5章:沈黙の支配
オフィスの照明が夜用に切り替わる頃。
フロアにはもう数人しか残っていない。ふと顔を上げると、隣のデスクに人影があった。
「……まだいたのか」
真琴が言うと、弓弦は書類から顔を上げ、静かに笑った。
「ええ、先輩が帰るまでは」
「付き添いか? まさか、お前がそんな殊勝な性格だったとはな」
軽く茶化したつもりだった。だが、返ってきたのは予想外に低く甘い声だった。
「違いますよ。ただ――」
弓弦は椅子から立ち上がり、ゆっくりと歩み寄る。
机に手をついて身をかがめると、真琴との距離が一気に縮まった。吐息が頬にかかる。
「……先輩の隙を、誰にも渡したくないだけです」
真琴は咄嗟に椅子を引こうとした。だが、背もたれが壁に当たり、逃げ場はなかった。
「……お前、冗談が過ぎるぞ」
「本気だと、わかっていて言ってますよね?」
弓弦の声は淡々としているのに、どこか熱を帯びていた。
手を伸ばしてきたわけではない。けれど、この空気の支配感は、言葉よりも濃密だ。
「先輩、意外と表情に出るんですね。……照れてる?」
「……は?」
「ほら、耳、赤いですよ」
わずかに笑った声が、耳元でくすぶる。
触れていない。だが、目の奥に潜む熱を、真琴は確かに感じていた。
この男は、距離を詰めるのではない。
“逃げられないと確信した時にだけ”近づいてくる――そのやり方が、あまりに巧妙で、あまりに色っぽかった。
この瞬間、真琴は自覚した。
柊木弓弦は仕事でも恋でも、理性ごと奪ってくる。