
*
翌朝。
外はまだ薄曇りで、ホテルのロビーにはほとんど人の気配がない。
「おはようございます」
弓弦がコーヒーを片手に、自然な足取りで隣に並ぶ。
けれど、目の奥には明らかに昨夜の続きがあった。
あのキスを、「なかったこと」にしていない視線だった。
――ああ、これは、終わりじゃなくて始まりだ。
真琴は、胸の奥が少しだけ痛むのを感じながら、黙って受け取った。
彼の用意した、もうひとつのコーヒーを。
「……ブラック」
「必要な情報なので」
淡々とした口調。けれどその一言が、妙に意味深に聞こえるのは、きっと気のせいじゃない。




