45章:逃げ道に先回りされる恋
翌朝、真琴は珍しくオフィスに早く着いた。
まだ誰もいないフロアで、パソコンを立ち上げる音だけが響いている。
――距離を取る。これ以上、情に引きずられたら自分らしくいられない。
理性的な判断のつもりだった。
弓弦のペースに呑まれてはいけないと、自分に言い聞かせていた。
(仕事に徹すればいい。あいつとプライベートを混ぜなければ)
だが、その決意は、朝礼が終わってすぐにあっさり崩れる。
「おはようございます、主任」
いつもの声。変わらぬ微笑。
だが、弓弦は真琴の机に資料を置いたあと、さりげなく言った。
「今夜の予定、空けておいてもらえますか? こちら、クライアント側の再調整でして」
「……え? お前、俺に言わずもう予定組んだのか?」
「はい。だって、逃げられると面倒なので」
さらっとした声音。目は笑っている。
けれど、その言葉に含まれた“確信”が、真琴の呼吸を止めさせた。
こいつ……わかってる。
俺が距離を置こうとしてることに。
仕事を理由に逃げようとしてることも、全部。
「……本気で鬱陶しいな、お前」
「それ、逃げられないってことですよね?」
ニコ、と音を立てるような笑み。
真琴は咄嗟に視線を逸らしたが、その態度こそが答えになってしまうのを、誰より自分が理解していた。
その夜、クライアント対応が終わったあと、タクシーを呼ぼうとした真琴に弓弦が声をかける。
「主任のマンション、こっち側の出口のほうが近いですよ」
「は?」
「……言いましたよね。君の選択肢は、俺が管理するって」
静かに差し出されたスマホの画面には、真琴の帰宅ルートと現在位置、混雑状況まで完璧に把握された地図が表示されていた。
これはただの気遣いじゃない。
この男は、“退路”を先に潰してから甘さを投げてくる。
そのことに、真琴は今さらながら――本当に逃げられないと、ようやく悟る。
(……俺が、遅かったんだ。もう、とっくに囲われてる)
夜風が少し冷たい。
けれど隣を歩く男の、一定の距離と熱が、妙に心地よくなっていることが――一番の敗北だった。




