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52章:逃げても、もう遅い
会議も外回りも終わり、ホテルの部屋に戻った。
ドアが閉まる音が、やけに重く響く。
「静かですね。主任、緊張してます?」
弓弦が微笑む。その距離は、もういつもの“同僚”の間合いではなかった。
「……してない。お前が、そう仕向けてるだけだ」
「へぇ。だったら、俺のせいですね」
涼しい顔。挑発的な笑み。そのくせ目だけが、真琴の一挙手一投足を逃さずに見ている。
その視線が、苦しい。焦がれるように、焼きつく。
背を向けようとした瞬間、腕を引かれた。
引き寄せるでもなく、ただ手首を包まれただけ。けれどそれが、限界だった。
「……なんで、こんなに面倒なんだ」
自分でも驚くほど、声がかすれていた。
理屈では抗えなかった。逃げる理由は、とうに残っていなかった。
真琴は、静かに顔を上げた。
そして――意を決したように、弓弦の首元に手を添え、口づけた。
ほんのわずか、唇が触れるだけのキス。
でも、それはたしかに「始まり」を告げるものだった。
「……やっとですね」
弓弦の声が、低く甘く響く。




