42章:抗えない優しさ
「これ、主任の分、先にまとめておきました」
弓弦は、手元の資料を差し出した。
真琴が今から作業にかかろうとしていた案件の書類だった。必要事項はすでに記入され、抜けもない。
「……早いな。いつの間に」
「昨日の夜、あなたが眠った後に。手が空いてたんで」
その一言で、胸の奥がわずかに熱を帯びた。
昨日、自分が眠るまでの時間を、彼は黙って“補完”に使っていた――それも、何も言わずに。
恩着せがましさは皆無だった。ただ、“当然のように”与えてくる。
(ずるいな、こいつ……)
昼休み、オフィスの休憩室。
弓弦が、さりげなく自分のコーヒーと真琴の紅茶を並べて置いた。
「……覚えてたのか、俺が紅茶派って」
「当たり前じゃないですか。主任がコーヒー飲むのは、本当に眠れない日だけですから」
弓弦はカップを持ったまま、ふっと目を細めた。
笑っているようで、どこか意図が読み取れない顔。
だがその分、深く沈み込んでくる“観察”の気配に、真琴の心臓がまた跳ねる。
その日、終業後。
真琴が帰ろうとしたタイミングで、弓弦が少し離れた場所から声をかけた。
「今日は送ります。昨日の続きがあるんで」
「……続き?」
「“絆されるかどうか”の、結論です」
冗談とも本気とも取れないその言葉に、なぜか足が止まった。
振り返った真琴に、弓弦はゆるく微笑む。
「抗うのもいいですが、選ぶのはそろそろ楽になってもいい頃じゃないですか?」
その誘いを、今日の真琴は――断れなかった。
夜の車内。
助手席に乗った真琴は、ただ黙って車窓の流れを眺めていた。
弓弦は何も言わず、ただ穏やかにハンドルを握る。
無言なのに、居心地がいい。
安心してしまう自分が、ほんの少し、怖かった。
もう少し、真琴が揺れます。勘弁して下さい。




