41章:逃げ場のない問い
翌朝、真琴はベッドの中で重たいまぶたを開けた。
部屋には、もう弓弦の姿はなかった。
代わりに、テーブルの上に置かれたメモと、淹れたてのコーヒーの香りだけが残されている。
『今日の会議、僕が先に押さえておきます。焦らず、支度を。――柊木』
まるで長年の恋人が残していくような、自然すぎる痕跡。
だが、それに胸を掴まれるような息苦しさを覚えた。
(――おかしい。俺たちはまだ、何も始まってない)
言い聞かせるように思考を巡らせるが、記憶は昨夜の距離感を何度も繰り返し呼び戻す。
肌の温度、匂い、指先の感触――すべてが“未遂”なのに、“記憶”として濃すぎる。
出社後、オフィスの空気はどこかざわついていた。
理由は明確だ。弓弦が朝から上機嫌で、同僚の何人かは「何かいいことあった?」と軽口を叩いている。
そのたびに、真琴の心臓は跳ねた。
「主任。今夜、時間空いてます?」
弓弦がいつもの調子で話しかけてくる。
だが、真琴の返事は少しだけ遅れた。
「……案件次第だな。急ぎで片付けてから、判断する」
「なるほど。それじゃ、案件の処理も手伝いますね。二人でなら、早く終わるでしょう?」
その言葉に、思わず視線を外した。
弓弦の意図が、わかりすぎるほど透けていた。
そして、自分もその誘導に抗いきれていないことが、何よりも厄介だった。
デスクに戻っても、集中できない。
書類の文字が目に入らない。
――昨夜のあの一歩手前で止まった感覚。
あれが、どうしても頭から離れなかった。
(……これ以上踏み込んだら、たぶん俺は――)
真琴は、自分の心が揺れていることを、もう否定できなかった。